熱中症



 暑い日だった。
 真田は一人で公園のベンチに座っている。
 木の上で鳴く蝉の声が幾重にも重なって耳がおかしくなりそうだ。真田は被っている帽子を取って、ハンカチで汗を拭った。
 待ち合わせの相手はまだ姿を見せず、時計と相手が来るだろう方向を何度も見てはため息を吐く。約束の時間は過ぎており、あいつはこんなに時間にルーズだったかと腹立たしく思う一方で、何か事故や事件に巻き込まれたのでは無いかと心配になったりもする。
 なにより、相手の事を考えるだけで落ち着きがなくなる自分が嫌になって、真田は唇をかみしめた。それもこれもあいつの所為だと、内心で悪態を吐いていると、どさり、と隣で誰かが腰を下ろす気配がした。
 慌ててそちらを見ると、そこには真田の待ち人が涼しい顔をして座っているではないか。
「なっ、手塚!?貴様いつの間に」
「先ほど着いた。少し遅れてしまったな、すまない」
「全くだ!そもそも日時を指定したのは貴様だろう、その貴様が時間に遅れるなど!」
「すまなかった。予定通りの時間に家を出たのだが、電車が少し遅れていたようだ」
 そう素直に謝罪されて、真田は言葉に詰まる。本当は言いたい文句が山のようにあったはずなのに、あっさり非を認められてはこれ以上言葉を続けることが出来るはずもなかった。苦々しい気持ちで言葉の山を飲み込み、真田はところで、と話題を変えた。
「今日は何用だ?見たところテニスラケットを持っていないようだが」
「今日はお前とテニスをしに来たわけでは無い。大体、俺たちが会う理由はテニスだけなのか、真田」
「そうは言っておらん」
 と真田は言ったが、実際に二人が会ってすることと言えばテニスが主で、それ以外にすることと言えば、互いの学校での生活について多少話をするくらいだった。幼い頃の話を時々手塚が振ってくることはあるが、それも会話の一つの話題に過ぎない。
 かといって、テニス以外に共通する趣味も持ち合わせていない。だから、結果的にテニスをすることになるのだが。
「理由無く会いたいという気持ちだけで来てはいけないか」
「は……」
 思わぬ言葉に、真田は再び言葉を繋ぐタイミングを失った。何を言い出すのだとまじまじと手塚の顔を眺める。そして、熱中症にでもなったかと内心慌てた。顔色は今のところ問題なさそうだが、こんな場所では熱中症になってもおかしくはない。
「手塚、大丈夫か?もっと涼しいところへ移動するか?」
「何を言っている真田」
「いや、お前が熱中症にでも懸かったのではないかと思ったのだが。苦しくは無いか?」
「俺は大丈夫だ。真田、お前の方こそ大丈夫か?」
 ひどく汗を掻いているようだと、手塚の手が真田の顔に伸びた。そして、指で真田の額に浮かんだ汗を拭う。何をする、と抵抗しようとしたその時、ぐらりと視界がゆがんだ。
「真田?」
 手塚の声が遠くに聞こえる。身体を支えようとした手が宙を掴んで、ばたりとその場に落ちた。




「……田、真田、しっかりしろ」
 手塚の声にふっと意識が浮上した。目を開けると、目の前に僅かに表情を崩した手塚の顔がある。
「気づいたようだな」
「手塚?俺は」
「熱中症だ。お前は人の心配をする前に自分の事にもう少し気を配った方が良い」
 飲めるかと差し出されたのはスポーツドリンクのペットボトルだった。受け取ろうと手を伸ばすが、何故か手は真田の思うように動かず、手塚が差し出すそれに触れることが出来ない。手塚もそんな真田の様子に気づいたのか、一旦ペットボトルを引っ込めると、自らキャップを外してそれに口を付けた。まだ頭が上手く働かない真田がそれをぼんやり眺めていると、手塚はゆっくりと真田に近づいてくる。
「手塚、何、を」
 何をするのだと真田が言おうとした時、鼻の付け根と唇に何かが触れる感触がした。鼻の方は冷たく硬いもの、唇の方は柔らかいものだ。と同時に、甘い液体が口の中に流れ込んでくる。突然の事に咽せながらも少量のそれを何とか飲み込むと、再び手塚の顔が近づいてきて、同じように甘い液体を注がれる。
 それを何度か繰り返されているうちに、真田の思考がはっきりしてきた。そして、何度も自分の顔に当たっていたものが、手塚の眼鏡のブリッジと、唇であったことに気づいた。
 心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる手塚と視線が合う。
「顔色が戻ってきたようだ。起きられるか?」
「む……何とかなりそうだ」
 先ほどまで腕さえまともに動かせなかった身体は、少し力を入れただけであっさりと真田の言う事を聞いてくれた。起き上がってみて気づいたのだが、自分は先ほど手塚を待っている間に座っていたベンチの上に横たわっていたらしい。きょろきょろと辺りを見回していると、目の前にペットボトルが差し出された。
「もう自分で飲めるだろう」
 頷いて、手塚からそれを受け取ると、真田は甘い液体が入ったそれに口を付けた。全身が水分を欲しているのが分かる。そのまま勢いに任せて中身を全て飲み干した。
「……すまなかった」
 真田がスポーツドリンクを飲み終えるまで、手塚は隣に座って黙っていたが、突然そう言った。
「何を謝っているのだ、手塚」
「俺がお前をこんな所で待たせたから」
「それは違うぞ手塚。俺は待ち合わせの時間よりも少しばかり早く着きすぎたのだ。それにお前が遅刻したのは電車の所為ではないか。そもそも俺がきちんと体調管理をしていればこんな事にはならなかった。だから、お前が謝ることは無い」
 真田は大きくかぶりを振って、そう言った。だが、手塚の顔は晴れない。まだ何か気に掛かることがあるのかと問えば、手塚は言った。
「思いがけず、お前と唇を重ねることになってしまったことに、俺は動揺しているようだ……」
 苦しそうな表情で、手塚がそう言った。
「何」
「真田。お前は気持ち悪くなかったか。仕方が無かったとは言え、お前の許可無く唇を重ねてしまった」
 そう言われて初めて、真田は手塚と口づけをしてしまったことに思い至り、かあっと全身に熱が戻った気がした。平熱を取り戻したはずの顔が熱い。
「お、俺は、別に……それに、致し方なかったのだ!お前が口移しで飲ませてくれなければ、俺は身体を起こすこともままならなかっただろう。むしろ貴様には感謝しているぞ、手塚」
 だから、気に病む必要は無いのだと真田が言うと、違うのだと手塚が首を横に振った。
「俺は、こんな形でお前とキスがしたかったわけじゃない……」
「どういうことだ?」
「きちんと、手順を踏みたかった。お前から許可を得て、それから」
 一歩一歩確かめながら、恋人としての手順を踏んでいきたかったのだと言う手塚に、真田は掛ける言葉が見つからなかった。まさか手塚がそのようなことを考えているとは思いもしなかったからだ。
 そして、そう言われるまで、真田は手塚が恋人として付き合って欲しいと告白してきた意味を本当の意味で理解していなかった事に気が付いた。手塚の告白を受け入れながらも、心の内ではどこかこれまでの幼なじみであり、テニスのライバルであるという関係がそのまま継続するだろうと、何の根拠も無くそう思っていた。だが、手塚がわざわざ「恋人として」と断ってきた以上、もっと真剣にその告白の意味を考えるべきだったのだろう。
 目の前が真っ白になる。次いで、どくどくと心臓が早鐘を打ち始めた。恋人という言葉を意識した途端、手塚の顔がまともに見られない。顔は先ほどから熱いままで、告白の意味を取り違えていた事に対する恥ずかしさなのか、それとも手塚とキスをしてしまった事に対する恥ずかしさなのか、自分でももう分からなかった。
「真田?」
 黙り込んでしまった真田を気遣うように、手塚がそっと肩に手を触れた。途端、これまで触れられても何も反応しなかった身体が、勝手に跳ね上がる。
「す、すまない!俺は……俺は」
「どうしたんだ」
「わ、忘れ物をした!一度家に取りに戻る!」
 何とも稚拙な言い訳だったが、気が動転してしまった真田にはそれ以上に上手い言い訳が思いつかなかった。座っていたベンチから勢いよく立ち上がり、公園の出口へ駆け出そうとしたその時、再びぐらりと視界が揺れる。足がもつれてバランスを崩した身体は、そのまま地面へと倒れ込んでいく。
「待て真田、まだ動いては……!」
 そんな手塚の声を背に、地面にぶつかることを覚悟して真田がぎゅっと目を閉じた時、ぴたりと身体が止まった。そして、今度は反対にぐいと身体が起き上がっていく。何事かと恐る恐る後ろを振り返れば、何のことは無い、手塚が自分の腕を掴んで引き寄せようとしている姿が目に入った。
「……真田」
 手塚が自分の名前を呼ぶ声に些かの非難が含まれている気がして、真田は顔を伏せた。今日は本当に、手塚に迷惑を掛けてばかりだ。
「お前は、先ほどまで自力で起き上がれぬほどの熱中症に懸かっていた事を忘れたのか?」
「面目ない……」
「いや……そもそも俺が、こんな所で待ち合わせをしなければ良かったんだな……すまない」
 今度は手塚が謝る。そんな手塚を見ていて、真田は自分たちが先ほどから謝ってばかりだということに気が付いた。
「もう謝るのは止めないか、手塚。互いに謝るために今日約束をしたわけでは無いだろう、俺たちは」
「真田。いや、そうだな。すまな」
 かった、と言いかけた言葉を慌てて引っ込める手塚の、少し慌てたような顔がおかしくて、真田はふっと吹き出した。手塚もそれにつられるように、口の端を上げて顔に笑みを浮かべる。
「場所を移すか。もう少し、涼しいところに」
「それならば、俺の家に来るといい。クーラーは無いが、ここよりは多少涼しかろう」
「しかし、突然訪問してはご家族の迷惑にならないだろうか」
「心配するな、今日は皆それぞれの用事で出払っていて家には誰もいない。大したもてなしは出来ないが、その代わり気楽にするといい」
 それでも渋っていた手塚だったが、真田に重ねて言われてはそれ以上断る理由も見つからなかったのだろう。最後には一つ頷き、二人は真田の家へ向かうことにした。