背中ごしの体温



 午後九時。
 真田は初めて足を踏み入れた手塚のアパートで、渋い顔をしていた。
 反対に手塚は涼しげな表情だ。来る前から分かっていただろうと言われれば、真田には反論の余地もない。
 だが、実際にそれを目の当たりにすれば、文句の一つも言いたくなるというものだ。
「……この狭いベッドで寝ろと言うのか」
「そうだ」
「お前と二人で」
「そうだ」
 確認するかのように何度も同じ事を口にする真田に、手塚は僅かに苛立ちを含んだ口調で、
「来る前から分かっていただろう。日本ではないのだから、客用の布団などない」
「それはそうだが」
 アルバイトなどでこつこつと貯めた資金に、僅かながら家族の援助を受けてーー真田は不要だと断ったが、半ば無理矢理持たされたーー単身ドイツへとやってきた真田は、手塚が住んでいるというアパートに世話になる事になっていた。
 だが、そこは単身向けのアパートだ。客用の余分なベッドなどあるはずもなく、家具も最低限のテーブルや棚があるのみだ。普段はテニスの練習や試合などで忙しく、部屋の中で過ごすことが少ないという手塚だから、不便はないのだろう。
「長旅で疲れているだろう。早く荷物を片付けて、今日は寝よう」
 手塚はタンスらしい棚の中からバスタオルを取り出すと真田に押しつける。仕方なくそれを受け取った真田は、手塚に背中を押されるようにしてバスルームへと向かった。
 手塚が言うとおり、慣れない異国への旅による緊張感と、狭い飛行機に長時間乗った事による疲労はピークに達していた。油断すればすぐ瞼が落ちてこようとする。そもそも今日本は何時なのだろう。ドイツは夜だが、日本を出たのも夜だったはずだ。時差により真田の体内時計は完全に狂っていた。
 寝る場所の事は、風呂から出てから考えようと、真田は考える事を放棄した。いや、もう考える気力など残っていなかった。残っているのは、身体を洗ってバスルームから出るまでに必要な最低限の力のみだった。


 午後十一時。
 出てきた真田と入れ違いにバスルームへ向かった手塚がすっきりした気持ちで部屋に戻ると、真田は既にベッドに潜り込んでいた。バスルームから出てきた時点で相当眠そうにしているなと思っていたが、まさか髪すら乾かす間もなく眠りに落ちるとは。
 まだ湿気を含む真田の髪を一房手に取り、手塚は起こして髪を乾かすべきか、そのまま寝かせておくべきかと考えた。が、シャワーを浴びる前に、手塚と一緒に一つのベッドで眠ることを渋っていたことを思い出したので、そのままにしておくことに決めた。手塚も真田と合流するまではテニスの練習をしていたから疲れていたし、ここで無理に真田を起こして再び無駄な口論をすることは避けたかった。いくら言い争ってもベッドは一つだけなのだから、最終的には一緒に寝るしかないのだ。
 手塚もある程度髪を乾かした所で、部屋の明かりを消して、真田が眠るベッドに潜り込んだ。多少の圧迫感は感じるが、眠れないほどではない。
 すぐそばに横たわる真田から、規則正しい寝息が聞こえて来る。ぐっすりと眠っているようで、手塚が真田の身体を突いても起きる気配はなかった。
 面白くないなと思った手塚だったが、これから暫くは真田と一緒に過ごせる。今日くらいは我慢してやるかと、そのまま目を閉じた。


 午前四時。
 ふと目が開いた。室内はまだ暗いが、そこが自分の部屋ではないことはすぐに分かった。
 そして、自分がドイツに来ている事を思い出す。昨日はどうやって眠ったのだったか、と思い返すが、風呂から出た後の記憶が曖昧だった。
 何より、布団の中が、そして背中が心地良い暖かさで、まだ布団の外に出たくないと思った。普段なら二度寝など絶対にしないのだが、今日はやたらと眠い。油断すればすぐに瞼が落ちてくる。
 ぐるりと寝返りを打った真田は、布団が暖かかった理由を悟った。すぐ目の前に手塚の背中が見えたのだ。背中から感じた心地良い暖かさは、手塚の体温だったのだろう。
 こんな風に背中を預けるようにして眠ったことは今までなかったから、自分以外の体温がこんなにも心を落ちつかせてくれる事を真田は初めて知った。
 手塚は真田の方に背を向けて、ぐっすりと眠っているようだ。じっと息を詰めて耳をすませば、微かな呼吸音が聞こえて来る。
 手塚の眠りを妨げぬよう、真田は再び寝返りを打つと、手塚の背中に自分の背中をくっつけるようにしてから目を閉じた。すぐに眠気が訪れ、再び夢の中へと引き込まれていった。


 午前七時。
 手塚は普段よりも一時間遅く目を覚ました。今日は真田が来ているから早朝の走り込みに行かないつもりだったのでこの時間でも問題はない。
 真田がまだ眠っているらしいことは、背中から伝わる体温で分かった。眠る前より少し温度が下がったこの部屋ではぬくもりが心地良い。このままずっと同じ布団で眠っていたくなったが、せっかく真田がドイツまで来ているのだ、多少観光などもした方が良いだろうと、手塚は先にベッドを抜け出した。
 手塚がベッドから降りたタイミングで、真田が寝返りを打った。向こうを向いていた顔が手塚の方を向く。起こしてしまったかとじっと様子を伺うが、目は開かれぬまま、再び寝息が聞こえてきた事に胸をなで下ろす。
「ふむ」
 共に朝まで過ごした事は数えるほどで、そのいずれも真田の方が先に目を覚ましていたので、手塚が真田の寝顔をまともに見るのはこれが初めてだった。普段鋭い眼光を放つ瞳も今は瞼に覆い隠され、どこか幼くすら見える。昨日髪を乾かさずに布団に入ったせいだろう、寝癖のついた前髪が僅かに跳ねているのが余計に幼く見せていた。
 その跳ねた髪をそっと撫でて、手塚はベッドの傍を離れた。
 朝食は昨日買っておいたパンに、ウィンナーを炒めたものと卵をスクランブルにしたものがメイン。野菜はボイルしておいたブロッコリーを添える予定だ。
 熱したフライパンの上でコロコロとウィンナーを転がしていると、寝室へ繋がるドアが開く音がした。
「おはよう、真田」
 真田の方は見ずに、背中越しに声を掛ける。少し間があった後、僅かにかすれた声が返ってきた。
「……おはよう」
 むすっとした声に、機嫌が悪いのかと尋ねようとして、やめた。朝から口論はしたくない。
「顔を洗ってきてはどうだ。もうすぐ朝食が出来る。食べるだろう?」
「ああ、いただこう」
 真田が洗面台のある方向へ向かったのを横目で確認した手塚は、程よく焦げ目の付いたウィンナーを皿に盛りつける。その後で手早く炒めた卵を載せ、最後にブロッコリーを乗せた。うん、と満足げに頷いた所へ、真田が戻ってきた。
「朝食が出来たぞ」
 座れ、とテーブルを指さすと、真田は大人しく従った。まだ眠いのか、いつもよりも覇気がない。
「すまなかった。もう少し早く起きる予定だったのだが」
「構わない。お前にしてはゆっくり眠っていたようだったが」
「いや、一度目を覚ましたのだが」
 言いにくそうに真田が口ごもった。二度寝をしたことを悔やんでいるのだろうか、と手塚が思っていると、真田は予想外の台詞を口にした。
「お前の背中が温かくて、つい、な」
 手塚の手からフォークがつるりと滑り落ちて、皿に当たり派手な音を立てた。どうした、と真田が驚いた様子で腰を浮かそうとするのを、大丈夫だと言って制止する。
「いや……」
「本当に大丈夫か? 顔が真っ赤だぞ、手塚」
 落としたフォークを拾い上げながら、口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。まさか、真田が自分と同じ事を考えていたとは、思いもしなかったのだ。
「大丈夫だ、すまない。たしかに、お前の背中の温度は心地良かった。それに、お陰で珍しいものも見られた」
「何だ?」
「お前の寝顔だ。いつもお前は俺よりも早く目を覚ますから、まじまじと見たことがなかったのだが……」
 目を閉じていると少し昔の面影が残っていたぞ、という手塚の言葉に動揺したのか、今度は真田がフォークを取り落とした。ガシャン、と再び派手な音がする。皿が割れたのではないかと心配になるくらいの音だったので、手塚は思わず身を乗り出し真田の手元を見た。
「て、手塚、貴様……!」
 真田の手はわなわなと震えていた。だが、何が真田を怒らせたのか、手塚には皆目見当が付かない。
「何だ? 寝顔を見られるのが嫌だったのか? だが、お前はいつも俺の寝顔を見ているだろう。たまには」
「それとこれとは別だろう!」
「それに、前髪に寝癖が付いているのも珍しかった。明日も俺より遅くまで眠っていてくれても」
「明日はまたお前より早く起きてやる! 必ずだ!」
 そう言って、真田は皿の上に残っていたウィンナーに勢いよくフォークを突き刺した。そして黙々と残っていた朝食を口に運び始めたので、手塚もまた黙って朝食を食べる。
 だが、先に食事を終えた真田が、一言、
「昨日、狭いベッドだと言った事は撤回する。その……なかなかに快適だったぞ」
 お前の背中も含めて。そう言った真田の言葉は、再び手塚の口元を緩めさせるに十分だった。