本当の始まり



 真田の家には誰もいなかった。それでもただいま戻りました、と律儀に声を掛ける真田につづいて手塚も家に上がり、二人は真田の部屋に向かう。
「ここだ」
 がらりと襖を開けて、真田は部屋に入った。手塚は入り口に立ち尽くしたまま、ぐるりと部屋の中を見回している。
 窓を開けながら、入り口に立ったままの手塚を見た真田は、僅かに笑いを零した。
「何か気になるものがあるか?」
「いや……真田、お前昔からこの部屋を使っているのか?」
「そうだ」
 真田の返事に、手塚はふむ、と頷いて何やら考えているようだった。
「手塚、俺は茶を持ってくるから、楽にしていてくれ」
 そう言い残して、真田は一人階下の台所へと向かった。一人残された手塚は部屋の中央に置かれたテーブルの一方に腰を下ろした。
 真田の部屋にはクーラーは無かったが、扇風機はあったし、真田の開けた窓からは心地良い風が吹き抜けていった。
 程なくして真田がグラスと茶のボトルを運んできた。待たせたなと言いながら真田は氷の入ったグラスをテーブルの上に置き、それに茶を注ぐ。淀みがないその動作は、手塚の知る真田からは想像出来ないものだったので、手塚は少し驚いたのだが、表情には出なかったのか、真田は気づいていないようだった。
 冷えた麦茶を飲みながら、ぽつりぽつりと他愛ない話をする。会話の内容はもっぱらテニスの事で、この前の全豪の試合を見た話や、選抜合宿の時の話などが主だ。ただ、お互い自分の所属するチームの話になるとどうしても言い争いになってしまうから、部活の話は無意識のうちに避けていた。
 それに、どこか手塚は上の空だ。真田の話を聞いていないわけではないが、時々別の事を考えている、そんな気配を感じて、少し気分が悪くなった。普段立海のチームメイトからは鈍いと言われる事が多い真田だが、手塚と二人きりで向かい合ったこの状況では、何となくではあったが、手塚が自分との会話に集中していないことくらいは分かった。
 ふと、会話が途切れる。途端に開け放たれた窓からジージーと蝉の鳴く声が大きく聞こえてきた。話をしている間は全く気にならなかったのだが、と真田が不思議に思っていると、すっと手塚が立ち上がった。
「どうした、手塚」
 座卓を挟んで真田の向かい側に座っていた手塚だったが、何を思ったか真田のすぐ側に近寄ると、すとんと腰を下ろす。手塚の行動の意図がつかめず、訝しむ表情をしていると、眼鏡の奥の瞳が真田を注視していた。
「真田、頼みがあるのだが」
「何だ、言ってみろ」
 まっすぐに見据えられた上で「頼みがある」と言われれば、聞かないわけにもいくまい。真田も居住まいを正し、手塚の方へと身体ごと顔を向けた。
「こんな事を言って、怒らないで欲しいのだが」
 手塚にしては歯切れの悪い物言いに、真田は首をかしげる。なんだ、と言葉を促せば、ようやく手塚はその頼みを真田に告げた。
「お前と、キスがしたい」
 一瞬、二人の間に沈黙が落ちる。
 手塚の発した言葉の意味を、真田はすぐに理解することが出来なかった。あまりにも唐突過ぎたし、部屋に来てからの会話に、手塚の要望に繋がるような箇所は一欠片もなかったはずだ。それが、どうして、そういうことになるのだと、真田は改めて、目の前の男の思考が、自分には到底理解不能なものだということを実感した。
「……手塚。俺たちはつい今し方まで、テニスの話をしていたのではなかったか?」
「そうだが」
「それが、どうしてその……お前と、俺が、せ、接吻をするような、話になるのか俺には理解できん」
 涼しい顔をしている手塚とは対照的に、真田の体温が再び上がっていく。手塚、たるんどる!と普段なら一喝するところだが、それをしなかったのは、真田の胸の内には手塚の要望を受け入れても良いと思う気持ちが、僅かながら存在していたからだ。
「俺はずっと考えていた。今日だけの話ではない、お前が俺の告白を受け入れてくれた日から、この気持ちは確かに存在していた。だが、今日思いがけずお前の唇に触れる機会を得て、俺は」
 我慢が出来なくなったのだ、そう言う手塚の声はどこか弱々しく聞こえた。突然の申し出に自分が困惑している以上に、手塚もまた自分の内から湧き出た衝動に困惑している、それが真田には分かった。
 そして、先ほどから手塚がどこか上の空だった理由も分かった気がした。
「真田、どうなんだ。俺の頼みは受け入れてもらえるのか」
 手塚がずい、と身を乗り出すようにして真田の顔を見る。どちらかがもう少し身体を動かせば、容易く触れることが出来る距離に、真田の心臓はどくどくと音を立て始める。ようやく熱中症の名残が引きかけたというのに、再び体温が上昇していくのを感じて、咄嗟にテーブルの上に置かれていた茶の入ったグラスを手に取ると、中身を一気に煽った。
「……いいだろう、来い」
 覚悟を決めた真田は、そう言って両膝の上にぎゅっと握りしめた手を乗せると、目を閉じた。しかも、眉間に皺まで寄っている。どう見てもこれから口づけを受け入れるとは思えない態度ではあったが、これが今の真田に出来る最大限の心構えだった。
 目を閉じた所為で、今手塚がどんな顔をして、どこにいるのか分からない。ごくり、と生唾を飲み込み、身構えていると、ふわりとすぐ側で空気が動く気配がした。そして、唇に何かが触れる。
 最初は、風でも掠めたかと思うほどの僅かな接触だった。それが、次第に存在感を増していき、気が付けばはっきりとした存在となって真田の唇を覆っていた。生暖かく湿ったそれは、つい数時間前にベンチで倒れ込んでいた真田にスポーツドリンクを飲ませてくれたものと同じ感触がして、真田は身体の力を少しだけ緩めた。
 どれくらいそうしていたのか、数秒だったのかそれとも数分だったのか分からない時間が過ぎ、手塚の唇がそっと離れていった。閉じていた目を薄く開けて様子を伺えば、手塚がじっとこちらを見ている。その頬に赤みが差しているように見えるのは、単に気温が高いことが理由ではなさそうだった。
 真っ向勝負を信条としている真田であっても、どこか気恥ずかしさが拭いきれず、すっと手塚から視線を逸らす。手塚はそれでもじっと真田を見つめたまま、何も言わない。再び沈黙が落ちてくる。
「どう、だっただろうか」
 暫くして、控えめな声で、手塚がそう言った。
「……ど、どうというのは、どういうことだ」
「俺は、上手く出来ていたかと訊いている」
「……そんなこと俺に訊くな。上手いかどうかなど分かるわけがないだろう!そもそも、先ほどお前に口移しで飲み物を飲ませてもらった事を除くとするならば、先ほどの口づけが俺にとって人生で初めての」
「いや、初めてではない」
 真田の言葉を遮り、やけにきっぱりと言い切る手塚に、真田は頭を振った。
「そんなわけがあるか。大体、お前が知っているはずがないだろう、俺の、その、昔の話など」
「お前の最初の相手は、俺だからだ」
「なっ……!?それはどういうことだ!?」
 手塚の話を聞いて、ガンと頭を殴られたような衝撃を受けた気がした。真田は必死に記憶の底をさらうが、それらしい記憶は見つからない。過去に手塚と口づけを交わしたなど、もし事実ならば忘れるはずがない。
「覚えていないのか」
「全く記憶に無い。そもそも、その話は本当なのか?まさかとは思うが、俺を混乱させようとして謀っているのではなかろうな」
「俺が嘘を吐く理由はない」
「それはそうだが……」
 真田が歯切れの悪い返事をすると、手塚は笑ったようだった。足を崩し、楽な格好になると、独り言のように呟く。
「今よりもずっとずっと前だ。小学校に上がる前に、俺は何度かこの家に遊びに来たことがある」
「それは知っている。お祖父様同士が友人だからな」
「何度目かに遊びに来たとき、お前は風邪を引いて眠っていたことがあった。感染ってはいけないからと、最初は会うのを止められたのだが、せっかく来たのだからと我が侭を言って、少しだけお前の部屋に入れてもらった。お前は薬が効いていたのか、静かに眠っていた」
 普段口数の少ない手塚から、淡々とした話し方で紡がれる昔話は耳に心地良かった。真田はひとまず手塚の言い分を聞くことに決め、無駄口を挟まぬように堪える。
「俺が部屋に入ってきても、お前は目を覚まさなかった。寝息すら殆ど聞こえないくらいで、本当に眠っているだけなのか心配になった俺は、お前の側へ行くと名前を呼んだ。だが、気が付く気配はない。にわかに不安になった俺は、つい先日教えてもらった物語を思い出して、それで」
「手塚、ちょっと待て。その物語とは一体なんだ?」
「眠り姫だ。今思えば、どうして男の俺があの物語を知っていたのか、誰が読み聞かせるなり本を貸してくれるなりしたのか不思議で仕方がないのだが……まあそれはいい。あれは王子の口づけで姫が目を覚ます物語だっただろう?だから俺はお前が目を覚ましてくれるだろうと思い、お前の唇に」
 そこまで聞いて、言いたいことを我慢するのが辛くなってきていた真田は、つい言ってしまった。
「そんなことを俺が覚えているはずがないだろうが!」
 馬鹿か貴様は、そう罵られ、手塚は眉間に皺を寄せる。
「何を言う。感謝されても文句を言われる筋合いなどないはずだ。現に、俺が口づけをした後すぐにお前は目を覚ました」
「偶然に決まっているだろう!」
 覚えているかと言われたから思い出そうと必死で記憶を辿ったというのに、それは小学校入学前の、しかも真田は寝ていただけというシチュエーション。覚えているどころか気づいてすらいなかったという次元の話だ。
「そもそも貴様、先ほどまでは俺の同意がどうとか言っておきながら、結局俺の意見などお構いなしではないか!昔も今も!」
「公園での事は不可抗力だ。そもそもお前がスポーツドリンクを自力で飲めないほどだったのだから仕方がないだろう?それに、昔の事は俺もこの部屋に来るまですっかり忘れていた。そして今回はきちんとお前の許可を得たはずだが」
「ぐぬぬぬ……」
「何がそんなに気に入らないのだ、真田」
 訳が分からないというように、手塚が首を僅かにかしげて見せた。途端、真田の怒りが爆発する。
「お前が!全てにおいて一方的だからだ!」
「一方的ではない。現に俺はちゃんとお前に許可を取った」
 再び会話が元に戻る。真田は二の句が継げなかった。手塚に何を言えばいいのか分からなかったと同時に、真田は自分が何故ここまで手塚に対して憤りを感じているのか分からなくなったからだ。
「お前は最初の口づけが俺だったことが気に入らないのか?」
 黙り込んでしまった真田に、手塚がそう言った。その声からはどことなく不安が伝わってきて、真田は違う、と首を横に振る。
「……今日お前と唇を重ねなくとも、俺の最初の口づけはお前のものだったのだということか」
「そういうことになるな。……不満なのか、真田」
「不満ではない。ただ、良かったと手放しで喜ぶことも出来ない」
「どういうことだ」
 からり、とグラスの中で溶けた氷が音を立てた。
「……俺は自分の気持ちが分からん。お前からの告白に対して承諾の返事をしたのは俺だし、それを決めたのも俺だ。だが、俺は本当にお前と、その、恋人という関係になりたかったのか分からんのだ」
 真田にとって、手塚は幼なじみだった。だが、小学六年のあの大会の後に、ふらりとやって来た手塚にテニスで負けてからは、幼なじみではなくテニスで倒すべき相手として、ずっと心の中に存在してきた。
「長らくテニスの好敵手であったお前とのつながりが、あの大会を最後に途絶えてしまうことを恐れたからこそ、俺はお前に承諾の返事をしたのかもしれない。お前のいう『恋人として』ということがどういうことなのか、考えなかったわけではないのだが……その、色恋には疎いのでな、まだうまく想像出来ないというのが、正直な所だ」
 だから、手塚が見せた態度や行動に、気持ちが上手く追随出来ず、更には自分のあずかり知らぬ所で勝手に口づけされていた事を知り、混乱してしまった。そしてその混乱を、手塚に怒りをぶつけることで何とか御そうとしていたのだ。それも、無意識もうちに。
 真田の正直な気持ちを、手塚は黙って聞いていた。そして、分かったと言って頷いた。
「俺の要求が少々性急だったことは認める。悪かった」
「あ、ああ」
「俺も、色恋には疎い方だと思う。だが、お前にキスをしたいという気持ちは、ずっと胸の内にあった。それに、公園で言ったように、俺は俺の意思だけでお前との関係を進めるつもりはない。お前に承諾を得た上で、一つ一つ関係を深めて行きたいと思っている」
 それほど口数が多くない手塚が、今日はよく話す。それだけ、真田の不安に応えようとしているのだと気づいた時、真田はそれまでもやもやとしていた心が急にクリアになった気がした。
 黙り込んだ真田を、手塚が見ている。
 その瞳に宿る熱は、全国大会の決勝で打ち合っている時に見せていた、静かな、しかし強烈なあの熱と同じだった。
「お前の気持ちは分かった、手塚」
「……真田」
「すまなかった。そこまでお前が真剣に考えていたというのに、俺は……中途半端な覚悟でお前に承諾の返事をした事を、申し訳なく思っている」
 真田の言葉を聞いた途端、手塚の顔色が変わった。僅かに腰を浮かし、何か言いたそうに口を開きかけた手塚を、真田は手で制し、姿勢を正してまっすぐに手塚を見た。
「改めて言う。これから、宜しく頼む」
 膝に手を置いた状態で、真田は深々と頭を下げた。その行動は手塚にとって予想外だったのだろう、目を見開いて、真田をまじまじと見ている。
「あ、ああ……もちろんだ」
 だから顔を上げてくれ、と手塚が言うまで、真田はずっと頭を下げたままだった。ようやく顔を上げた真田は、僅かではあったが顔が赤くなっているように見えた。
「……ま、まあ、茶でも飲んで少し落ち着こう」
 空になったグラスに、ボトルから麦茶を注ぐ真田に気取られぬよう、手塚は細くため息を吐いた。今日の真田の行動は心臓に悪い。目の前で倒れられた時も驚いたが、先ほどのあれは、別れを告げられるかと思って内心冷や汗を掻いていたのだが、真田はきっと自分の行動がこれほど手塚の心を乱している事に気づいていないに違いない。
「て、手塚」
 突然名前を呼ばれて、再び手塚の心臓が跳ねる。
「何だ、真田」
 真田は右手に持っていた麦茶のボトルをテーブルの上に置いた。そして、
「その、なんだ、先ほどの口づけ……悪くは、なかったと思う、ぞ」
 手塚の方を見ずに、そう言った真田の顔は相変わらず赤いままだった。手塚は、目の前にある真田の服の裾を掴んで、くい、と軽く引くと、
「それなら、もう一度しよう」
 至極真面目な表情で、そう言った。