休息



 乱れた呼吸を整えるために深く息を吸い込んだ。有機物が焼け焦げる、独特の臭いが鼻を突く。咳き込みそうになるのをぐっと押さえて、ジョージは顔を上げた。
「行くぞ」
「ああ」
 目の前に立つ男―デビッドに促され、また走り出す。いつからこんなことを繰り返しているのだろう。もうとっくに疲れ果て、動けなくなってもおかしくないはずが、ジョージは疲れを感じていなかった。空腹も感じないのはおそらく脳が興奮状態にあるからだろう。しかし、この状態がいつまでも続くとは限らない。
 ガクッと足を取られてバランスを崩した。足元に目をやり、それが元は人間であったものだということに気がつく。炎に焼かれたのか、全身が黒く焼け爛れ、見る影もない。しかし、苦しそうな様子は見て取れた。道の上でもがいたのか、よく見れば欠片らしいものが散らばっている。
 見れば向こう側にある建物からもうもうと煙が上がっていた。あそこから逃げてきたものの、ここで力尽きたのだろうか。
「何をしてる」
「いや…先を急ごう」
 既に絶命している人間をどうすることも出来ない。ジョージは目を伏せて、その傍を通り過ぎた。


「さすがに疲れたな」
 迷い込んだホテルの一室で、デビッドは呟いた。
「少し休憩しよう。急がば回れ、と言うからね」
 自身の手に包帯を巻きながらジョージが言う。しかし、人に巻くのと自分に巻くのとでは勝手が違うようで、何度もやり直している。見かねたデビッドが貸せ、とジョージから包帯を奪った。
 自分の手に巻かれていく包帯と、デビッドを交互に見ながら、器用なんだな、と言う。デビッドはフン、と鼻を鳴らしただけで何も言わなかった。そのまま二人は言葉を交わさず、時々包帯が擦れる音が聞こえるだけだ。
「出来たぞ」
「有難う、助かったよ」
 腕を動かし、その巻き方に不都合がないことを確かめて、ジョージは立ち上がる。
「さて、次は君の番だ」
「俺はいい」
「だめだ、怪我をしていただろう?」
 そっぽを向くデビッドの肩を掴んで、そのままベッドに座らせる。効き過ぎたスプリングの所為でデビッドの体は一度バウンドし、その弾みでベッドに倒れ込んでしまった。それはジョージも例外でなく、デビッドの上に倒れこんだ。
「す、すまない」
 慌てて立ち上がり、デビッドに謝ると、デビッドはじろっとジョージのほうを睨んで、
「誘っているのか」
 と言った。それはジョージの顔を真っ赤にするには十分すぎる言葉で、ジョージは耳まで真っ赤にして必死に否定した。しかし、否定する程デビッドは苛立ち、ゆっくりと体を起こすと、自分の前に立っているジョージの手を掴み、逆に押し倒す。
「嫌じゃないだろう」
「デ、デビッド…今は駄目だ…」
「今は?何時なら良いというんだ」
 険しさを含んだ視線がジョージを射る。視線を逸らしてジョージは口を噤んだ。黙り込んだ事を了承の意と取って、デビッドは首元に唇を近づけた。ざらざらとした舌の感触に加えて、デビッドの呼吸がくすぐったくてジョージは身を捩る。
「止めるんだ、止めてくれ」
 しかしジョージの願いは聞き届けられることなく、いつの間にか上着のボタンが外され、ベストが捲りあげられ、ひんやりとした手が素肌を這っている。大きいわりに繊細な動きをするその手がジョージは好きだった。けれど今はこの状況を愉しむ余裕などない。いつ化け物に襲われるか分からないのだ。
「今は、体力回復が優先ではないのか…っ!」
 既に体は熱く火照り、いっその事何も考えずに行為に没頭してしまえればと思う。普段なら迷うことなくそうしただろう。しかし今は非常時なのだ。刹那的な快感よりも、生きてこの街から逃げ出すことのほうが大切だとジョージは思った。
 覆いかぶさるデビッドの肩に手を置いて、思い切り力を込める。上半身を何とか起こして、デビッドを自分の身体から引き離す。乱れた着衣を引き寄せるようにして、デビッドを睨む。
「君との行為は嫌ではないが、状況を考えてくれ」
「フン…俺は自分が生きたいように生きる。指図は受けん」
 素っ気無いその言葉に、ジョージは苦笑した。彼は自分とは全く違う人種だ。しかし、それがジョージの興味を引き付けてやまない。そんな彼だからこそ、受け入れ、今もこうして一緒に行動している。
「取り合えず、君の怪我を治療しよう。話はそれからだ」
 そう言って再度デビッドを座らせると、今度はバランスを崩すことなく、ジョージはデビッドの前に跪いた。デビッドは着ていたつなぎを腰まで下ろし、その下のシャツを胸まで捲り上げる。そこには先ほど受けた傷が、まだゆっくりと血を流していた。
「君という男は…何故こうなっても言わないんだ」
「まだ我慢できるからだ」
「無理は良くない。もし強い毒性を持った細菌が入りでもすれば、ただじゃすまなくなる」
 その言葉にデビッドは微かに笑いながら、傷口じゃなくてももう俺達は感染しているだろう、と言う。それを聞いて、確かにその通りだなとジョージも笑った。全ての原因は強い感染力を持ったウィルスだ。
 身体を徐々に蝕むウィルスは、後どれくらい自分達を生かしておいてくれるのだろう。逃げ出せても長く生きられないのであれば、ここで快楽に溺れながらゆっくり死ぬのもまた一興か。そう考えれば、デビッドの思考も理解できる。
 応急処置を終え、衣服を整えているデビッドの後ろに回り、ジョージはそっと肩に手を回して身体を寄せた。そして形の良い耳に口付ける。そのまま軽く耳朶を食み、耳元で呟いた。
「このまま君とこうしてゆっくり死を待つのも、いいかもしれないな…」
 デビッドはくくっと笑って、
「どうした、逃げ出すまでお預け、じゃなかったのか」
 怖くなったんだろう、と言われ、ジョージはそうかもしれない、と思った。徐々に迫る死を感じながらその時を待つのと、先ほど見た焼死体のように呆気なく死んでしまうのと。どちらがいいかということはジョージには分からなかった。
「ジョージ」
 デビッドが振り向いて、ジョージは腕を解き二人は向かい合う。そしてどちらからともなく唇を重ねた。


 銃に込められた弾丸の数を確認して、グリップを握る。
 結局まだ希望を捨てることは出来ず、二人はこうやって地獄のような街で必死に足掻いている。硝煙の臭いにも、血の臭いにも慣れてしまいそうだった。
 血の混じった唾を吐き捨て、デビッドは足元に転がる死体を踏みつけた。その姿を見ながら、ジョージは声を掛ける。
「なぁ、デビッド」
「何だ」
 素っ気無い返事はいつもの事。ジョージは肩をすくめ、
「…いや、何でもない。先を急ごう」
「変なやつだな」
「君ほどではないよ」
 もし、無事脱出出来たら、と聞くのは止めた。不確かな未来に希望を持つより、今二人でいる事が大切だと思ったからだ。それでも、ジョージは微かな希望を胸に、デビッドの後を追う。その後姿を見て、先ほどのキスを思い出し、そっと唇に手を当てた。
 微かに熱を持ったそれは、ジョージの心を疼かせるに十分な効果を持っていた。高鳴る鼓動を抑えるように深呼吸しながら、ジョージは先へ進むことにした。