午前零時の声



「もうじきお前の誕生日だな」
 休日、待ち合わせた喫茶店で飲み物を飲みながら他愛ない話をしている時に、真田が何気ない様子でそう口にした。だが、跡部は驚いたのか、僅かに目を見開き、真田の顔を見た。
「……覚えてたのかよ」
「悪いか?」
「いや、意外だと思っただけだ。お前にそういうのは期待してなかったからな」
 そう言われても仕方が無いことは自覚している。真田が誕生日を覚えているような人はごく僅かだ。その僅かな人の中に跡部が入っているのは、以前跡部の誕生日についての話を聞いたことがあったからだ。
「……誕生日が平日であれば、学校全体でのお祭り騒ぎになるほどだと、以前誰かが話しているのを耳にした事がある」
 確か、丸井からだったと記憶している。彼は氷帝学園の芥川と仲が良い。
 初めてその話を聞いたとき、派手好きのする事だと嫌悪感すら抱いたものだ。真田がそう言うと、跡部は渋い顔で反論する。
「俺がやりたくてやってるんじゃねえよ。周りが勝手にやってるんだ」
「そうなのか?」
「お前な、俺の事ただの派手好きとしか思ってないだろう」
「そういうわけではないが……いや、そう思っていた。つい先日までな。だが、お前が主導していることではないなら、それだけ周りから慕われているということなのだろうな」
 見直したぞと言う真田に、跡部は複雑な表情だ。
「どうだかな。俺の誕生日にかこつけて騒ぎたいやつが大半だろうぜ」
 それでも祝われること自体に悪い気はしないのだろう、特に止める事はしなかったと跡部は言う。
「だが今年は日曜だろう。久し振りに静かに過ごせるのではないか?」
「そうだったら良かったんだがな……」
 学校が休みであっても、別の予定があるのだと跡部はため息を吐く。よく分からないが、財閥の跡取り息子というのは色々大変なのだな、と真田は思ったが、口には出さずにおいた。
「それで、話とは何だ」
「誕生日の話だ。いや、その前日だな。お前、予定はないか」
「前日、ということは三日……土曜日か。大丈夫だ。お前の方こそ大丈夫なのか」
 暗に部活の事を指している事に跡部は気付いたようで、大丈夫だと頷いた。
「ああ、部活はもう日吉に任せてある」
 それは真田も同じだった。夏の大会が終わり、部活は既に二年生を中心としたチームが構築されつつある。その為あまり顔を出さないようにしようと決めてから、平日はともかく土日に部活へ行くことは無くなった。
「それで、何用だ」
「泊まりに来て欲しい。この家に」
「泊まり……?」
 跡部が意図している事が分からず、真田は眉根を寄せた。跡部の家には何度か行ったことはあるが、泊まりではない。そもそも泊まる必要があるほど長い時間を一緒に過ごしたことがなかった。
「別に構わんが……泊まって、何をするのだ? テニスか?」
「テニスねえ……お前は夜通しテニスするつもりなのか? まあ俺様の家なら二十四時間プレイ可能なコートがあるが、そういうことじゃねえよ」
「では何だ」
 跡部はため息を吐くと、
「……分からないなら、幸村か柳にでも聞いてみろよ」
 と言った。もちろん冗談のつもりだった。彼らは真田と跡部が「おつきあい」している事を知っている。真田が本当に相談した場合、驚かれることは無いにしても、余計な事を吹き込まれる可能性はある。彼らは跡部の事を真田の相手として良く思っていないだろうから。
「幸村や蓮二に?」
「ばーか、冗談だよ。本気にするな。とにかく三日はここに来い。いいな」
 終いには命令口調になった跡部に、真田は顔をしかめたが、それでも否とは言わなかった。



「良く来たな、真田」
 十月三日、真田が約束通り跡部の家を尋ねると、いつも迎えてくれる執事とおぼしき男性ではなく、跡部自らが出迎えた。
「お前が出てくるとは、どういった風の吹き回しだ」
「良いだろ別に。こっちこいよ」
 そう言って歩き出した跡部の後に付いていくと、普段とは違う部屋へ向かっていることが分かった。ここに来た回数はそれほど多くないが、その全てにおいて、玄関から見て建物の左側にある部屋に通されていた。だが跡部は建物の右側へ向かっている。
「跡部、いつもと部屋が違うようだが」
「アーン? 良いんだよ。いつもの場所は応接室だが、今日は俺の部屋へ行く」
 跡部の部屋。つまり真田が一度も足を踏み入れたことが無い場所だ。そう考えた途端、急に鼓動が早くなったのは、幸村と柳に言われた言葉を思い出したからだ。
 直前になっても跡部が意図したことが分からず、テニスラケットを持って行くべきかどうか、幸村と柳に相談したところ、二人は呆れかえった様子で、顔を見合わせた。
『真田、それ本気で言ってるの?』
『俺は少しだけ跡部に同情した』
『泊まりに来て欲しいって、つまり、アレだろ? セックスするってこと』
『弦一郎、お前と跡部は付き合っているのだろう? ならば精市の言ったことが正しい可能性は極めて高いな』
『心の準備が出来てないなら、適当に断って帰って来ちゃいなよ。跡部だって無理にはできない……いやしないだろうし』
『そうだぞ弦一郎。無理に従うことは無い。嫌なことは嫌だと言うべきだ』
 二人のやり取りを思い出し、真田は跡部の後ろでぎゅっと手を握りしめた。跡部は本当に自分とセックスがしたいなどという気持ちを抱いているのだろうか。もしそうだとしたら、いつからだろう。告白する前からそのつもりだったのか、それとも付き合い始めてからそういう思いを抱くようになったのか。
 告白されて付き合う事になったが、その先に何があるのかも知らないで了承の返事をした事を少し後悔していた。もう少し考えてから返事をすべきだったのだ。
 悶々と考えながら、それでもはぐれないようにと跡部の背中を必死で追いかける。屋敷は広く、案内無しではとても目的の場所にたどり着けそうになかった。
「ここだ」
 かなり奥まった場所に跡部の部屋はあった。重厚な扉の向こうには、個人の部屋とは思えない程の空間が広がっていた。部屋の中にもいくつか扉が見える。
 何より真田が驚いたのは、インテリアが思いの外シックな色合いに纏められているということだ。応接室は大きな花の柄物といった、良くも悪くも目立つファブリックが使われていたから、跡部の部屋も似たようなものだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
「どうだ? 氷帝のやつらすら入った事が無い部屋だ」
「うむ……すっきりしているな。もう少し派手かと思っていた」
「バーカ、派手な部屋じゃ落ち着かねえだろ」
 まあ座れよ、と言って跡部が腰掛けたのは大きなベッドの端だった。途端、幸村の台詞が再び脳裏を過ぎる。一瞬のうちにどうするか悩んだ真田だったが、ごくりと生唾を飲み込み、緊張の面持ちで跡部の傍に近づくと、少し距離を開けて座った。
「おい、何故そんなに離れて座るんだよ」
「お、俺の隣では跡部が暑苦しいのでは無いかと思ってな」
「今日は涼しいから構わないぜ? それとも暑いなら空調を効かせるか」
「い、いや、いい!」
 仕方なしに真田はもう少しだけ跡部と距離を詰めて座り直した。それでも跡部は不満顔だったが、ふと思い立ったように、
「お前、幸村と柳に話したな?」
「ど、どうして分かった!?」
「態度がいつもと違いすぎるんだよ。まだ余計な事を吹き込まれたな」
 はあ、とため息を吐く跡部に、真田は顔をしかめる。こっちは真剣に悩んでいるというのに、何だその態度は、とつい文句が出てしまった。
「大体、お前が幸村と蓮二に相談しろと言ったのだろう!」
「冗談だって言っただろ?」
「そもそも、お前が何の目的で俺を招いたのか言わないのが悪いのではないか。分かれば二人に訊かずに済んだわ」
 真田がそう言うと、跡部はばつの悪そうな表情で一瞬口ごもった。だがその表情はすぐに影を潜め、
「……それで、幸村や柳は何だって?」
 何て言われたのか、言ってみろ。跡部はそう言ってじっと真田の顔を見つめる。真田は跡部のこの表情に弱い。思えば告白されたときも、こうしてまっすぐ顔を見つめられていた。その真摯な姿勢を好ましく思ったから、了承の返事をした。
「お、お前が、俺と、せ、セックスをしたがっていると……」
 真田が顔を真っ赤にしながらそう言うと、跡部はため息を吐いて首を横に振った。
「そんな理由で今日お前を呼んだんじゃねえよ」
「そうなのか?」
 ぱっと顔を上げた真田に、跡部は複雑な表情を浮かべている。
「おい、そんな安心しましたって顔すんな。……もちろんお前とセックスしたいとは思ってるぜ? 付き合ってるんだから当然だろ。でもそれは今日じゃねえ。それに、その時は事前に言う」
「それならば……いやまて跡部。やはりそう思っていたのか! いつからだ!?」
「いつからかは覚えてねえな。大体そういう気持ちがなけりゃお前に告白なんかしねーよ」
「な、それはつまり俺の身体が目当てだったということか!?」
「んなわけねーだろ! 元々そういう趣味はねえよ! だが、好きな相手に触れたいと思うのは当たり前だろう!?」
「なに……? 俺だから? 俺だから良かったというのか?」
 跡部はしまった、と言って、真田から視線を外した。
「……くそっ、こんな話をするはずじゃなかった」
 跡部はすっと立ち上がると、一人部屋を出て行ってしまった。残された真田は呆然と閉められた扉を見ていた。だが、次の瞬間、先ほど跡部に言われた言葉の意味に気付いて、かあっと全身が熱くなっていく。
 誰でも良かったわけではない。真田だから好きになったと言っていた。そして、幸村達が言っていた言葉が蘇る。付き合っているなら、そう思う事は普通の事だと。
 ならば、そう思わない自分は、跡部の事を本当に好きなのだろうか?
 今日はセックスをするつもりでなかったことが分かり、安堵したのもつかの間、新たな不安が真田の中に沸き起こる。跡部に了承の返事をして本当に良かったのだろうか。そんな権利は自分には無かったのではないか……止めどなく沸き起こる否定的な感情に、真田は首を横に振った。
 その時、再び扉が開く音がした。顔を上げると、跡部と、その後ろによく見る年老いた男性が入ってきた。男性は茶器が乗った銀色のトレイを手にしている。
「景吾様、こちらに置かせて頂きます」
「ああミカエル、ご苦労」
 茶器をテーブルの上に置き、二つのティーカップに紅茶を注いだ男性は、恭しく礼をして、部屋を出て行った。
 再び二人きりとなった真田と跡部は、互いに口を開くタイミングを計っているかのように、じっと相手の顔を見た。それぞれ言いたい事はあるのだが、上手く口に出来ない。
「……話の続きは、喉を潤してからにしないか。淹れてもらった紅茶が冷めちまう」
 跡部がそう言ったので、真田は頷いて、テーブルの傍にあるソファーに移動した。跡部が差し出したティーカップを受け取ると、ふわりと花のような香りがした。
 そのまま二人は並んで、黙って紅茶を楽しんだ。そしてティーカップの中身が半分ほどになった頃合いで、真田の方が口を開いた。
「俺は、お前と付き合うような立場ではない」
「何言ってんだてめえ」
「お前は、俺の事を好きだと言ってくれた。そして、セックスをしたいとも。だが、俺は、まだそんな風には思えんのだ。お前の事は好ましく思っているのだが、俺の気持ちと、お前の気持ちは種類が異なっているのではないかと、そんな風に思って、それで」
 真田の言葉を遮るように、跡部がバーカ、と言いながら首を横に振った。
「お前、何を馬鹿な事言ってんだ。例え今そう思っていなくても、そのうち思えるようになるかもしれねえだろ。今日明日でそんな風に思えなんて無理は言わねえよ。大体お前、セックスが何をすることなのか分かって言ってんのか?」
「馬鹿にするな、それくらいは知識としてある」
「はっ、信じられねえな。まあいい。とにかく、お前も俺に対して少しでも好きだと思ったから了承したんだろ。なら今はそれでいい。元々無理だと思ってた事だ。多少待つことになったとしても、問題ねえよ」
「それで、いいのか?」
「俺様がいいと言ってる。だからそんなしょぼくれた顔をするな」
「それならば、何故今日俺を招いた?」
 最終的にはその話に戻ってくる。跡部は渋々、笑うなよと前置きした上で口を開いた。
「明日は俺の誕生日だろ」
「ああ。でも予定があって忙しいと」
「そうだ。だから明日は時間が取れない。でも、俺は、お前の口から直接聞きたかった」
 ようやく、真田の中で、跡部が今日泊まりがけで遊びに来いと言った理由が分かった気がした。元々日付が変わったくらいにメールは送るつもりだったし、場合によっては電話を掛けることも考えていたのだが、まさか、誕生日おめでとうと直接言ってもらいたいと思っているとは、予想外の事だった。
「……お前はあまりそういう事に拘らないと思っていた」
「普段はな。だがお前だけは別だ」
「お前の意図は分かった。だがそういうことならば最初からそう言ってくれればこんなに悩まずに済んだものを」
「俺から言えるか! 恥ずかしいだろうが!」
「俺には祭りのように周りから祝われる方が恥ずかしいと思うのだが」
「それとこれとは別だ、別」
 恥ずかしさからか、拗ねたように顔を背ける跡部を、真田は好ましいと思った。全てが桁外れのこの男にも、人間らしい一面があるのだと思うと、今までよりいっそう気持ちが傾いていくような、そんな気がした。



 日中はテニスをして汗を流しーー誕生日前だからと言って跡部に勝ちを譲るような事はしないのが真田だーー、夕食に舌鼓を打って、シャワーを浴び、後は寝るだけとなった。
 普段ならば既に眠っている時間帯。真田は襲い来る眠気と必死に戦っていた。眠気覚ましにとまだ未読の時代小説を持参してきたのだが、眠気の所為で目が滑り、小説の内容も上手く頭に入ってこない。
 目を擦りながら、ちらりと壁にある大きな時計を見やった。
 日付が変わるまで後十分ほど。案外時が過ぎるのか遅いと思っていると、跡部がそれに気付いたようで、眠いのかと声を掛けてきた。
「ああ、済まない……普段ならば寝ている時間だからな」
「そりゃ悪いな」
 いつでも寝られるように、ベッドに入れ。跡部にそう言われたものの、それも悪い気がして、真田はソファーから動こうとしなかった。
「お前の誕生日を祝ったら、眠らせてもらう」
「ああ」
 時計が刻々と時を刻む。長針が少しずつ十二の文字へと近づいていき、カチリ、と音を立てて重なった時、ボーンとどこからか鐘の音が聞こえてきた。
「十二時だ。日付が変わった」
 真田は小説をテーブルの上に置いて、隣に座る跡部の方へ向き直った。そして、祝いの言葉を口にする。
「うむ。誕生日おめでとう、跡部」
「……ありがとな」
「来年も、こうして祝えるといいのだが」
「いいな、じゃねーよ。祝えばいいだろう」
「うむ……そうだな」
 それでは、先に寝るぞとソファーから立ち上がろうとした真田の手を、跡部が掴んで引き寄せた。思いがけない事にあっさり体勢を崩した真田の身体は、またソファーに舞い戻る。そして、
「誕生日プレゼント、くれよ」
「ああ、持ってきた荷物の中に」
「そうじゃねえ」
 では何が欲しいのだ、という真田の問いは、言葉にならなかった。跡部の整った顔が近づいてきて、真田の唇に跡部のそれが重なる。
「……もーらい」
 唇を離した跡部が、悪戯をした子どものような表情で笑って、ぺろりと舌なめずりをした。
「あ、跡部、貴様……!」
「いいだろ別にキスくらい。向こうじゃ挨拶代わりだぜ?」
「そういう問題ではないわ!! そもそもここは日本だ!」
 不意打ちを食らったことが我慢ならないと怒っている真田を
「さーて俺も寝るか」
 立ち上がり、ベッドに向かう跡部を、話は終わっていないと真田が追いかける。
「待て跡部!」
「真田のベッドはあっちだぜ? それとも一緒に寝るか?」
 その時は、何が起きても知らねえけどな。その一言に、ぐっと言葉に詰まった真田は、足を止めた。
「いいんだぜ、無理しなくても」
「……済まない」
「謝るな。それと、俺の誕生日っていう素晴らしい日にそんな顔すんじゃねーよ。その話は終わりだ。また明日な、真田」
「ああ、お休み、跡部」
 真田は急遽作られた客用ベッドに、跡部は自分のベッドに、それぞれ潜り込む。明かりが消され、お互いの姿が見えなくなったところで、真田は詰めていた息を細く長く吐き出した。ため息と跡部に悟られぬように。
 そして、今日一日で跡部と話した事を思い返す。その中で、口づけのことを思い出した。
 初めての口づけは、あっという間に終わった気もするし、長かったような気もするが、よく分からなかったというのが本音だ。だが、悪い気はしなかったし、もう一度してみたい、とも思った。
 何より、ごくごく間近で見た跡部の震える瞼が目に焼き付いて離れない。
 先ほどまであったはずの眠気は、どこかへ消えていた。まるで跡部の口づけによって吸い取られてしまったかのように。真田はそっと寝返りを打って、暗い天井をじっと眺めていた。