おむかえ



 空を覆い尽くしている暗い雲は程なくしてぱらぱらと雨粒を落とし始めた。それは巌戸台分寮の至る所に当たってぱたぱたと軽快な音を立てている。
「雨降ってきましたけど」
 ラウンジのソファーに身体を沈めた順平に、天田が言う。あー、と気のない返事をして、順平は寝返りを打った。
 近くにある柱時計がカチコチカチコチと時を刻んでいる。ラウンジにいるのは天田と順平のみ。他の寮生は出かけたのか、それとも部屋にこもっているのか、とにかく二人の前には姿を現していない。
「そう言えば、真田さんが出かけていった時、傘を持っていなかった気がするんですけど」
 独り言にしては大きすぎる声で、天田は言った。
「きっと今頃困ってるだろうな」
「……分かったって。オレに迎えに行けと、そう言ってるんだろ天田少年?」
 眠っていたはずの順平が、むくりと起きあがって天田の方を見ると、当たり前です、順平さん以外の誰が迎えに行くって言うんですか?とにっこり笑った。
 何となく釈然としないものの、明彦が困っているのは事実だろうし、別に迎えに行くのも悪くない。玄関に置いてあった自分の傘を掴むと、雨の降る表へ出た。


 巌戸台駅前は、突然の雨に立ち往生している人で溢れかえっていた。
 高校で行われていた夏期講習を終えて寮に戻ろうとした明彦も、その中の一人だった。瞬く間に空を覆った黒い雲に嫌な予感はしたものの、寮に戻るまで持つだろうという読みは少々甘かったようだ。巌戸台駅に着いたのを見計らったかのようにして、大粒の雨が降り出した。
 寮までは走れば十分ほど。しかし途中に横断歩道があるため、信号に引っかかるとかなりのタイムロスになる。さて、どうしたものか、と思ったその時、誰かに肩を叩かれた。
「真田サンみーっけた」
「うわっ」
 思わず声を上げてしまう。そんな明彦の反応に、順平は不満げに頬を膨らませて、
「そんなに驚かなくてもいいじゃないっすか。迎えに来ました」
 はい、と差し出されたのは、今まで順平が差していた傘。
「……迎えに来たくせに、もう一本傘持ってくるの忘れた……って、真田サン!そんなに笑わなくてもいいじゃないっすか!もう……」
 げらげらと笑う明彦を不思議そうに周りの人が見ている。ほら、みんな見てますよ、と言っても明彦の笑いは止まる気配がない。
 たっぷり十分くらいは笑っただろうか、結局一つの傘を二人で使い、お互い外側の肩を濡らしながら帰途につくことになった。
 雨の商店街は人が少なかった。皆何処かの店で雨宿りをしているのか、それとも家から出ないようにしているのか。どういう理由でも、人が少ない方が歩きやすい分、二人にとっては良かった。
「しかし、どうして迎えに来ようと思ったんだ?」
「そりゃ、愛する真田サンが困ってる!って思ったオレのカン?」
「ふーん」
「酷っ!その反応冷たすぎ!」
 その間にも雨はますます激しく降り出し、傘からしたたり落ちる雨水が容赦なく二人を濡らす。順平は暫く考えて、財布と携帯をポケットから引っ張り出すと、明彦に手渡した。
「何だ?」
「持っててください。あとこれも」
 続けて傘も明彦の手に押しつけると、順平は降りしきる雨の中に飛び出した。
「順平!?」
「どうせ濡れるなら、思いっきり濡れた方がいいかなーって。傘は真田サンが使ってください、風邪引かれたらオレ天田に怒られるし」
「天田に?」
「ホントは天田が言ったんすよ、真田サンに傘持っていけって」
 だから、使ってください、と順平はもう一度言って歩き出した。それを慌てて明彦が追いかける。端から見れば、傘を差した明彦と、ずぶ濡れの順平が並んであるく様は異様に違いない。
「順平、お前が風邪を引いてしまう」
「大丈夫っすよーオレそんなに弱い身体じゃないんで」
 ほら、と手を広げてみせれば、大きい雨粒が順平の全身に容赦なく落ちて、帽子もタンクトップもズボンも全てが水を含んで暗く沈んでいく。
「それに結構気持ちいいっすよ?暑いからちょうど良いし。夏の雨だから出来る事、ってね」
 むき出しになった肩からしたたり落ちる水滴が何だか艶めかしく見えて、明彦は慌てて目を擦った。無性にドキドキして仕方がない。
「は、早く戻るぞ」
「えー、もうここまで濡れたら関係ないっすよー」
「いいから戻るんだ」
「へいへい」
 そうして二人はまた歩き出した。寮にたどり着くまで雨脚が弱まることもなく、すっかり水を含んで重くなったスニーカーを引きずって玄関をくぐると、そこには誰もいなかった。
「あれ、天田少年?」
「部屋に戻ったんじゃないか。……お前、ちょっとここで待っていろ。これ以上寮の中を汚されたらたまらない」
「まるで人を汚いものみたいに」
「実際汚いだろうが!いいか、動くなよ!」
 明彦はそう言い放つと、駆け足で部屋に戻った。戻る途中で、順平のことだ、ジッと立ったまま待っていることなんかないだろうと思い至り、大声で叫ぶ。
「ソファーには座るなよ!濡れると美鶴に怒られるからな」
 順平が驚いた顔になったのが見えたような気がして、明彦は少し可笑しくなった。
 部屋からバスタオルを持って階下へ降りる。そして順平の頭から帽子をはぎ取って床に落とすと、タオルを掛けてガシガシと拭き始めた。
「ちょっと、真田サン!?」
「黙ってろ」
 頭の次は首と肩、そして上半身、となる予定だったのだが、タンクトップがしっかりと水気を含んでいて、タオルで拭いただけでは水気を取り去ることが出来ない。
「仕方ない……順平、脱げ」
「ええっ、ここで!?」
「濡れてるんだ、仕方ないだろう」
「でも、こんな所にゆかりっちとか桐条先輩とか帰ってきたら、オレっち確実に処刑っすよ!?」
 処刑、という言葉に反応した明彦は、むむ、と少し考え込む素振りを見せた。勢いで脱げと言ったものの、順平の言うことも一理ある。既に美鶴が帰ってきているならば話は別だが、それを確かめる時間も惜しかった。
「……分かった。じゃあ、風呂場まで歩くのは許す」
「はは、どーも……」
 床に落ちた帽子を拾い上げて、順平は素直に風呂のある離れへ続く裏口へ向かった。その後ろを監視役と言わんばかりに明彦が付いていく。歩きながら、一体何でこんなことになってしまったのか、と順平は少し考えた。
「真田サン、オレ、なんか真田サンの気に障るようなことしました?」
「どうしてそう思うんだ?」
「いや、なんか凄い剣幕なんで……もしかして怒られてるのかな、オレ、って」
「そんなことはないぞ」
 脱衣所に続く扉を開けて、順平はタンクトップを脱いだ。そして軽く絞ってみると、想像以上の水が流れ落ちてきて驚く。
「げっ、こんなに水含んでたんすか!?」
「だから言っただろう。どうせ、ジーンズも同じだ」
 そう言われて、順平は仕方なくジーンズと下着も脱いで裸になる。これでいいんですか、と明彦に問えば、うん、と頷かれて拍子抜けしてしまう。
「真田サン、ホントにオレに何させたかったんですか」
「俺はただお前に風邪を引いてもらいたくないだけだ」
 タオルここに置くぞ、と言い残して、明彦は脱衣所から出た。一人残された順平は、ぽかんと明彦の背中を見ていたが、それも見えなくなると、
「着替えもないのに一体どうすりゃいいんだよ!」
 と叫んでみた。


 取りあえず風呂に入って身体を温めて外に出ると、脱ぎっぱなしだった服が無くなっていた。
「あれ?」
「順平?もう出たのか?」
 がらり、と扉を開けて現れたのは明彦だ。制服から私服に着替えたらしい明彦は、手に順平の着替えを持っている。
「それ、オレっちの服……」
「ああ、ついでだから一緒に洗濯して、乾かしてきた。まだジーンズは乾いてないみたいだが……」
「……ありがとうございます」
「それから、天田に会ったぞ。順平が迎えに来てくれたと言ったら、順平さんって優しいんですね、と言っていたが」
「あいつ、自分が行けって言った癖に……」
 何だか腑に落ちない。が、取りあえず明彦から服を受け取り、腰に巻いたバスタオルを外して着替えを始める。
 ……何だか、明彦に見られている様な気がする。
「真田サン?」
「何だ」
「その、何で見てるんすか」
「お前だって、いつも俺が着替えるところを見ているだろうが」
「そりゃそうですけど、って、何か問題すり替えられてる気がする……」
 ジーンズはまだ生乾きだったが、文句は言っていられない。タンクトップは殆ど乾いていた。頭から被って手と首を出すと、明彦と目が合った。
 その目が、何を訴えているのか、順平には分かった。分かってしまった。
「……真田サン、こうしてほしかったんでしょ」
 服を着替え終わると同時に、がばっと腕を広げて勢いよく明彦に抱きついた。明彦は突然の事に目を丸くしていたが、その顔をふと嬉しそうに崩す。
「……どうしてわかった?」
 順平の腕にそっと自分の腕を重ねて、明彦は呟いた。
「だって、目が、ほら、昔流行ったチワワみたいだったから」
「チワワ?」
「そう、うるうるって」
 オレの事可愛がって欲しい、って言ってるように見えましたよ、と言うと、そんなことはない!と否定したが、そんなの誰が信じるだろう。順平はぐっと腕に力を入れてより明彦を抱きしめた。鼻と鼻がぶつかりそうなくらい顔を近づける。
「……俺は、順平の濡れた肩に欲情したんだ」
「欲情って……真田サンって時々変な言葉使いますよね……」
 驚いちゃう、と茶化すと、明彦は真剣な顔で、本当のことだと言う。そして、少しだけ顔を動かして順平に口づけた。軽く唇を合わせて、互いの熱を確認すると、
「服洗濯してくれたお礼ってことで、今日は真田サンスペシャル!真田サンがして欲しいこと、しますよ」
「何でもいいのか?」
「男に二言はないっす!」
 あ、でも、テストで満点取れとか、そういうのは無理ですから、と言えば、少し考える素振りを見せてから明彦は再び顔を近づける。今度は唇ではなく、順平の耳元に口を寄せて、耳元で囁いた。聞き取れるか取れないかギリギリの音量で伝えた願いは何だったのか。
 ……それは二人にしか分からない。