君に花束を



 アスファルトが雨に濡れた匂いがする。
 このところずっとすっきり晴れた良い天気が続いていたのに、今日に限って雨だ。雨の日は電車が混むからあまり好きではない。誰かの濡れた傘が別の誰かの衣服を湿らせ、足下は水浸しで油断すれば滑るからいつも以上に油断出来ない。
 乗換駅でJRから私鉄の電車に乗り換えるために歩いていると、雨の日特有の匂いに混ざって、微かに植物の匂いが鼻先を掠めた。コンクリートと人しか見当たらない駅の中で植物の匂いがするとは思いもよらず、歩きながら当たりを見回す。
 その時初めて、俺は駅の中に花屋があったことを知った。花屋は駅に併設されている女性向けのファッションビルの入り口のすぐ傍にあったが、そのビル自体に立ち寄ることがなかったため、今までそこに店があることすら知らなかった。気付いたのも、偶然傍を通りかかり、植物の匂いがしたからで、それがなければこの先も気付くことはなかっただろう。
 俺は足を止めていた。店先には多くの女性がいたが、その殆どが花屋ではなく、駅の方を見ていた。待ち合わせの目印に使われているのだろう。花を見ているのは、店員くらいしかいない。店頭にはそれこそ女性が好みそうな柔らかい色合いのブーケがいくつも並んでいるというのに、誰も興味を示そうとしないのが不思議だった。
 その時、俺が足を止めていた事に気付いた店員が、こちらを見て何かお探しですかと声を掛けてきた。ただ見ていただけだ、と言いかけて、俺は右手に持った荷物の事を思い出す。予定外ではあるが、花を添えるのも悪くはないだろう。
「花束を一つ、作って欲しいのですが」
 俺の言葉に、店員はにこりと笑い、わかりましたと頷いた。


 満員の乗客に押しつぶされないよう細心の注意を払って花束を運ぶ。
 作ってもらったそれは、俺が持つにはとても不釣り合いなほど可愛らしいものだった。そして、渡す予定の相手にもおそらく、いや絶対に似合わない。むしろ文句を言われるだろうがそれは覚悟の上だ。
 花屋の店員は気を遣って大きな袋に入れてくれたから、それほど目立ってはいないはずだが、普段滅多に手にすることがないものを持っているというのはどうにも落ち着かない。慣れないことはするものではないなとため息を吐く。
 最寄り駅に着く頃には、雨は上がっていた。花束を衝動的に買ってしまった所為で、傘を持つことを考えていなかった俺は、雨が上がっていたことに胸をなで下ろす。両手に荷物を持ったまま雨の中を歩く事は避けたい。
 右手に荷物、左手に花束の入った袋を提げ、家までの道を歩いて行く。花束を渡す相手は既に家に帰ってきているだろう。今日は好物の料理を作るのだと朝から張り切っていたから。
 駅から歩いて十五分ほどの場所にあるマンションの一室が俺たちの家だ。外から部屋を確認すると、カーテンの隙間から明かりが漏れていた。真田の在室を確認した俺は、花束を袋から取り出すと、左手に抱える。そのままマンションのエントランスを通り、エレベーターを使って俺たちの部屋へ向かうと、ドア横にあるチャイムを二度押した。
『……誰だ?』
 訝しむような声が聞こえてきたので、俺だ、と言うと、ぶつりとマイクが切れる音がした。代わりに足音が聞こえてきて、がちゃりと玄関の扉が開く。
「ただいま」
「おかえり。所で何だ、その花は」
 ドアを開けた真田は、予想通り訝しげな表情で俺と左手に抱えた花束を交互に見た。
「プレゼントだ。お前に」
 そう言って手にしていた花束を真田に押しつけるようにして渡した。真田はそのまま素直にそれを受け取ったが、どうして花束なんか、という疑問がありありと浮かんだ表情だ。
「誕生日おめでとう、真田」
 俺がそう言うと、ようやく理由を理解したようだったが、代わりに眉根を寄せて、お前は何を考えているんだ、と僅かに呆れを含んだ口調で、そう言われた。
 そして、真田が持つ花束は、予想した通り真田にまるで似合っていなかった。
「……いつまで玄関に突っ立っているつもりだ。早く部屋に入らんか」
 俺を残し部屋の奥へと向かう真田の後について歩いて行く。本当のプレゼントを渡し損ねてしまった事に気付いて、どうしたものかと思案していると、真田が背中越しに、
「お前もこのような悪ふざけのようなことをするのだな」
 知らなかったぞ。そう言った真田は、花束を渡した時に見せた呆れた表情から、少しだけ笑みを含んだ表情に変わっていた。
 おかげで俺はますますその花は元々買うつもりがなく、単なる気まぐれだったということを口に出来なくなってしまった。だが、花を抱えて笑う真田を見られたことを思えば、自分の選択は間違っていなかったのだと思う事にした。
「真田、誕生日おめでとう」
 もう一度、そう口にすると、少しだけ照れくさそうにしながらも、今度は素直な礼の言葉が返ってきた。