日常の微熱



 ノックの音がして、返事を待たずに順平が部屋に入ってきた。
「邪魔っすか?」
 俺が断れないことを知っていて、そんなことを言う。卑怯なヤツだ。俺は読み掛けの本に栞を挟んで閉じ、順平の方へ向き直る。
「何か用か?」
「ひでぇ、なんかそっけなくないっすか?」
 ベッドに腰掛け、ぶらぶらと足を動かしている仕草がちっとも似合っていない。でかい子供が駄々をこねているようにしか見えないと言ったら余計に怒った事があったから言わないが。
「ね、旅行とか行っちゃいません?」
「旅行?この忙しい時期にか」
 それに二人で旅行なんか行ったら、他の奴らに怪しまれるだろうが。
「全部終わったら、春休みあるじゃないっすか」
「その頃はきっと引っ越しで忙しい」
「ちぇっ」
 いよいよ拗ねたように頬を膨らませる。大人の男になるって宣言していたのは何処の誰だっただろう。そんなこときっともう覚えてないに違いない。
「なんか一個でも目標があったら、頑張れると思うんですよね、色々」
「タルタロスか?」
「ニュクスと戦うときとか」
「…そうだな」
「大体、春休みまで生きてるんかな、オレ」
「バカ、縁起でもないこと言うな。チドリに貰った命だろうが」
 そうだ。こいつは実際俺の目の前で死んだ。シンジに引き続き、こいつまで俺の前からいなくなってしまうのかと背筋が寒くなったのを今でも覚えている。
 そのとき初めて、俺はこいつのことが本当に好きだったんだ、と気づいた。皮肉なものだ、何でも失ってから気づく。
「…みんなで戦って勝つと決めた。後は全力で挑むのみだ」
「そうっすね」
 頑張るか、俺も。と順平が言った。
「真田サン、卒業旅行とか考えてないんすか?学校の友達とか」
「さあな。今みんな忙しいからな…大学に受かってから考えるさ」
「オレと行きません?卒業旅行」
「お前は卒業しないだろうが」
「だって、オレが卒業するときは真田サンいないんだもん」
 そんなところで一歳の差を感じる。大人になれば年の差なんか関係なくなるのかもしれないが、学生時代の一歳は非常に大きい。一歳違えば同じ学校にいられる時間は長くて二年。どうしても空白の一年間が出来てしまう。
 果たして、俺はそれに耐えられるのだろうか。順平が傍にいない一年に…それに、大学だって同じとは限らない。そもそも、俺すら入学出来るか分からない大学に、順平が今の成績で入れるとは到底思えない。
 きっと、順平は俺の事など追ってこないだろう。一年も離れていれば、俺のことなど忘れて新しい恋人を作るだろう。
 それは俺が嫌だ。
「どこへ?」
「へ?」
「何処へ行くつもりかと聞いてるんだ」
「うーん…真田サンと一緒なら、どこでもいいっす」
 にぃっ、と笑って順平は言う。この屈託のない笑顔が俺は気に入っているのだが、順平には言っていない。もっとも、見ようによっては「してやったり」という顔にも見えるから、その笑顔が純粋な嬉しさから来るものなのか、それとも俺が折れたことによる「してやったり」なのかまでは分からない。
「どこでも?」
「そうっすね、天国とか、地獄とかはカンベンかな…いや、真田サンと一緒なら、いっか」
 だから、ね?と順平が言う。チューしてあげますから、とか恥ずかしいから止めろ。
「そうだな、考えておくか」
「やりぃ!じゃあ、オレしっかり貯金しとくんで、忘れないでくださいよ」
 飛び上がるように立ち上がった順平は、つい、と俺に近づいてくると、ちゅっと唇を重ねてきた。こういうところは抜け目ない。少しは勉強にも生かせばいいのに、どうしようもないヤツだ。
 でも、俺はそんな順平が好きなのだからもっとどうしようもない。
「じゃあ、おっじゃましました〜」
「もう来るな、バカ」
 そう言っても順平は来るし、俺はドアを開けてしまう。
 きっと俺は顔が真っ赤になっていたに違いない。頬の熱が引いた後も、重ねた唇だけはずっと熱かった。