それは特別な一日



 それは真田の誕生日まで一月あまり前の、四月に入ったばかりの頃のこと。
 久しぶりに会わないかと手塚から連絡があり、真田は待ち合わせ場所として指定されたターミナル駅まで出てきていた。
 夕暮れ時の駅構内は家へと戻る学生や社会人でごった返している。改札の前に立ちながら、真田は果たして手塚を見つけることが出来るかと不安になりながら、目の前を行き交う人々に視線を走らせていた。
 その時、頭上をガタゴトと電車が走る音が響いた。電車が到着したようで、ホームに繋がる階段から一斉に人が下りてくる。指定された時間から考えて、おそらくこの電車に乗っているのだろうが、多すぎる人の中からタダ一人を探すのは困難だった。
 自分が立つ場所を避けるようにして人が流れていく。必死に改札を出てくる人を見ていた真田だったが、ようやく人の波が落ち着いた頃になって、階段をゆっくりと下りてくる人影を目にすると、ほっと安堵のため息を吐いた。
「手塚」
 ここだ、と真田が軽く手を上げたのと、手塚が真田に気づいたのとはほぼ同時だった。少し歩く速度を上げて改札を出た手塚は、そのまままっすぐ真田の前へと近づいてきた。
「待たせたな」
「いや、かまわん。しかしこの時間、この駅はこんなに人混みがひどいのだな」
 お前が見つけられないかと焦ったぞとこぼす真田の言葉を聞いて、手塚は少しだけ口元を緩めた。
「大丈夫だ。お前が俺を見つけられなかったとしても、俺がお前を見つけよう」
「そうか、それは頼もしいな」
 その時はよろしく頼むと言う笑う真田には、手塚の言った言葉の意味が上手く伝わらなかったようだった。手塚は少し残念に思ったが、すぐに気を取り直すと、どこか話が出来る場所が無いかと訊ねる。
「俺もこの駅周辺の店に詳しくはないのだが、以前テニス部のメンバーと遊びに来たときに、近くにあったファーストフードの店へ入った記憶がある。そこでも構わないか?」
「ああ。すまないが案内してもらえないか」
「うむ、分かった」
 こっちだと先に立って歩き出す真田の後ろについていくと、五分ほどでファーストフードの店に到着した。駅から近い割に少し入り組んだ場所にあるからか、この時間であってもそれほど店内は混雑しておらず、二人ならば座れる席もありそうだ。
 窓際の席を確保した二人は、注文した飲み物とハンバーガーを食べながら、互いの近況について話をした。東京では都大会の前哨戦である地区予選がもうじき開催され、今日はその抽選会があったのだと手塚が話を始めた。真田はそれを聞きながら、ぽつりぽつりと自分のテニス部についても話をする。が、いつもならば自らの部活の様子を楽しそうに語る真田の表情が晴れない事に手塚は気が付いていた。そして、その原因についても、おおかた予想は付いている。
 いくら二人の関係が単なる他校の友人では無いと言っても、真田は自らのチームの内情を全て手塚に話すようなマネはしない。それはいつか青学と、そして手塚と公式戦で戦いたいと思っているからであり、その為には自らのチームに不利になるような事はするべきで無いという考えがあるからだ。
それでも、去年の冬に幸村が病に倒れ、今も闘病中であることは手塚に話してあった。
「……幸村は、まだ」
「ああ……」
 真田の声が暗く沈む。が、自分が発した声が暗かった事に気づいたのか、真田はぶんぶんと首を横に振ると、いや、大丈夫だと言った。それはまるで自分に言い聞かせているかのようだと手塚は思った。
「幸村は戻る。必ず」
「そうか」
 それきり、その話題について触れずにいると、いつの間にか話題は学校生活の事に移っていった。真田は内心ほっと胸をなで下ろす。その中で、そういえば、と手塚が言った。
「お前はもうじき誕生日ではなかったか?」
「おお、覚えていてくれたのか。そうだ。来月の二十日だ。手塚は確か十月だったな」
 真田の回答に、手塚は少し考え込むようなそぶりを見せ、そしてこう言った。
「お前の誕生日に、何かプレゼントを贈ろうと思うのだが」
 誕生日プレゼントに何が欲しいと問われて、真田は答えに詰まった。欲しい物、と考えて最初に浮かんだのは、まだ所持していない歴史小説の全集だったが、それは今度両親が買ってくれる事になっている。それではそれ以外で何かあるかと言われれば、すぐには思いつかなかった。
「特にない」
 そう言うと、普段から表情の変化がわかりにくいと評判の恋人は、そうか、とだけ言った。だが、その表情には残念さがほんの少しだけ浮かんでいて、それを見て真田は自分は答えを間違えたのだと悟った。
 だが、他になんと言えば良かったのだろう。お互い学生という身分では自由になる金はそう多くなく、なけなしのそれらは趣味の本を買ったり、下校時に部活の仲間達と何かを食べに立ち寄ったりするだけで精一杯だ。貯金を趣味としている真田ですらそうなのだから、手塚とて似たようなもののはずだろうに、ここで自分が高価な物を欲しいと告げたらどうするつもりだったのかと不思議に思う。
「真田?」
 黙り込んでしまった真田を気に掛けて、手塚が名前を呼んだ。それでハッと我に返った真田は、すまないと謝る。
「別に貴様からの贈り物が欲しくないという訳では無いのだ。ただ」
「ただ、何だ」
「適当なものが思い当たらなくてな……だから無理に贈り物などしなくてもいいのだ」
 申し訳なさそうにそう言うと、手塚はふむ、と一つ頷いた。それを見て、これで手塚は贈り物を諦めてくれるだろうと真田は内心胸をなで下ろしたのだが。
「そうか。それでは俺が見繕ったものを贈っても問題は無いということだな」
 その答えは想定外だった。手塚はまだ真田に誕生日プレゼントを贈ることを諦めてはいないらしい。慌てた真田はすかさずフォローに入る。
「あ、ああ。それはそうだがしかし」
「何だ、まだ何かあるのか?」
 手塚が真田を胡乱げな目つきで見た。暗にそんなに俺からのプレゼントが欲しくないのかと言っているような気がして、違うと首を横に振る。
「お前に負担を掛けたくはないのだ、手塚。俺たちはまだ中学生であるから、小遣いにも限りがあろう。お前は書籍を収集するのが趣味だと言っていたが、俺に贈り物をするくらいならば本を買った方がいいのではないか?」
 そこまで言って、真田はふと、どうして自分が手塚の懐具合まで気にしなければならないのかと思いもしたが、首を振ってその考えを振り払う。
 しかし手塚は表情を変えず、
「真田。お前は一つ勘違いしているようだが、俺にとってお前にプレゼントを贈ることが負担になる事は無い。俺が贈りたいと思うからするまでだ」
「だが」
 なおも食い下がろうとする真田を、手塚が遮る。そして、腕にした時計に目をやり、
「この話はこれで終わりだ。今日は時間を取らせたな」
「手塚!ま、待て!」
「近々また連絡をする」
 戻らなければならない時間だと席を立った手塚を追いかけるように、真田も席を立つ。駅までの間、来たときとは逆に先に進む手塚を真田が追いかけるような形で駅に戻ると、手塚は来たときと同じ改札からさっさと帰ってしまった。
 その後ろ姿を見送った真田の頭には、そういえば手塚は一体何をしに来たのだろうかという疑問が過ぎったが、それも一瞬のことで、すぐに真田も最寄り駅に続く路線の改札に吸い込まれていった。

***

 時は流れ、五月も半ばを過ぎた。明日は真田の誕生日だ。
 あの日以来、真田は手塚には会っていない。
 東京では五月に入ってすぐに地区予選があるという話を聞いていたから、その練習で忙しい事は分かっていたし、真田も新たに入部した一年の面倒を見つつ、神奈川県大会に向けて練習試合を重ねていたから、連絡が来ないことを気にしている余裕など無かった。
 先ほど幸村から届いたメールに、明日の放課後病院に寄ってくれと書かれていたのを見て、ようやく明日が自分の誕生日だったことを思い出したくらいだ。
 了承のメールを送り返して、携帯電話を脇に置き、いつもの予習をしていると、再び携帯電話が震えた。先ほどのメールに幸村が返信して来たのかと画面を開けば、そこには幸村ではない名前が表示されている。何事かとメールを開けば、本文はたった一行だった。
『明日の放課後、会えないか』
 久しぶりに届いたメールには、元気にしているかとか、俺は変わりないとか、そういう近況のような事は一切書かれていない。潔いくらいに用件のみだ。久しぶりのメールなのだからもう少し書き方があるのではないか、と思ったが、真田も携帯電話でメールを打つのが苦手なので、結局手塚のメールと大差ない内容となった。
『明日は幸村の見舞いに行くことになっている。帰りが遅くなるかもしれないので、後日改めて時間を持ちたい』
 そう返事をすると、直ぐに携帯電話にメールが届いた。
『分かった』
 ただそれだけだった。あっけない返事に、真田は面食らった。幸村との約束を優先したことを怒ったのだろうか?いくら考えてもメールでは相手の顔が見えないし、声のトーンで意図をくみ取ることも出来ない。
 明日、という言葉に、そういえば明日は自分の誕生日だったことを思い出す。と同時に、手塚が誕生日プレゼントに何が欲しいと聞いてきた時に、欲しい物は特にないと行ってしまった事も。
 思い返せば、あの日からお互いに連絡を取っていない気がする。忙しい時期が重なったことによる偶然かも知れないが、だからこそ、余計に気に掛かって仕方がない。手塚は一体何を考えてこのようなメールを送ってきたのか、その意図が知りたかった。
「思っている事ははっきりと言わんか、手塚」
 そうぼやくと、真田は携帯電話をサイレントモードに設定し、机の上ではなく脇に置いていた鞄の中へとしまい込んだ。そして、机の上に広げていた問題集に集中することにした。


***


 放課後、部活の練習を終えた立海大付属中のテニス部レギュラー達は、連れだって幸村の入院する病院へと向かった。道すがら他愛ない話で盛り上がっている丸井やジャッカル、赤也などを見ながら、列の一番後ろを歩いていると、不意に柳が歩調を落とし、真田の隣へと並んだ。
「今日は良かったのか、精市の我が侭に付き合って」
「どういうことだ?」
「他の約束があったのではないか、と言っているんだ。例えば、手塚とか」
 柳の言葉に、真田は首を横に振る。
「確かに、幸村からのメールの後で、今日逢えないかと手塚からメールが来たのだが、その時点で幸村に行くと返事をしてしまっていたから断った」
「弦一郎……」
 はあ、と額に手を当てて大げさにため息を吐く柳に、鈍感な真田でもさすがにムッとした表情になる。だが柳はそんな真田の様子を気にすること無く話を続ける。
「手塚もお前の誕生日を祝いたかったのだと思うぞ。俺や精市、そして他のメンバーがそう思っているのと同じようにな」
「そうだろうか?」
「そうとも。ましてや交際している相手ならば尚のこと。……手塚もとんだ相手を好きになったものだな」
 手塚に同情するぞと言われて、真田は眉間に皺を寄せる。そして、
「だが、幸村との約束を反故にするつもりはない。手塚には後で詫びを入れておくことにする」
「そうだな。精市が怒ると怖いからな」
「なっ!そんなつもりでは……!」
「柳さーん、副部長、何やってんすか早く行きましょうよー!」
 いつの間にか歩く速度が極端に落ちていたらしい。ずいぶん先から赤也がこちらに向かって手を振っている。分かったと叫んで、蓮二行くぞと歩調を早めた真田の頬が、僅かに赤くなっているのを柳は見逃さなかった。
 真田が幸村や柳を始めとして立海大付属中テニス部の事をどれだけ大切に思っているか柳は十分に知っている。だからこそ、誕生日である今日くらいは真田の恋人に少し時間を分けてやってもいいと思ったのだ。きっと、手塚が真田を想う気持ちは、種類こそ異なっているが、柳達と同じくらい大きいだろうから。
 後で真田を上手く誘導して手塚に連絡を取らせよう。真田の後ろを歩きながら、柳は、胸の内で一人作戦を練り始めた。


「真田、みんな。良く来てくれたね」
 病室に入ると、幸村は上体を起こしてベッドの上に座ったような格好で皆を出迎えた。調子はどうだという真田に対して、今日はとても気分が良いと笑う。その笑顔を見て、皆ほっとしたように表情を緩めた。
「今日は真田の誕生日だろう?みんなでお祝いして俺だけ仲間はずれになるのは面白くないからね。こっちでケーキを用意したんだ」
 もう来る頃だろうと思って出しておいたんだ、という幸村の視線の先ーー普段食事などを置くための台の上ーーには、白い箱が乗っている。開けてみてくれないかと幸村に言われて、真田はそっとその箱に触れると、壊れ物を扱うような慎重さで箱を開けた。
 中から現れたのは、白いクリームに覆われたショートケーキだった。大粒のいちごが等間隔に並べられ、真ん中には誕生日おめでとう、と書かれたチョコレートのプレートが置かれている。
「うおっ、うまそー!」
 隣で丸井がじゅるりとよだれを啜るような音を立てる。ブン太、ちゃんとみんなに分けるからと幸村にたしなめられた丸井は、分かってるってと口では言いながらも視線はケーキに釘付けだ。
「ここでは火は使えないから、ろうそくは立てられないけど。誕生日おめでとう、真田」
「「おめでとう!」」
 皆が一斉に祝いの言葉を口にするのを聞いて、真田はかあっと頬が火照るのを感じた。嬉しい気持ちはもちろんだが、こうして全員に改まって言われるとなんだか面はゆい。
「あ、有り難う、みんな」
 レギュラーのメンバーで誕生日の人がいれば、こうして祝うのは真田が入部する前からずっと恒例になっていたのだが、幸村が倒れたときに、暫くこんなことは出来ないだろうと真田は頭の片隅で考えていた。幸村が不在となったことによる張り詰めたような空気、そして何より幸村がそういう精神状態ではなかったこともあって、誰も誕生日を祝う話は出なかったのだ。
「俺の代わりに頑張ってくれている真田に、お礼も兼ねて、ね。俺が戻るまで、もう少しだけ頼むよ」
 幸村の言葉に、えーと異議を訴えながら赤也が頬を膨らませる。
「部長が入院しちゃってから、副部長、何かあるとしょっちゅう怒ってるんすよー!俺なんて何回殴られたことか」
「それは赤也の態度が問題なんじゃないのかい?」
「ええっ、ひっでー!そりゃないっすよ部長〜!」
 そんなやり取りの横では、丸井がとうとう我慢できなくなったのかケーキを指さし、
「幸村君、このケーキ食っていい?」
「おい、お前さんこれ以上太るつもりなんか?」
 ケーキを狙う丸井に仁王がにやにやしながらそう言うと、丸井は頬を膨らませた。
「うっせーよ仁王、こんなに美味しそうなケーキがあるんなら食いたくなるのが普通だろぃ?」
「包丁をお借りしますね幸村君」
 そんなやり取りの横で柳生が幸村から果物ナイフを借りて、綺麗にケーキを切り分けていく。きちんと8等分にされたケーキに、丸井は若干不満げだったけれど、紙皿に取り分けられたそれを誰よりも早くに口に入れた途端、美味いと言ったきり黙り込んだ。余程美味しかったらしい。
「真田くんは、このチョコレートプレートが乗ったケーキをどうぞ」
「有り難う、柳生」
 柳生から受け取ったケーキを、真田も一口口に含む。クリームは甘さ控えめでしつこくなく、中に挟まれているいちごはどれも熟していて甘い。スポンジの自己主張も激しくなく、まるで溶けるように口の中から消えていくそれに驚いていると、ふふ、と幸村が笑った。
「美味しいだろう?この辺で評判のケーキ屋さんなんだ。真田のそんな顔が見られるなんて、注文した甲斐があったよ」
「高かったのでは無いか?」
「大丈夫。真田はそんな事気にしなくて良いよ」
「そうだ弦一郎。今日だけは、与えられる全てをそのまま享受するといい」
 柳もそう言うので、真田はそうか、と言って残りのケーキを食べる事に集中した。他のメンバーも皆すっかり平らげて、どの紙皿の上にもクリームのかけら一つすら残っていない。
「美味かったぜよ」
 普段甘い物を食べている所を見せない仁王すら、そう言って皿を置いた。
「ふふ、そんなに喜んでもらえると思わなかったよ。それじゃ仁王の誕生日も同じ店のケーキにしようかな?」
「おう、期待しちょるからのう」
 それからは、部活の事や学校の事などを皆が代わる代わる話していた。幸村は今日は落ち着いているのか、皆の話を楽しそうに聞いている。その姿を見て、真田はほっと胸をなで下ろした。ここ最近不安定な日が多かったから今日もこんなに大勢で押しかけて身体に障らないかと内心心配していたのだが、今日に限ってはそういうこともなさそうだ。
 楽しい時間は瞬く間に過ぎ、面会時間も終わりに近づいていた。時計を見た柳が、そろそろ帰ろうと皆を促す。もう少しいいじゃん、と幸村は不満そうだったが、後で怒られるのは自分と言う事もあって、無理強いすることはなかった。
 一人、また一人と名残惜しそうに病室を出て行く部員を見ながら、また明日な、と最後に真田が出て行こうとしたとき、幸村に呼び止められた。
「真田、今日は有り難う」
「何をいう幸村、俺の方こそ礼を言わねばならん。美味いケーキまで用意して貰って、皆に祝わってもらえて、俺は本当に幸せ者だ」
「ストーップ。その台詞を言うのはちょっと早いんじゃないの?」
「何?」
 真田の口元に指を当てて、言葉を遮った幸村は、ニヤリと笑った。
「まだ間に合うよ。手塚に連絡したら?」
「幸村、お前まで」
 何を言うのだ、と真田が慌てた様子を見せると、分かってないなあと幸村が首を振る。
「今日はお前の誕生日なんだよ、真田。蓮二に聞いたけど、俺との約束があったから、手塚の誘いを断ったんだって?お前本当に馬鹿だな。こんな日まで俺たちに付き合ってくれなくても良かったんだよ?」
「幸村。俺は、自分の意思でここに来た。……手塚と共に過ごしたいという気持ちもあったことは認めよう。だが、お前と、蓮二と、柳生や仁王、丸井、ジャッカル、そして赤也と共に過ごしたかったのだ。お前達は、俺にとってかけがえのない仲間だ。どちらが大切かなど、比べられるようなものではないのだ」
 きっぱりと言い切った真田の言葉に、幸村は複雑な思いだった。何かあれば手塚手塚とうるさい真田の事だから、きっと手塚からの誘いがあればそちらを優先するに違いないと思っていた。今回病院へ呼んだのは、誕生日を祝いたい気持ちはもちろんあったけれど、真田の気持ちを試す意味もあったのだ。
 だが、真田の返事に、幸村は自分が真田の事を分かっていなかった事に気づいた。否、長い入院生活で忘れてしまっていたのだ。真田弦一郎という男は、幸村と初めて出会った頃から、何も変わっていない。
「……ごめん」
「何を謝る、俺はまた何かおかしなことを言ったか?」
「いや、違うんだ。……いいよ。真田はもう帰りなよ。みんなも外で待ってるし。それと、病院を出たら手塚にもちゃんと連絡して。これは部長命令だからね」
「いや、しかし幸村」
「口答えは許さないよ」
 有無を言わせぬ強い口調に、真田も最後には頷くしか無かった。渋々ながらではあったが了承した真田に、幸村はほっとする。同時に、真田がここに来てくれたときから感じていた罪悪感が少しだけ薄れたような気がした。
「では、また明日」
「うん、待ってるよ。お休み、真田」
 穏やかに手を振る幸村を見ながら、真田はゆっくりと扉を閉めた。
「遅かったな」
「蓮二。待たせたな」
「いや、構わないさ。他のみんなは先に帰らせた」
「そうか。ありがとう」
 面会時間も終わり、照明が薄暗くなった廊下を夜間出口へ向かって歩いて行く。病院を出たのは時刻は午後七時を少し回ったところで、辺りはまだぼんやりと明るい時分だった。
「そういえば弦一郎、家には連絡をしたのか?手塚と会うのであれば、先に遅くなるよう電話をしておいた方が良い」
「おお、そうだった。帰る頃に連絡をするよう言われていたのだ」
 慌てて携帯電話を取りだし電話をかけ始める真田を苦笑しながら見ていた柳だったが、突然なんだと、と叫んだ真田の声の大きさに、思わず目を見開くはめになった。
「それは本当なのですか!?はあ、ええ、それは……その……とにかくすぐに戻ります!」
「どうしたんだ弦一郎。自宅で何かあったのか?」
 慌てて携帯電話の通話終了ボタンを押した真田に何事かと柳が訊ねると、真田は驚きを隠せないといった表情でまくし立てた。
「手塚が家に来ているというのだ!あやつ、約束などしていなかったというのに一体どういうことだ!?」

***

 駅で柳と別れた真田は、駆け足で自宅まで戻った。普段から鍛えているとはいえ、制服を着て鞄やラケットバッグを背負ったまま走るのはなかなか骨が折れる。お陰で家に着いた頃には汗だくになっていた。
「た、ただいま戻りました」
「お帰りなさい弦一郎。国光君がお待ちですよ」
 出迎えに出てきてくれた母に帰宅の挨拶をしてすぐに、手塚はどこにと問えば、母親は慌ただしい息子の様子に苦笑しつつ、
「居間にいますよ。早く着替えていらっしゃい、すぐにご飯にしますからね」
 その答えにほっと安堵のため息を吐く。真田は靴を脱いで玄関脇に揃えて置くと、自室に戻る前に居間に顔を出した。
「おお、弦一郎。手塚の孫が来ておるぞ」
「お、お祖父様。弦一郎、ただいま戻りました」
 まさか祖父がそこにいるとは思わず、真田は僅かに動揺した。と思えば、祖父の正面に座っていた手塚の陰から、甥っ子である佐助がひょっこりと顔を出す。
「ねーねーおじさん、この人おじさんの友達?」
 そうしてこの人、と手塚の事を指さした佐助を真田は声のトーンを上げないよう注意しながらたしなめた。佐助を頭ごなしに怒鳴りつけては、効果がないどころか状況が悪化するだけだということは、一緒に暮らし始めてから一月も経たないうちに学習している。
「佐助くん、俺はおじさんではないと何度言えば……それに、人を指さすとは失礼だろう」
「おじさんと同じくらい老けてるよね。おじさんと同い年なんでしょう?」
「さ、佐助くん!」
 自分は周りから老けているだの、見た目が年齢と合わないだのさんざん言われているから最早気にもしなくなっていたが、手塚は分からない。相変わらず表情を変えない手塚の方を見て、真田は恐る恐る声を掛けた。
「手塚?その、すまん、甥っ子が」
「かまわない。それに、老けているという言葉は俺も言われ慣れている」
「そ、そうか。それなら良かった……わけではないが。それはそうと手塚、どうして今日は我が家へ来た!?お前とは約束を」
「幸村の見舞いは終わったのか?」
 話を見事に遮られ、真田は面食らう。手塚は真田の発した言葉など気にする様子も無く、もう一度終わったのか、と訊ねた。
「あ、ああ。終わった。終わったから帰ってきたのだが」
「それならば、この先他に約束は無いと言うことだな」
「それはそうだが……」
 手塚の言わんとしている事が分からず、真田が返事を迷っていると、手塚はすっと立ち上がり、真田の向かいに立ってこう言った。
「お前の誕生日を祝いに来たんだ。素直に祝われてはどうだ」
「うむ、手塚の孫というところは気に食わんが、わざわざ弦一郎を祝う為にはるばる東京から来てくれたその心意気は見事だ」
 祖父があごひげを撫でながら頷けば、佐助もおじさんテニス部以外の友達いたんだねと感心したような顔でこちらを見ている。そして、当の手塚はまっすぐ真田を見据えており、真田はその視線をもろに受けて思い切り怯んだ。危うくテニスバッグを取り落としそうになるのをぎりぎりの所で耐えて、
「ちょ、ちょっとこっちに来い!」
 手塚の腕を掴んで居間から引っ張り出した。そのままずんずんと自室へ向かって歩いて行く。手塚といえば、真田に手を握られたまま、素直に少し後ろを歩いていた。
「貴様、どういうつもりだ!」
 二人で真田の自室に入り、勢いよくドアを閉めた所で、くるりと振り返った真田が手塚に詰め寄る。
「お前は放課後、幸村の見舞いがあって遅くなると言っていたから、ここに来ればお前に会えるだろうと思った。俺は見舞いの後ででも少し時間をもらえればそれで良かったのだが、お前もご家族と過ごしたいだろうし、あまり遅い時間に別の場所へ呼び立てるのも申し訳ない。その点お前の家ならば、お前は帰りが遅くなることは無いし、家族で誕生会をする予定の邪魔にはならないだろうと考えたのだが」
 何か間違っていたかと問われて、真田は頭痛がした気がした。手塚の言う事は間違いでは無く、真田の負担にならないようにと配慮された上での行動なのだから、真田が怒る筋合いは無いような気がする。
「……お前の行動は突飛すぎるのだ……まさか家に来るとは思わなかった」
 はあ、とため息を吐いて、真田は帰宅してからずっと肩に掛けたままだったテニスバッグを下ろすと、そのまま床にあぐらをかいて座り込む。そんな真田を上から見下ろす形になった手塚は、真田の名前を呼んだ。その声に反応して、真田が顔を上げる。
「何だ」
「誕生日おめでとう」
「っ……!」
 真顔でそう言われては、咄嗟に返す言葉も思い浮かばなかった。
「あ、ありがとう……」
 そう返すのが精一杯だ。だが、手塚は座った真田の肩に手を乗せると、頭の上に乗ったままだった帽子を取り、額に掛かる髪を掻き上げた。普段滅多に晒されることの無い額は、思った以上に白い。
 その額の中央に、手塚は軽い口づけを落とした。対する真田は、手塚の思いも寄らぬ行動に驚いて、身体が動かない。されるがまま、額への口づけを享受する。
「お前の誕生日をこうして祝うことが出来て、良かった」
「て、手塚!」
 何をするのだ、とようやく我に返った真田は慌てて立ち上がった。が、今度は強引に抱きしめられる。
 端から見れば手塚が抱きついているような格好になっているのだが、幸い他に見ている人はいなかったので、抱きしめられている真田と抱きしめている手塚という構図が、本人達の頭の中だけで成り立っていた。
「一年後、来年のお前の誕生日は、俺のために時間を空けておいてくれないか、真田」
「そんな先の話、約束できん」
「そうか。だが、お前が約束をしてくれるまで、俺は言い続けよう。そうでもしなければ、また幸村達との約束を優先されかねない」
 来年、という言葉に、真田はちくりと胸の痛みを感じた気がした。来年は順当に行けば立海大付属高校に進学しているはずで、それは今のテニス部のメンバーも同じはずだ。
 だが、幸村はその場所にいるだろうか。
 そう考えると胸が痛んだ。手塚の事は好きで、大切だと思ってはいるが、それと同じくらいに今一緒にテニスをしている立海大付属中テニス部のメンバーも、真田にとってかけがえのない存在なのだ。優劣など決められないほど、どちらも欲している。
「真田?」
「あ、ああ、すまん……」
「テニス部の事でも考えていたのか」
 ずばり言い当てられて、真田は手塚の腕の中で動揺した。
「!!……何故分かった?顔に出ていたか?」
「お前の考えている事なら、大体は分かる」
「なに、それは卑怯だ!俺は未だにお前の考えている事が分からないというのに、お前には俺の考えている事が分かるなど」
 ずるいと騒ぐ男に、手塚はため息を吐いて、それも善し悪しだと呟いたが、真田には届かなかった。
「お前がチームを大切にする気持ちは分かる。俺も青学テニス部を日本一に導くためならば何でもするつもりだ。だが、同時にお前が所属しているテニス部に嫉妬もする」
「何を馬鹿なことを」
「互いが所属するテニス部が存在する限り、俺たちは互いの一番になれないのだろうか」
「そんな事は無い!」
 思わず、真田はそう断言していた。
「お前が言うように、俺にとって立海大付属中テニス部は何より大切なものだ。だが、だからといってお前が二番手であるとか、そういう事にはならぬ。比較しようがあるまい。俺にとってはどちらも一番だ。欲張りだと言われようとも、その事実に変わりは無い」
「……そうか」
 手塚の返事はいつもと変わらぬ短いものだったが、声のトーンが普段よりも少しだけ上がっている事に真田は気づかなかった。
「……今日、同じ事を幸村にも訊かれたのだ」
「同じ事を答えたのか?」
「ああ。幻滅するか?」
「いや、お前らしいと思っただけだ」
 そんな手塚の答えに、真田はほっと胸をなで下ろした。


 その後、手塚は帰ろうとしたところを真田の母に呼び止められ、半ば強制的に夕食をごちそうになる事になった。真田の好物ばかりが並んでいるという食卓は、家族全員が揃い、とても賑やかで楽しいものだった。
 デザートのケーキまで頂き、しっかりと胃袋が満たされたところで、手塚は今度こそ帰る事にした。家族と過ごすくつろいだ様子の真田を見ることが出来たのは良かったが、真田と二人きりで話した時間はそう多くなく、このままではいつまでも未練がましく居座り続けてしまいそうだったからだ。今日は平日で、明日も学校があるから、家に帰らないわけにもいかない。
 門をくぐろうとした時、途中まで送ろうと真田が手塚を追って出てきた。
「今日はその、わざわざ済まなかったな」
「いや、俺の方こそ勝手にやって来たにも関わらず、夕飯までごちそうになり申し訳ない。後でご家族にもよろしく伝えておいてくれ」
 うむ、と真田が頷く。それきり互いに言葉を交わすことも無く、黙ったまま並んで駅までの道を歩いて行く。
 五月も半ばを過ぎたが、未だ夜の空気はひやりと冷たい。だが、どこか高揚したままの気分を沈めるには丁度良い具合でもあった。
 その時、手塚の手が真田の手に触れた。どきり、と心臓がはねた次の瞬間、手塚の指が真田の手に絡みつく。
「手塚」
 非難めいた口調で名前を呼んでも、手塚は素知らぬ顔だ。振り解こうと思えばいくらでも出来たはずなのに、互いの皮膚が触れ合う箇所が暖かく、離しがたい気になった真田は、駅に程近い商店街に至るまで、手塚の良いようにさせていた。
 商店街を抜ければ駅はすぐそこだ。程なく来る手塚とのしばしの別れを思うと、寂しい気持ちになるのが自分でも不思議だった。
「そうだ、忘れていた」
 駅の改札の前に立った時、唐突に手塚が立ち止まった。そしてその場で鞄を開けて、中から何かを取りだした。手塚の手に乗っているのは小さな薄い紙袋で、サイズは文庫本ほどだろうか。
「これを渡さなければここに来た意味が無い。真田、誕生日プレゼントだ」
「手塚、気を遣わずともいいと言っただろうが」
「前にも言ったが、プレゼントを用意するのは俺にとって負担では無い。むしろ何を送るか考えるのはなかなか楽しかったぞ」
 手塚は持っていた紙袋をぐい、と真田に押しつける。結果的に受け取ってしまったそれを眺めていると、開けてみてくれないかと言われたので、真田は受け取った包みをその場で開いた。小さく軽いその袋の中からは、長方形に近い形をしたものが出てきた。
「これは」
「栞だ。お前は時代小説を読むと聞いたからな。これならば使い道もあるだろうと思って選んだ」
 そのしおりは紙ではなく革で出来ているようだ。しっとりと柔らかい感触はすぐに指の先に馴染む。色も真田の好む黒で、シンプルなデザインの縁取りに加えて、真田のイニシャルが小さく型押しされている。
「気に入ったか?」
「有り難う。大切に使わせてもらう」
 真田が礼の言葉を口にする、手塚が口の端を上げて笑った。が、それも一瞬の事で、真田が目を奪われていた間にいつもの表情に戻っていた。
「また連絡する」
 改札のこちらと向こうで別れた時、真田はホームへ向かう背中に言った。
「ああ。……手塚。次に会えるのは関東大会か?都大会で敗退するなよ」
「もちろんだ。俺たち青学は今年こそ全国へ行く。そしてお前たち立海大付属を倒して青学が全国を制する」
「ぬかせ。今年も我ら立海大付属が優勝だ」
 鼻で笑うと、手塚は静かな表情で真田を見据え、
「お前と公式戦で戦うのを楽しみにしている」
 挑発とも言えるその言葉に、真田は不敵な笑みを返した。子どもの頃に対戦した際は無残にも敗れたが、真田とてあの頃のままではない。手塚を倒す日を夢見て練習を重ねてきたのだ。
 その時、電車が接近しているアナウンスが流れた。それではな、と手塚がきびすを返したのを確認し、真田も駅に背を向ける。
 一人で家までの道を歩きながら、今日一日を反芻していた。部活の仲間達に祝ってもらったこと、手塚の突然来訪と家族との晩餐。そして最後にもらったプレゼントが今真田の手の中にある。
 本当に充実した一日だったと、真田は心の中で今日祝ってくれた全ての人に感謝したのだった。