ラストマッチ



 今日も残暑が厳しい。外に立っているだけで汗が吹き出すような気温の中、ネットを挟んで小さなボールを打ち合う。
 数日前、偶然に顔を合わせた際にお互いラケットを持っていたことから始まったこのゲームは、明確な約束をしたわけでもないのに、毎日続いていた。
 約束をしていないのだから、どちらかが来なければそこで終わる関係のはずだが、それを解消するのが惜しくて、リョーマは毎日このコートに足を向けていた。相手も同じ気持ちだったのか、律儀に毎日姿を見せていた。
 これまでの試合結果は五分五分。それも、タイブレークにタイブレークを重ねた紙一重での決着ばかりだった。
 全身汗まみれになりながらも、ボールを追うのが楽しくて仕方が無いといった様子で、リョーマは相手のコートにボールを打ち返す。
 相手の男も真剣な表情でボールを追い、リョーマの立つコートに打ち返してくる。ゲームのカウントは都度大きく揺れて、今日もどちらが勝つのか予想も付かない。
「にゃろう」
 しつこく打ち返されてくるボールに舌打ちをしながら、リョーマは大きくラケットを振った。打ち上がったボールは相手の頭上を大きく越えて、その後ろにあるラインに落ちるはずだ。これでオレのポイントだと口の端を微かに持ち上げた。
「ふっ、ぬるいわ!」
 だが、相手の男は瞬時にボールの場所へと移動したように見えた。そしてボールは綺麗にリョーマの後ろへと打ち返されていた。
「俺を出し抜くなど、百年早い」
「オレは負けるつもりなんか無いけど、ね!」
 咄嗟に伸ばしたラケットがギリギリの所でボールを捉えた。全身を使って打ち返したボールの軌道は、男が予期したものとは違っていたのだろう。結果、相手のコートの端に落ち、大きくバウンドした。
 その一球で、勝負は決した。
「オレの勝ち!」
 思わず大きな声で叫ぶと、リョーマはその場所に倒れ込んだ。荒い呼吸を整えるために何度か深呼吸をしながら、雲一つ無い空を見上げる。
「くそっ……二度もお前に後れを取るとは……!」
 足下から、悔しそうな声が聞こえて、上半身を起こすと、その場所で男が膝を折り、俯いていた。
 ギャラリーも殆どいないような草試合でさえ、負ければ悔しい。その気持ちはリョーマも同じだ。だからこそ簡単に負けるわけにはいかない。
 顔を流れる汗をリストバンドで拭いながら、立ち上がって男に背を向けると、後ろから待て、と呼び止められた。
「おい越前、もう一試合だ! 次こそは俺が勝つ!」
「まだやるつもりっすか? もうへとへとなんじゃないの?」
 それに、一日一ゲームだって決めたのはそっちじゃないですかと言い返して振り返ると、男は射るような視線でリョーマを見ていた。
 ぞくり、と背筋が粟立つ。熱を持った視線に射貫かれて、心がざわついた。
「……怖いっす、真田さん」
 茶化すようにして視線を逸らすと、真田もまた、声のトーンを落とした。
「……今日で最後なのだ。もう一試合付き合わんか」
「最後って、それどういう意味っすか」
「とぼけるな。明日アメリカへ発つのだろう?」
 その言葉に、リョーマは目を見開いた。確かにリョーマは明日の飛行機でアメリカへ渡ることになっていた。だが、真田にはその事を伝えていなかった。それなのに何故知っているのだろう。
「なんでその事」
「ふん、手塚に聞いたのだ。このまま勝ち逃げなど許さんぞ」
 草試合だろうとなんだろうと、あくまで勝ちに拘る真田は、そう言って立ち上がった。だが、声色に一抹の寂しさを感じたのは、リョーマの錯覚であったか、それとも。
 そして、真田の口から手塚という名前が出た事に動揺する。二人が知り合いだということは聞いていたが、連絡を取り合うような間柄だとは知らなかった。何故真田は手塚に連絡を取ったのだろう。そして、どういう経緯でリョーマの渡米を知ることになったのか。
 なんとなく、おもしろくないなと思った。
「……オレ、明日の準備とかあるんで帰ります」
 真田の要望には応えず、リョーマは真田に背を向けると、ラケットを片付け、バッグをひょいと肩に担ぐ。
「越前、どうした。俺がお前の渡米をしっていたことが面白くなかったのか」
 機嫌を損ねたのかと言われて、こんな時だけめざとい真田に、苛立ちを感じた。いつもはあんなに鈍感で、リョーマの気持ちになど気づきもしないくせに、と。
「越前!」
 無視してコートを出て行こうとするリョーマの名を真田が呼んだ。仕方なく振り返ると、仁王立ちになってこちらを見ている真田と相対した。
「オレに負けて、悔しいっすか」
「もちろんだ」
「そんなに悔しいんだったら、オレのいる場所まで来て」
 リョーマの言葉に、真田は怪訝な表情をしたが、すぐにリョーマの傍まで近づいてきた。
「これでいいのか?」
「違うって。今じゃない。この先の話。オレはもう真田さんとは試合しないよ。だから、オレと戦いたかったら」
 耳貸して、と言うと、真田は少し屈むような姿勢になった。リョーマは少し背伸びをして、真田の耳元に顔を近づける。そして、耳たぶにチュッと音を立てて口づけた。
「!? 貴様、今、一体何をした!?」
「手塚部長でも、あんたのところの部長でもなくて。オレの事をちゃんと見て、追いかけて来てよ」
 待ってるから。それだけを言い残して、リョーマはコートを後にした。真田がどんな表情をしているか気になったが、敢えて振り返らない。今振り返れば、きっとこの場所から離れがたくなるだろうから。
 駅までの道を一人歩きながら考える。
 この数日で、真田の心の中に、少しはリョーマの場所を作ってもらえたはずだ。後はその場所をどんどん広くしてもらわなければならない。手塚や幸村に負けないほどに、広く広く。
 その為に今のリョーマに出来る事は、真田にとって追いかける価値がある選手になることだ。いや、必ずなってみせると、長いラリーを続けた所為でしびれの残っている手のひらをぐっと握りしめた。