手をつなぐ



 キキッ、と急に電車がブレーキを掛けた。バランスを崩して倒れそうになる身体を寸前で押しとどめ、真田は何事かと辺りを見回す。他の乗客も何があったのかと車内を見回している中、電車は完全にストップした。
 窓から駅の明かりが見えないところを見ると、どうやら駅と駅の途中で止まったようだ。嫌な予感がすると思い、隣に立つ手塚の方を見れば、珍しいことに手塚も驚いたような顔をしていた。
「何かあったのだろうか」
 手塚がそう呟いたところへ、タイミングよく車掌のアナウンスが流れた。この先の踏切で非常ボタンが押されたため、確認の為に停車する、という内容だった。この電車に問題があったわけではないようで、まずは胸をなでおろす。
 だが、次の問題は、乗換予定の電車に間に合うかということだった。手塚も真田も、家に帰るにはこの電車から別の電車に乗り換えねばならず、しかも真田の乗り換え駅は、次の駅だった。乗り換え時間も僅かだったはずで、今すぐ運転を再開しなければ間に合わない事は明らかだった。また、終電ではないため、待ち合わせをしてくれそうにもない。
「困ったな」
「どうした、真田」
「いや、この先の駅で別の電車に乗り換える予定だったのだが……このままでは間に合いそうにない」
 腕時計にちらりと目をやる。今日はそれでなくても少し帰りが遅くなってしまっていた。家族に心配をかけてしまうことを気にする一方で、手塚は家に帰れるのかという不安がよぎる。
「手塚、お前の乗換駅には何時に到着するんだ?」
「俺の乗り換える予定の駅は、お前が降りる予定だった次の駅よりもずいぶん先にある。停車時間にもよるが、あまりに長引くようならば終電に間に合わないかもしれない」
「何、それはいかん。親御さんが心配してしまう。連絡をしてはどうだ」
「だが真田、電車での携帯電話の使用はマナー違反だ」
「メールがあるだろう」
「まあ待て。すぐに動き出すかもしれない。もう少し様子を見ようと思う。そういう真田、お前の方こそ大丈夫なのか?」
「俺か? 俺の家はお前より近いし、多少遅くなっても問題はない。それに、お前と一緒だという事を家族に伝えてある」
 手塚は何故か真田の家族からの信頼が厚い。今朝も家を出る際に、今日は手塚と一緒に出かけると伝えると、それなら安心だと言われた事を思い出した。
「そうか」
 車両の隅の方で立ったまま、二人はそんなやり取りを交わす。夜になってから都心へと向かう電車はさほど混んでいなかったが、手塚も真田もなんとなくいつもの癖で立ったままでいた。こんなことになるならば座っていた方が良いだろうかと、今になって座席を探したが、ぽつりぽつりと席は空いているものの、二人が並んで座れそうな場所は今いる車両の中には見つからなかった。
 まだ電車は動きそうにない。暗くなった外をガラス越しに見ながら、真田は言った。
「こんなことになるならば、もう少し早く切り上げるべきだったな」
「いや、俺の方こそ夢中になっていて時間に気付かなかった。すまない」
「お前が謝ることではないぞ。しかし困ったものだな。家に帰れなくなっては……」
 眉間に皺を寄せる真田の言葉を手塚が遮った。
「真田。俺はこの状況を困ったとは思っていない。むしろ止まってくれて良かったとすら思っている」
「なぜだ、手塚」
 電車に間に合わなくなるかも知れないのに、何を言っているのだこの男は。そう訝しむ表情の真田に、手塚はふっとわずかに顔を緩ませた。そして、
「本来ならばこの時刻、お前は既にこの電車を降りて俺は一人で乗っているはずだった。だが、お前が下車する駅の手前で止まったことで、俺は今もこうしてお前と一緒にいることが出来る」
 手塚が発した言葉の意味を真田が理解するには、一秒ほどの間があった。そして、理解した途端、被っていた帽子のつばをぐいと引下げ、
「……たわけが」
 そう言った真田の声は、いつも部員たちに対して発するときのような勢いはなかった。


 
 程なくして運転を再開する旨の放送が流れた。車内には安堵の空気が広がり、そのうちがたんと音を立てて電車は動き始めた。真田がちらりと手塚の方を見ると、他の乗客とは反対に少々不満げな顔をしている。と言っても、傍から見れば先ほどの嬉しそうな顔も、今の不満げな顔も、そう見分けはつかないだろうから得な男だと真田は思う。
「手塚」
「なんだ」
 声にはやはり残念さが浮かんでいた。自分も大分手塚の表情を読むのが上手くなったな、等と思いながら、真田はこほん、と咳払いをして、
「その、また会えばよかろう。別に今生の別れというわけではないのだし」
 そんな風に手塚を諭しながらも、真田はその言葉を自分に言い聞かせていた。神奈川と東京という距離は中学生である二人にとっては遠いものの、決して会うのが難しい距離ではない。また約束をして会う機会を作ればいいのだと思う一方で、真田も手塚と別れるのが惜しく思っていた。だが、そんなことを言えば笑われるのではないかと口に出来ずにいたところ、手塚も同じ事を考えていると知った。
 電車は減速し、真田が下車する駅へと近づいていく。蛍光灯に照らされたホームの端が視界に入ったその時、手塚が口を開いた。
「……分かっている。だが、次に会うまでの時間を考えると、この一瞬すらも惜しい」
 手塚が言葉を切ったところで、丁度電車が止まり、ドアが開いた。乗換駅であるその駅で降りる客は多く、ドアの近くに立っていた二人の横を乗客が通り過ぎていく。ホームの発車ベルが鳴り響くのが聞こえたその時、真田は意を決したようにホームへと降りた。
「真田!?」
 真田の手は、手塚の腕を掴んでいた。ぐい、と引き寄せられた手塚はバランスを崩し、そのまま真田とともにホームへと降り立つ。その後ろで電車のドアが閉まった。
 がたんがたんと音を立てて遠ざかっていく電車を背にして、呆然とする手塚と真田は目を合わせようとしなかった。目を反らし、しかし手は手塚の腕をつかんだまま、
「……離れるのが惜しいと思っているのは、お前だけではない」
 手塚の腕を握る手が熱い。真田は顔から火が出そうなくらいに恥ずかしかったが、手塚はそれに気づいているのかいないのか、
「……帰れなくなってしまったな」
 そう呟いた。途端に真田は自分が間違ったことをしたのではないかという自責の念に駆られ、掴んでいた手塚の腕を放した。
「その、悪かった。つい、勢いでこのようなことを」
「いや、そういう意味ではない。俺は、自分で電車を降りる勇気は無かった。だが、お前が連れ出してくれたから、ここにいる」
「手塚?」
「ありがとう、真田。これでお前ともう少し一緒にいられる。だが、しかし、どうしたものか」
 どうしたものか、という言葉が、家に帰れなくなった、という事を指しているのは明らかだった。
「お、俺の家に泊まればよかろう。お前の事は家族もみな知っている。電車が遅れて遅くなってしまったと言えば大丈夫だ」
 慌てる真田の様子に、手塚はそうか、と呟いて、
「それじゃあ、帰ろう。お前の家に」
 と言った。
「……そうだな」
 真田がその場で家に電話をし、電車が遅れて家に帰れなくなった事を告げると、母親は手塚が泊まれるよう準備をしておくと言ってくれた。その言葉にほっと胸をなで下ろし、手塚にも家に連絡を入れるよう伝える。
 手塚の電話が済む頃には、そのホームにいるのは手塚と真田の二人だけになっていた。
 二人並んで人気のなくなったホームを乗り換え改札に向かって歩いていく。その途中、暖かいものが真田の手に触れた。それは手塚の手だった。からめとられるように繋いだ手塚の手は、真田の手と変わらないほど熱い。
「こんな公衆の面前で手など繋ぐな」
「先に手を掴んだのはお前の方だ」
「そ、それとこれとは別だ!」
「いや、同じだ」
 散々真田に文句を言われながらも、結局手塚は手を放すことはなかった。駅員に怪訝な顔で見られたような気がしたが、真田は気付かないふりを決め込む事にした。