お前に花束を



 金木犀が香る季節。
 緑少ないオフィス街だというのに、夜になってもあの香りはそこここから漂い、冷たい空気を少しだけ甘く彩る。
 仕事を定時で切り上げた俺は、家とは逆方向へ向かう電車に乗り込んだ。目的地は昔ながらの老舗が建ち並ぶ一角で、今日はとあるものを受け取ってから帰る事になっていた。
 普段よりも早い時間だが、それなりに電車は混んでいた。駅に着く度に人が降りてまた同じだけの人が乗ってくる。縁の薄い路線だけに、乗り過ごしてはならないと思い、電車が駅に停まる度に駅名を確認してしまう。
 十分ほどの乗車で、目的の場所へ着いた。駅を出て暫く歩けば、目的地が見えてきた。
 軒下に掛かるのれんを見て、間違っていない事を確認した俺は、引き戸を開けて中へと入った。
「すみません、注文したものを受け取りに来た真田です」
「ああ、お待ちしておりました」
 時間が早い所為か、店の中にまだ客の姿はなかった。年配の女将が出てきて俺の顔を確認すると、厨房へと戻っていった。待つ間、甘辛いタレの匂いと、魚を焼く香ばしい香りがふわりと漂ってきて、鼻をくすぐる。途端、ぎゅうと腹の虫が鳴いた。だが腹の要望を満たすのは、家に帰ってからだ。
 以前に一度来たことのある店だ。もう十年近く前になるはずだが、あの頃と何ら変わった様子は無かった。女将も、そして厨房で働いているであろう主人も、きっと。
「お待たせしました」
 程なくして女将が持ってきたのは、綺麗な薄紫色の風呂敷に包まれたものだった。受け取ればまだほのかな熱を感じる。
「タレも入れておきましたのでね、掛けてお召し上がり下さい」
「ありがとうございます」
 俺は代金を支払うと、見送る女将に頭を下げて、店を後にした。受け取った荷物を大事に抱えて再び電車に乗り込む。今度は来た時より少しだけ空いていた。何にせよ、人混みで潰されてはかなわない。
 混雑するターミナル駅で電車を降りて、今度は家へ向かう路線の電車に乗り換える。普段使わない通路を使って改札へ向かう途中、店が建ち並ぶ一角に花屋があることに気が付いた。
 近づくと、金木犀とは異なる花の香りが立ちこめている。そしてむっとした緑の匂いは、どこか実家の庭の匂いに似ていて、急に実家が懐かしく感じられた。仕事が忙しいと理由を付けて長らく帰っていないが、今度の連休にでも一度帰ってみようかと思うほどに。
 自然と、俺は足を止めて花に見入っていた。手前には女性が好みそうな配色の花束が大小様々に並んでいる。これだけ目立つのだから誰か買う人がいるのではないかと思ったが、不思議と皆足早に通り過ぎていく。
「何かお探しですか?」
 足を止めたままだった俺に気付いた店員が声を掛けてきて、ハッとした。俺のような男が足を止めていた所為で誰も近づかなかったのではないか。それならば店に申し訳ない事をしたと、立ち去ろうとしたとき、一輪の花が目に入った。
 小さなひまわり。夏を象徴するこの花の時期はとうに過ぎているはずだが、まだ売っている店がある事に驚いた。店員も俺がひまわりに目をとめたことに気付いたのか、ああ、これで最後の入荷なんです、と口を添える。
 それならば、と何故か思ってしまった。花など買うつもりはなかったはずが、俺の口はあっさりと、店員にこう告げていた。
「ひまわりを中心にして、小さな花束を作ってもらえませんか」
 店員は分かりました、と言うや否や、手早く他の花を選ぶと、信じられない速度で美しい花束を作り上げていく。俺は店の隅で邪魔にならぬようにその手際を見ていた。
 その時、何かメッセージを添えますか、と尋ねられた。少し考えて、誕生日祝いのメッセージを、と言うと、店員はペンとカードを差し出した。
「自筆の方が喜ばれますよ」
 それらを受け取った瞬間、これを受け取る相手の顔が頭に浮かんだ。あいつはカードの文字が俺の字かどうかなど気にするだろうか。きっと気にしないどころか、気付くことすらしないかもしれない。そう思ったが、今更このカードとペンを返す事も出来ない。仕方なく、カウンターの隅で、小さなカードに「誕生日おめでとう」と書いた。
 カードを書き終わったと同時に、花束も出来上がっていた。店員はそれを花束の中心に差し込むと、花束をすっぽり包む袋に入れてくれた。
「喜んでもらえますように」
「ありがとうございます」
 代金を支払って花束の入った袋を受け取った。紫色の包みに花束の入った袋、そして元々の仕事用の鞄。もう何も持てない。今日が傘の必要ない日で本当に良かったと思いながら、店を後にして改札へと向かった。


 デリケートな荷物を二つも同時にもつものでは無いと、己の迂闊さを猛省しながら、俺は最寄り駅から部屋までの道を歩いていた。ここでも金木犀の香りが漂っている。だが天気予報では数日後から雨の予報となっていた。その頃には雨で花も落ち、この香りを嗅ぐこともなくなるのだろう。
 何とか部屋の玄関前までたどり着いた俺は、鍵を開けようと花束の袋を一旦床に置き、鞄から鍵を取り出した。さあ差し込もうとしたその時、中から鍵の外れる音がして、すぐに扉が開いた。
「真田、おかえり」
「帰っていたのか、手塚」
「ああ。そしてお前が帰ってくる姿が窓から見えたので、もうそろそろだろうと思っていた」
 買ってきてくれたか、と手塚が視線を向けるのは、俺の手にある紫色の風呂敷包みだ。今日が誕生日である手塚のリクエストで、中には鰻の蒲焼きが入っている。
「ところで真田、それはなんだ」
「ああ。これもお前にだ」
 俺は足下に置いた袋から花束を取り出すと、鰻の包みより先に花束を手塚に押しつけた。そして、
「誕生日おめでとう、手塚」
 そう言うと、手塚は意外な事に目を細めて、まさかお前にやり返されるとは、と笑った。
「何の話だ?」
「何年か前、俺がお前の誕生日に花束を買ってきたことがあった事を覚えていないか?」
 ハッとする。手塚の発言を切っ掛けに、その時の事が思い返された。確か、あの日は手塚が花束を抱えて帰ってきた。まるで今日の俺と同じように。
「断っておくがな、手塚。お前の真似をしたわけではない。現に先ほどまで俺はその事を忘れていた」
「覚えていての悪ふざけかと思ったぞ。でも、このひまわりは綺麗だ」
「そうだろう? その花が目に付いたから、つい、な」
「このカードは、お前の字だな」
 そう言われて、俺は驚いた。まさか手塚が気付くとは。素直にそう言うと、些か呆れた様子で、
「何年お前と手紙のやり取りをしたと思っている。お前の字ならば見れば分かる」
 どうだ、と言わんばかりの手塚に、言われたこちらが恥ずかしくなってきた。思わず足を止めた俺に、手塚は何食わぬ様子で、さあ早く鰻を食べよう、と急かす。
 いつも手塚に振り回されてばかりな自分を腹立たしく思いながらも、そんなところも含めて、こいつの事が好きなのだと思い直して、俺は鰻の包みを手にキッチンへ向かった。
 今日はもういらないと言うまでうな茶を食わせてやるからな。覚悟しろ、手塚!

おわり。