ナイフとフォーク



「真田って、いつの間にナイフとフォークが使えるようになったの?」
 目の前で食事をしていた幸村が、何気なくつぶやいた言葉に、真田は盛大にむせた。そんな真田を見て、大丈夫かと気遣いながら、幸村は言葉を続ける。
「前はめちゃくちゃだったのに」
「お、俺とてこのくらい練習すればきちんと扱えるようになるわ!」
「でも、家ではナイフとフォークを使うような食事は出ないって言ってたよね?どこで練習したの?」
 口は微笑みの形を作っているが、目が笑っていない。その表情を見ながら、真田は背筋に冷たい汗が一筋流れていくのを感じていた。
 実際、幸村の言うとおりだった。真田家では和食が中心で、ナイフとフォークを外側から使っていくような食事はしたことが無かった。初めて幸村の家に招かれた際に、母が張り切ったのだと言って、その当時真田が食べたことも見たこともないような欧風料理が食卓に並んでいて、そこで初めてナイフとフォークを使った食事を経験したくらいだ。
 それから度々幸村の家に遊びにおいでよと招かれては、似たような料理を食べたが、普段使わないものだから真田の手の中のナイフとフォークの動きはたどたどしく、お世辞にもきれいに使えているとは言い難い状態だった。
 だが、今では人並みに使えるようになった。それもこれも、最近出来た恋人が熱心に教えてくれたからなのだが、真田にはその理由を素直に口にすることが出来なかった。その事実が幸村の機嫌を損ねることが、火を見るより明らかだったからだ。
 そんな真田の胸の内を知ってか知らずかーー幸村の場合は良く知っているはずだがーー幸村は真田への攻撃を緩める気配はない。傍から見れば穏やかに話をしている友人のように見える二人だが、その実、真田は針のむしろ状態だった。
「……母に頼んでレストランに連れて行ってもらったのだ。恥をかかせるわけにはいかぬと思ったからな」
「ふーん。何度も行ったの?それに恥をかかせるって、それは俺の事?それとも、誰か別の人の事なのかな」
 真田がひねり出した回答はさらに墓穴を深く掘る羽目になった。分かっているのだろうと叫んでしまいたかったが、きっと幸村の事だ、何のことだとしらばっくれるに違いない。こういう時、自分も蓮二のように口が立てば、と真田は歯がゆく思った。
 口ごもる真田を見て、幸村はふっと笑った。
「別に責めてるわけじゃないよ。ただね、俺の知らないところで真田がナイフとフォーク使えるようになっちゃって、ちょっと面白くなかっただけ。気にしないで」
「そ、そういうものなのか?」
「そう。さ、食事を続けよう。せっかくの料理が冷めちゃうから」
 その言葉にようやくほっとしたのか、真田はいったん置いたナイフとフォークを再び手に取り、食事を再開しようとした、その時。今一番この場所にいてほしくない人物の声が耳に響いた。
「なんだお前ら、どうしてこんなところで食事してんだ、あーん?」
 声がした方へ恐る恐る顔を向けると、思った通りの人物がそこに仁王立ちになっていた。明らかに不機嫌そうな表情を浮かべている跡部に、幸村は笑みを浮かべながら、やあ跡部奇遇だね、と挨拶をした。
「どうして君がここに?」
「そりゃこっちのセリフだ。ここは跡部財閥傘下のレストランだからな。それよりお前らだ。なんで二人で食事なんかしてんだ」
 二人で、という部分が嫌に強調されていたような気もしたが、真田は気付かなかったふりをした。今どれだけの理由を跡部に訴えようとも、後で文句を言われることは決まっている。分かっている事に対する抵抗は無駄だ。
「父親がここの招待券を貰ってね。両親は忙しくて期限までに来られそうに無かったから、俺が真田を誘ったんだ。部活も引退したし、あまりゆっくり話す機会が無かったからね」
「だからってほいほい着いてきたのか、てめーは」
 跡部の口調は明らかに真田を非難していた。だが、跡部と付き合う以前からの友人である幸村と食事をすることの何が悪いのか真田には皆目見当も付かず、ただ機嫌を損ねている跡部に対する怒りだけがふつふつと沸き上がってきた。
「俺が誰と食事をしようとも、貴様には関係なかろう」
 普段より一段と低い声で言葉を吐いた真田を、跡部ははっと鼻で笑った。
「あーん?関係あるに決まってるじゃねーか。お前は俺と付き合ってるんだぜ?」
「それがどうして幸村との食事を咎められることになるのだ」
「はいはい、痴話げんかはそこまでにしてくれないかな。今、俺は真田と食事に来てるんだ。真田の言うとおり、君には関係ないだろう、跡部」
「何だと?」
 ぴくり、と一瞬跡部のこめかみに青筋が浮かんだ気がした。が、幸村は表情を崩さない。あくまで表面上は穏やかな笑みを浮かべているが、声はテニスで相手を叩きのめしている時のそれだった。
「……まあいい。そういや、さっきナイフがどーとか言ってたな」
「ああ。真田がね、俺の知らない間にいつの間にかナイフとフォークを上手く使えるようになっちゃってたから、その話だよ。昔はてんで駄目だったから、俺が教えてやってたんだけど」
「確かに、こいつ、箸は綺麗に使えんのに、ナイフとフォークは見られたもんじゃ無かったな。だから俺様がこうやって」
 跡部はすっと真田の後ろに立つと、両手をそれぞれ真田のそれに重ねた。何をする、という真田の抵抗を物ともせず、皿の上に置かれていたナイフとフォークを掴むよう真田の手を動かしていく。
「手取り足取り教えてやったんだ。綺麗に使えるようになってただろ?」
 跡部が手を動かす度、真田の頬がみるみる赤く染まっていった。何を思いだしているのか知らないし、聞きたいとも思わないが、自分が知らない表情をする真田が目の前にいることが、幸村には面白くない。
 目の前におかれた牛フィレステーキの端を一口サイズに切り取ると、フォークに刺して、跡部は真田の口へと運ぶ。一人で出来る、と真田が抵抗したが、跡部は手を離そうとしなかった。
 口の中にステーキが収まると、そっとフォークが離れていく。手元が狂ったのか、ソースが口の端に残っている事に気づいた真田が、ぺろりと舌を出して舐め取った。
 幸村の知る真田は、そんな事はしないはずだった。むしろ、口元についていると教えてあげても上手くその場所が見つけられずに、そのうち幸村に拭われている事の方が多かったはずなのに。
 真田の顔の後ろから、跡部の勝ち誇ったような顔が幸村を見た。幸村はへぇ、と言ったきり、何も言わなかったが、同じようにナイフとフォークを握る手が震えていた事を跡部は見逃さなかった。
 真田から手を離した跡部は、身体を離す間際に、真田の耳元で何やら呟いたが、それは幸村の耳には届かない。その言葉に、真田は何やら顔をしかめて反論しかけたが、咄嗟に口をつぐんでしまった。周りに配慮したのだろう。
「じゃーな。邪魔したな」
「本当だよ。せっかくの料理が冷めたじゃないか」
「そりゃ悪かったな。なんなら新しい料理運ばせるか?」
 幸村は首を横に振った。そして、跡部などいなかったかのように、目の前の食事に集中した。真田も残りの料理を黙々と食べている。あの、跡部が教えたという綺麗なナイフとフォーク使いで。

***

「あの店の料理、美味かっただろ?」
 後日、跡部に呼び出された真田は、跡部の屋敷に来ていた。
「確かに料理は美味かった。だが、お前のせいで幸村が機嫌を損ねてあの後大変だったのだぞ」
「なんで幸村が機嫌損ねんだよ。俺は事実しか言ってねぇぞ」
「それが気に入らなかったようだ。幸村は俺がお前の話をすると何故か機嫌を損ねるのだ」
 お前、幸村に何かしたのかと問われて、跡部は内心真田の鈍さにあきれ果てた。幸村は真田にとって一番近しい存在であるという自負があったのだろう。幼い頃からの付き合い、テニス部での部長と副部長という立場。真田は幸村に対して崇拝に近い感情を持っていたし、幸村も真田に自分以上の存在が現れるなど思っても見なかったに違いない。
 幸村からすれば、跡部は大切な真田を奪っていった憎い存在なのだ。その事を、真田は全く理解していない。
「それに、あのような公共の場で、つ、付き合っているなど口にするとは、たるんどる!」
「何言ってんだ。いい加減慣れろ。それよりお前、俺様が手を取ったら顔赤くしてたな。何思い出してたんだ?あーん?」
「な、何も思い出してなどおらん!」
「嘘吐け」
 するりと隣に座る真田の手に、跡部は自分の手を重ねた。指の間をなぞるように手を動かし、ぎゅっと力を込める。
「そういえば、手が弱点だったなぁ?真田」
「そんなことは……!」
 無いと否定しようとした真田の口は、跡部の唇によって封じられた。その間にも重ねられた跡部の手は、せわしなく真田の手の上を動き回っている。
 たっぷり口づけて、ようやく開放されたと思えば、急に抱きすくめられた。急になんだと真田が非難の声を上げる。
「幸村がてめーに手を出すとは思ってないけどな。てめーも誘われたからって簡単に着いていくんじゃねーよ」
「……跡部、それは嫉妬か?」
 意外そうな真田の声に、跡部は苦笑しながら、
「バーカ」
 それだけ言って、再度唇を重ねた。