侵食



 傷口がいつまでも血を流し続ける。治癒力が普段よりもがくっと落ちているのが分かる。このままでは命は無いと、ジョージは分かっていた。
 医局の薬棚から、薬局から、処置室から。自分の職場という土地勘を活かして、あり得る限りの薬をかき集めた。それを組み合わせて化膿止めや止血剤、傷薬などを作り出して行く。ジャケットのポケットはすぐに薬でいっぱいになり、ジャラジャラと音をたてるほどだ。
「…これで暫くは、持つ」
 ありったけの薬を作って、ジョージは病室へ走った。彼がそこで待っている。死なせるわけにはいかなかった。

「ジム」
 普段ならば患者に気づかってそっと開ける扉を乱暴に開き、部屋に飛び込む。ジムはベッドに横たわっていた。
「遅いよ…」
「すまなかった。薬を作るのに手間どった…さあ、これを飲んで」
 ジョージは数種類の薬を取り出すと、ジムに差し出した。ジムは薬が嫌いらしく、少し嫌そうな顔をしたが、自分の置かれた立場をわきまえてか、それ以上文句を言わずに飲み込んだ。
「苦い」
「我慢するんだ。これで暫くはウィルスの進行を止める事が出来る。そのうちに脱出しよう」
 裏口にはまだ奴らは来てないから、と言ってジムの手を引く。ジムは素直にそれに従った。

 彼に出会ったのは仕事帰りに寄ったバーだった。そこで初めて街の異変に気が付き、脱出しようと街を彷徨っている。もう既に街は元の姿をとどめておらず、死者の徘徊する地獄と化していた。
 奴らに襲われなくても、空気を吸っているだけでウィルスに感染する事に気が付いたのは少し前。そしてその進行には個人差があり、自分が比較的遅く、ジムが速いという事が分かった。それであの薬を作りに病院へ寄ったのだ。
 病院は既に奴らに占拠されており、生存者はいなかった。つい先ほどまで一緒に働いていた人が自分に襲いかかってくる恐怖。ジョージは唇を噛み締めて銃口を向けた。
「どこへ行けば助かるんだろうね」
 ジムは半分諦めたような口調でつぶやいた。取り敢えず街の外れにあるゲートまで行こう、何か手がかりがあるかもしれないとジョージは言う。
 しかし、既に諦めているのか、ジムは投げやりな様子で、
「オレ、もう駄目だよ。歩けない」
「ジム!!諦めたらそこで終わりなんだよ」
 だだっ子のように座り込み、そこに立ち止まろうとするジムを、叱咤して立ち上がらせようとした。しかし、ジムは首を振ると、
「恐いんだよ…さっきいたやつ、オレの友達だった。オレもあんな風になるんだろう…?」
「まだ希望はある。取り敢えず薬を飲んでいれば、ウィルスの進行を抑える事は出来る」
 脱出すればきちんとした医療機関もあるし、設備もそろっている。だから、諦めては駄目だとジョージは言う。
「それに、こんな所で止まっている間にも、侵食度は上がって行くよ」
「オレ、あんたの足手まといになるよ。自分でも分かってるさ、それくらい」
 置いて行けばいいのに、何だってオレの事助けるんだよ、とジムに問われ、ジョージは返答に困った。第一に医者だから、というのがある。怪我をしている人を見ると治療せずにはいられなかった。だからジムを助けた。
「私は医者だから。怪我をしている君を放っておく事は出来ない。出来る限りの治療がしたい」
 口ではそう言っても、本心は別だった。彼でなかったら、ここまで親身に治療しただろうか?危険をおかして病院へ戻り、薬を作り、彼に与える。それらを何の下心無しで出来る程ジョージは出来た人間では無かった。何かしら見返りを求めて、の行為だ。ジョージは理解している。自分が彼を求めているという事を。
 その為には二人で無事に脱出せねばならない。全てはそこからだった。人のいない路地裏で無理矢理行為に及ぶ事は出来たが、そんなスリルは必要ない。それが最初で最後になっては元も子もないからだ。
「だから、一緒に行こう。君を助ける、出来る限り」
「…あんたのこと、信じるよ」
 ジムはようやく納得したのか、よいしょ、と立ち上がった。彼はよくも悪くも単純だ。ジョージが何を考えているのか、気付かない。
「待て、もう一度これを飲んでおいた方がいい」
 ジョージは先ほど渡したのと同じ薬をジムに渡し、ジムはそれを飲み込む。これで奴らに襲われない限りは、暫くは安全だ。
 拾ったショットガンを構えて、ジョージは言った。何があっても私から離れてはいけないと。ジムは頷いた。
「あんたに任せるよ。でも、オレの事置いて行かないでくれよ」
 ジムの言葉にジョージは分かった、と笑って、
「よし、じゃあ行こうか」
 とジムの背中をそっと押した。

 途中で立ち寄った避難所に、知り合いからの張り紙があった。ピーター・ジェイキンス、大学の同期だった男だ。卒業して以来連絡を取っていなかったが、一体何事だろう。
「ジョージ」
 後ろから声を掛けられて、振り返るとそこにはジムがいた。何だい、と言うと、
「意識が、途切れるみたいだ…オレ、どうなっちゃうんだろう…?」
 泣きそうになりながら、ジムは言った。彼にはもう自分が危ないということが分かっているのだろう。いつ意識が途切れたままになってしまうのか、その瞬間に怯えるのがよく分かった。
「待ってくれ、今薬を…」
 そう言ってポケットに手を突っ込む。薬はもう殆ど無かった。底の方に残された数個をつまみ上げ、ジムに渡す。
「一つずつ飲むんだ。一度に飲んでも効果は薄いから」
「分かったよ」
 ジョージは焦っていた。明らかにジムはウィルスに侵食されている。意識が途切れるというのは、もう末期症状だということか。ジョージには薬を作り一時的にウィルス侵食を抑える事は出来ても、完全に消し去る事は不可能だ。知識も材料も設備も無い。どうする、と唇を噛む。
 そして、ピーターからのメッセージに目を通す。それでピンと来た。恐らく彼は今回の事態に関する、何らかの解決策を持っているに違いない、と。彼とは過去にウィルスの事で共同研究を行った事がある。彼はそのワクチン担当だったはずだ…忘れていた記憶がよみがえって来た。
 大学へ行けば、ジムを助ける事が出来るかもしれない。今ここで何もせずに彼の頭を銃で撃つ事になるのと、大学へ行くのとでは、後者の方がまだ可能性がある。その僅かな可能性にかけるしか、ジョージに出来る事は無かった。
「ジム、大学へ行こう。知り合いが、ワクチンの作成方法を知っているかもしれない」
「え、何だって?」
「とにかく早く!手遅れになる前に…」
 ぐい、とジムの手を掴んで引っ張ると、ジムは突然叫びだした。
「痛い痛い!!離せよジョージ!何するんだよ!」
「あ、ああ、すまない…」
 思わず力が入り過ぎたようだった。もう一度すまない、と謝って、取り敢えずついて来てくれないか、とジムに言った。
「君を助ける事が出来るかもしれない。だから、早く」
「う、うん、分かったよ…」
 ジョージの今まで見せた事の無い気迫に驚いたのか、ジムはこくんと頷いて、ジョージに従った。残された時間は後僅かだ。間に合う事を祈りながら、ジョージはジムとともに大学まで走った。
 走りながら、どうして自分はこんなに必死になっているんだろうと考える。もうジムを抱きたいとか、そういう事が目的ではなかった。勿論彼をいいように扱いたいという気持ちも消えてしまったわけではない。けれど、今は彼を生還させたい、その気持ちだけがジョージを動かしていた。
 出会って数時間、一日も経過していなかったが、少なくともジョージはジムの事が好きになっていた。危険な目に遭うと、その時の気持ちを恋と勘違いするという説も発表されているが、この際どうでもいい。
 早く、早く、と疲れた身体に鞭打って走って行く。徐々に夜明けが近付いていた。

 大学のホール内は誰もいなかった。既にここも安全な場所ではない。うごめく死者の群れをなんとか退け、ピーターの隠した書斎に入った瞬間、ジョージは絶望の淵に沈んだ。幸いにして声を上げる事は無かったが、それでも動揺を隠すのが精一杯だった。
 彼は机に突っ伏したまま、絶命していた。最初はウィルスに感染したのかと思ったが、どうやら違うようだ。大量の血液は机の上の書類を汚し、読めないものへと仕立て上げていた。まるで故意にやったかのように。
 それでも手がかりは無いかと辺りを探す。すると、机の裏に同じ資料がもう一部ある事に気が付いた。それを引き抜いて読むと、それにはウィルスのワクチン「デイライト」の生成方法が書かれていた。
「希望はまだ捨てない…」
 幸いに大学には手の付いていない薬がそこそこ残されていた。それで追加の薬を作り、ジムに渡す。ジムは既に呂律が上手く回らなくなっていた。危険なのは誰の目に見ても明らかだ。
「もう少し、もう少し頑張ってくれ、ジム…」
 それは自分に言い聞かせる意味もあった。ジョージも少なからず感染している。そして徐々に悪化している事も分かっていた。まだジムより軽いが、もたもたしていたら自分も助からない。
「ジョ…ジ…泣かな…で」
 そう言われて、ふと自分の頬に手をやると、手が濡れた。何時の間に涙を流していたのだろう。ジムが近付いて来て、それを指で拭き取ってくれる。
「すまない…ありがとう」
 泣いている場合ではない、と自分に言い聞かせ、材料集めに取りかかる。見えない時計の針に二人は急かされていた。タイムリミットに脅えながら構内を走り回る。やっとの事で必要な材料を全て集めた頃には、全てにおいて限界が近付いていた。
 しかし、生成機が動き始めたのを見ながら、果たして本当に間に合ったのかという不安がジョージを襲った。ジムはもう奴らの一歩手前まで来ている。自分も意識が途切れる事が増えているし、何より傷口からじわじわと流れ出る血液が体力を奪っていた。
「ジム…もう少しだよ、これでウィルスに怯える事はなくな、っ…!?」
 ガクッと足の力が抜け、床に倒れ込んだ。自分でも一瞬何が起きたのか分からず、ただ目の前にリノリウムの床が広がっているのを見ているしかなかった。回らない頭で状況判断をしようとする。強打した腹部が痛みを訴えている。痛みをやり過ごす為に身体を丸めた後、立ち上がろうと顔を上に向けると、ジムがすぐ傍に立っている事に気が付いた。
「どうしたんだい?」
 平然を装ってジョージが聞く。
「ジョ…ジ、ありがとう…オレの為にこ…なにしてくれた人、あんただけだ…たよ」
「え…」
 よく見るとジムは泣いているようだった。褐色の肌を伝って涙が一粒落ちる。それが感謝の涙なのか、悔しさからくる涙なのか、それとももっと他のものなのかはジョージには分からない。
「オレ、もう、駄目みたい…だ」
「ジム!!そんな事を言うな!もう少し、もう少しなのに…!」
 起き上がったジョージは、ジムの肩を掴んで揺さぶる。ジムは泣きながら、
「死にたくないよ…あんたと一緒にここから、脱出…したいよ」
 その時、突然動いていた生成機が止まった。と同時に先ほどまで聞こえていた低温保管庫のモーター音もしなくなる。どうやら故障などではなく、停電のようだった。
 そして、先ほどまでしっかりとロックが掛かっていた扉が、カチッと音をたてて開いた事に気が付いた。停電になった事で電子ロックが外れたのだろうか。それとも、あの扉の向こうには誰かがいるのだろうか。どちらにしても、今まで探しまわった所には電源を操作するような装置は無かったはずだ。
「待っててくれ、ちょっと見てくるから」
 すぐ戻るよ、と言ってジョージは扉を開けた。中はがらんとした部屋で、隅の方に色々と実験機材などが置いてあるのが見える。しかし、今はそんなものに構っている暇はない。奥に掛かったカーテンの向こうから、光と音が漏れているのに気が付くと、一目散にそこへ向かって駆け出した。

「ようこそ、私の研究室へ」
 驚いた事に、ジョージを迎えたのは自分より少し年上くらいの男だった。奴らがうごめくこの大学で、穏やかな笑みを浮かべる彼は相当胡散臭く見える。眉をひそめて、ジョージは男に尋ねる。焦りの所為か、口調が乱れた。
「貴方は誰だ」
「これは失礼。私はこの大学の研究員。あなた方に遊んでもらった彼の生みの親、ですよ」
 そう言われて意味が分からなかった。彼とは誰の事か…それが顔にも出ていたのだろう、男はククッと笑って、
「彼とは会っているはずだ。この姿に見覚えはあるだろう?」
 といって、何やら机上のキーボードを操作する。するとプロジェクターから壁に画像が映し出された。それを見て、ジョージは言葉を失う。確かにそれには見覚えがあった。散々行く手を邪魔してくれた、黒い怪物だ。
「貴方はっ…!!」
 アンブレラの、と言いかけて、言葉が続かなかった。男は手に拳銃を構え、ジョージの額に狙いを定めていたからだ。
「ここまで見たからには、生きて返すわけにはいかない。それに君たちは彼のいい遊び相手になってくれそうだ」
「ピーターを殺したのも、貴方か」
「彼は裏切り者でね。二人だけの秘密にしておくと言っていたデイライトの事を、外部に漏らした。そう、君にだ、ジョージ・ハミルトン」
 自分の名前を彼が知っている事にジョージは驚いた。そんなジョージの表情を読み取ったのか、男は笑って、ピーターが君の事をよく話してくれた、と言う。
「彼は君に好意を寄せていたようだがね。君の方はどうかな?まあ今さら死んだ人間の話をしても仕方ないが」
 裏切り者は始末しなければならないからね、と男はこともなげに言った。ジョージには彼の言葉が理解出来なかった。この非常事態に、どうして彼はこれほどまでに冷静に、生存者を殺すという手段に出られるのだろうか。
「貴方は逃げないのか?この街はもう終わりだ。死者のうごめくデッドタウンだ。そこで化け物など操って何をするというのか」
 唇を噛みながらジョージは言った。この大学から街のはずれまではまだ距離があるが、徒歩は勿論、車なども使えるとは思えない。道路は事故車と奴らで溢れ帰っているのを嫌になるほど見て来たからだ。
「脱出の経路など既に確保済みだよ。甘く見てもらっちゃ困る、これでもアンブレラの研究員だからね。大学の講師という仮の立場におさまってはいるが…」
 彼が朗々と喋るのを聞きながら、ジョージは焦っていた。こんな男の話を聞いている場合ではない。早くデイライトを作って投与しなければ、向こうの部屋で待っているジムが危ない。
「生成機を止めたのも貴方だな。早く生成機を動かしてください。危険な状態にある人がいる。彼を助けたいんだ」
「助ける?ここまで来ても医者気取りか。つくづく甘い人だ。一人助けた所で事態が変わるわけでもないだろう?」
 馬鹿にしたような口調で男は笑った。
「それに、見た所彼はもう手遅れのようだが」
「違う!まだ助かる可能性はある…早く、デイライトを…」
 ふむ、と男は少し考える振りをして、それなら動かしてもいいだろう、と言う。
「本当に?」
「ああ。ただし条件がある」
「条件?」
 なに、簡単な事だよ、と言って男が提示した条件は、ジョージを怒鳴らせるに十分なものだった。その条件とは、彼の玩具となる事。正気とは思えないその提案を、誰が飲むだろうか?
「人を馬鹿にしているのか!」
「私は本気だよ。ピーターから君の話を聞いてね、興味を持っていた所だったんだ。なに、玩具と言えども、人並みの生活は保証しよう。時々私の所へ来て、相手をしてくれるだけでいい」
 それに、君もそういう趣味が無いわけではなさそうだが、と言われ、ジョージはカッと顔を赤くする。男にすべてを見透かされたような気がして、恐怖すら覚えた。
「飲めないのならば、扉の向こうにいる彼は助からないが。どうするかね?」
 ジョージは迷った。どうすればジムを助ける事が出来るだろう。自分が彼の玩具になればいいのか?いや、そんな事出来るはずが無い。けれど、この提案を拒否すれば、ジムは助からない…
「私の玩具となるならば、街の外までの安全も保証するが」
「…分かった。用件を飲もう。だから、早く生成機を動かしてくれ。一刻を争うんだ!」
 男はニヤリと笑って、分かった、と言った。そして、キーボードから何かを入力する。途端にモーター音が聞こえ出し、電力が供給された事が分かった。
 慌ててジムの待つ部屋へ走ろうとしたジョージに、男は言う。
「逃げようとは思わない事だ。私の可愛いタナトスが、部屋の前で待機してるからね」
「…っ分かっている!!」
 今はジムの事だけを考えたかった。果たして彼は無事だろうか。あの部屋に入ってから一体どれくらいの時間が経ったか分からなかった。ジョージには長く感じられたが、もしかしたら一瞬だったのかもしれない。それならば、ジムはまだ無事か?
「ジム!!」
 慌てて扉を開き部屋に飛び込む。止まっていた生成機は再び動いており、既に一つ、作成されたカプセルが取り出し口に出て来ていた。それを引き抜くと、転がっていた注射器を取って薬剤を注入する。そこで初めて、ジムが部屋の中に見当たらない事に気が付いた。
「ジム!?どこへ行ったんだ、薬が出来たんだ。早く打たないと、間に合わない…」
 部屋は狭く、一目で全体を見渡す事が出来る。それでも、ジムの姿が見えない。急に不安になり、ジョージは中央に置かれた実験台の裏に回った。
「…!!ジム!」
 実験台の影に隠れるようにして、ジムが倒れていた。慌てて駆け寄り、脈を見ると、まだ微かに脈はあった。しかし、口元に手をあてた時に感じた呼吸が、人間のそれではなかった。
「間に合わなかったのか…?」
 その時、ジムがゆっくりと起き上がった。ジム?と呼びかけるが、反応はない。ただ荒い呼吸だけが部屋に響いていた。項垂れた姿勢のまま、その場から動こうとしないジムを下から見上げる。
 もう一度ジム、と呼びかけると、ジムが目を開いた。先ほどまで黒く光を放っていた瞳は、白濁し全く別のものとなっていた。決定打を見せつけられ、ジョージは思わず、神よ…と呟いた。
 間に合わなかったのだ。ジムは外にうごめく奴らと同じものになってしまった。助けられなかったという思い、ジムを失ってしまった思い、様々な思いが交差してジョージは頭を抱える。今までの苦労は何だったのかという喪失感がジョージを苛んだ。
「ああ、ジム、すまない…君を助けられなかった、私を許して欲しい…」
 このまま彼に食い殺されても、それはそれでいいと思った。しかし、まだやる事がある。ジムが生き残る可能性を奪った、あの男をあのままにしては置けなかった。単なるわがままかもしれない、けれどこのままでは気持ちがおさまらない。
 その時、ジムが微かに言葉を発した。
「ジョ…ジ、オ…レを、殺して…」
 それを聞いた途端、ジョージは涙が溢れた。彼は自分の心が完全に奴らと同じになる前に、殺して欲しいと言っている事に気が付いたのだ。ウィルスに完全に行動を支配される前に、と。ジムはそれを臨んでいる。
「オレ、…あん…の事、好き…だ…たよ」
 もうジョージには頷くことしか出来なかった。分かった、分かったと言って、デイライトを注入した注射器を持つと、ジムの右手に打った。助かるとは思っていないが、せめてウィルスを浄化させた状態で殺したかった。
 ウィルスに冒された人間には毒になるのか、ジョージが注射器のピストンを押し込む度に、ジムの顔に苦悶の表情が浮かび、喉からうめき声が発された。その声に躊躇わなかったわけではないが、ジョージは一思いに中身を全て注入する。
「…私を襲わなかったのは、偉いよ、ジム…」
 そうジョージが呟いた時には、既にジムの身体機能は完全停止していた。溢れる涙を拭いもせず、ジョージは暫くその場から動かなかった。見開いた目をそっと閉じさせ、奇麗に横たわらせる。
 このまま一緒に死んでしまおうか、とジョージは思った。自分もそう長くは持たないだろう。デイライトを服用しなければ、必ずジムと同じ運命を辿るはずだ。身体機能が停止するまで、ジムと一緒にいるのも、悪くはない。
「ジム…」
 ジムの隣に横たわり、そっと顔を撫でる。涙の流れた後が乾いて筋となっていた。どんなに苦しかっただろう。あそこであんなに手間どらなければ、助かっていたかもしれないのにと思うと、あの男に対する憎悪の気持ちが膨らむ。言動もまともではなかった。アンブレラの研究員はみんなそうなのだろうかと疑いたくなる。
 暫くそうしていた後、おもむろに拳銃を手にとり、中に込められた弾の数を数えた。そして、それをしっかり手に握り、あの男がいる部屋へ通じる扉を開ける。あの男だけは許せない、と思った。

「遅かったじゃないか、もうデイライトは出来たのかい?彼は助かった?」
 ジョージの気配に気が付いたのか、男は背を向けたままそう言った。何から机の上の書類を整理しているようだ。本格的に逃げる準備だろうか。ジョージは彼の質問には答えず、少しずつ距離をつめて行く。
「助かったのだったら、一緒に連れて行ってもいい」
 そう言ってくるりとジョージの方を向いた男の額に、照準を合わせて引き金に手を掛けた。しかし、男は取り乱す事も無く、その様子だと手遅れだったようだね、と言った。
「誰の所為だ!電源が落ちなければ、すぐにデイライトが出来ていれば、ジムは助かった…!!」
「恐い顔だ。だから言っただろう、手遅れだとね。それなのに君が聞かないから、わざわざ電源を入れた私に感謝して欲しいくらいだ」
 神経を逆撫でするような言葉に、ジョージはたまらず拳銃の引き金をしぼった。途端、乾いた破裂音がして、火薬特有の匂いが辺りに漂う。男の頭が破裂している事を想像し、思わず目を閉じたジョージがそっと目を開けると、彼は倒れずに笑っていた。
「甘いな」
「くっ…!!」
 続けて引き金を引く。パン、パン、パン、と連続して撃つが、男には当たらない。ついに込めてあった弾も撃ち尽くし、ジョージはがっくりと項垂れる。ジムの敵すら取れない自分が悔しかった。
「過ぎた事を言っても仕方が無いじゃないか。それより先の事を考えるべきだ。その方がよっぽど建設的だろう?」
 さあ、そろそろここから逃げよう。そんなに時間あるわけではないんだ、と男は積み重ねた書類をアタッシュケースに詰め込む。今なら殺せる、でも弾が無い。どうする?ジョージは迷った。このまま男に従うつもりは全くなかった。たとえここで死ぬ事になろうとも、あいつだけは自分の手で殺したかったのだ。
 まだ弾薬は残っていたはずだ。部屋に戻ろう、そう思って足音を立てないよう、右足をそっと後ろに下げた次の瞬間。
「ぐふっ」
 くぐもった声が聞こえたと同時に、男の頭から鮮血が吹き出した。そのまま書類の束をなぎ倒し、その場に崩れ落ちる。一瞬ジョージには何が起きたか分からなかった。
 男はぴくりとも動かない。どうやら銃弾が頭を貫通したようだ。どくどくと流れ続ける鮮血が、既に生きていない事を証明している。上に誰かいたのだろうか。そうでもしなければああはならない。それにこの部屋には、今男とジョージしかいなかったのだから。
 すると、突然あちらこちらから電子音が聞こえて来た。音の近くを見ると、小さな箱が取り付けられている。その形状は、前に見たプラスチック爆弾に酷似していた。
「爆破されるのか…」
 逃げなければ、崩れた建物の下敷きになって死ぬだろう。ジョージはジムのいる部屋に走った。ジムは先ほどと同じ姿勢で行儀よく横たわっている。一瞬眠っているだけではないかと思い、思わず肌に手を触れて、その考えが間違いだった事に気が付く。冷たく、堅い肌の感触が、既にジムが生きていない事を嫌でも認識させた。
「君の敵すら、取れなかった…」
 きゅっと一文字に結ばれた薄い唇に、自分のそれを重ねる。冷たい感触がただ悲しかった。
 そのままぼんやりしていると、ふと生成機が目に入った。既にデイライトが入ったカプセルが数本生成されている。取り出し口から見えたそれは、薄い紫色の液体だ。もう今となっては、用はない、そう思い目をそらした。しかし、瞼の裏には自分が殺して来た人々の姿が蘇る。彼等だって好きでああなったんじゃない。ワクチンがあれば、死んだとしても安らかに眠っているだけで済んだ…今のジムのように。
「私には、まだ出来る事がある…」
 自分は医者だ。設備さえあれば、この薬を培養して増やす事は出来る。今は数本しか無いワクチンでも、恐らく大勢の人を救う事が出来る事に気が付いた。そうだ、これで終わりじゃない。ジムは間に合わなかったけれど、まだ間に合う人は他にもいるはずだと。そう思った。
「まだ、終わらない、終わらせない!」
 ジョージは手始めに自分にデイライトを注入した。一瞬体全体がびくりと痙攣し、その後で今まで感じていた胸の不快感や頭痛などがさっと引いて行った。どうやら効果は期待出来そうだ。残ったカプセルをポケットに突っ込むと、部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。
 ちらりとジムの方を見る。ジムは黙って横たわったままだ。このまま彼をここに置いて行きたくないと思ったが、彼を背負うのはジョージには無理だった。死んだ肉体が鉛のように重い事は十分知っている。
「君をここに置いて行く事を、許してくれ」
 また会いにくるから、と言って、ジョージは部屋を出た。これ以上あの部屋にいたら、動けなくなると思ったのだ。溢れてくる涙を必死に拭って、男の死んでいる部屋まで走る。そして、散らかった書類の中に、ヘリとの待ち合わせ場所が書かれた紙を発見した。もう迷っている時間はない。
 それからは一目散に大学の外へ出ようと走る。男がタナトスと言った、あの黒い大男が猛攻を仕掛けて来たけれど、相手にしている余裕などあるはずが無い。大学のヘリポートへ続く扉を開け、外に出た瞬間、爆風にあおられてジョージは宙を舞った。そして、どさりと肩から落とされる。胸が地面に激突し、一瞬呼吸が止まり、その後すぐに咳き込んだ。身体全身が痛んで涙が出た。
 やっとの思いで首を後ろに向けると、建物が炎に包まれているのが見えた。どうやらジョージが出た瞬間に建物が爆発したらしい。
 まだ身体は痛い。それでも、少しでも先に進もうと、這いずりながら進んで行く。爆発の影響でヘリポートはがれきの山と化していた。果たしてここにヘリは迎えに来てくれるのだろうか。男は、一体何で合図を送るつもりだったのだろう。もし彼が何かしらの手段を持っていたとしても、ジョージにそれは無い。
 取り敢えずここまで来たものの、どうすれば良いか分からずジョージは途方に暮れた。その時、頭上を何かが飛んでいる音が聞こえて来た。生き物ではなく、何か乗り物の音だ。その姿を確認するように、上を向く。
 そこにいたのは、ヘリだった。残念ながら上空のためどこの団体かは分からない。一瞬、アンブレラのものだったら乗せてもらえないのでは無いかという考えも浮かんだが、今はそんな事を言っている状況ではなかった。僅かでも、助かる可能性に掛けたかった。
 まだ痛む身体に鞭打って立ち上がり、大声で叫びながら手を振る。ヘリがスポットライトで辺りを照らしながらこちらへ向かってくるのが分かった。もうこのチャンスしか無い、ジョージは残された力を振り絞り、手を振った。

 気が付くと、白い建物の中にいた。辺りをせわしなく動く看護婦の姿を見て、自分は助かったのだと思った。
「あら、気が付きました?」
 ジョージが目を覚ました事に気が付いた看護婦が近付いてくる。簡単なやり取りの後、ジョージはまた眠りについた。数日の疲れを取り戻すように、深く深く。


 数年後。
 新しい勤務先も見つかり、悪夢を見る回数も減り、ようやく通常の生活が出来るようになっていた。ジョージが持ち帰ったデイライトは、すぐに大学病院の研究室へ運ばれ、培養された後、あの場所にいた生還者全員に投与されたと聞く。街も消滅し、人々はあの事件の事を忘れようとしていた。
 それでも、ジョージには一つ気掛かりな事があった。それは、あの街に残して来たジムの事だった。
 また会いにくる、という約束を守りたかった。たとえ彼がそこにいなくても。
 街で似た人にすれ違う度に、生きているのではないかという錯覚する。彼の死は誰よりも自分が分かっているのに、である。自分の中で彼の死に決別するために、約束を守る必要があった。
 今度の休みに、ラクーンへ行こう。市街地は既に無いし、入る事も出来ないだろうが、近くへ行くだけでもいい。ジョージはそう思った。