孤立



 後一つ、大扉を開く為の鍵が足りない。四人は顔を見合わせ、何を言うでもなくそっと視線を逸らした。
 どこにあるかは大体見当がついていた。探していないのはあの部屋だけだ。けれど、誰も行こうとはしない。何故なら、そこまで無事たどり着けるか、たどり着いてもここまで戻ってこられるか保証が無いからだ。
 ここまで一緒に助け合いながら逃げて来たけれど、誰だって自分の身が一番可愛いはずだ。こんな所でみすみす死ぬわけにもいかない。しかし、団体行動が引き起こす泥沼も経験して来た。あれを取りに行くのは誰か一人がベストだと誰もが思っていた。
 …思うだけでは、身体は動かないのだ。

「俺が行く」
 黙っていたのはほんの数秒間の間だったのかもしれない。しかしジョージにはそれがとてつも無く長い時間のように感じられた。辛い役目を押し付けあうあの時間は、普段の一秒が数倍にもなる。
「でも」
「互いの腹を探りあっている今の状況よりは、マシだ」
 心底うんざりしたという様子で、デビッドは吐き捨てるように言った。そして、目的地へ通じる扉へと歩いて行く。その姿を見て、ジョージは立ち上がって声を掛けた。
「待て、これを持って行くといい」
 立ち止まったデビッドに、ジョージが渡したものは数個の回復剤だった。一つは大した効果は無いが、複数飲めばそれなりの効力を発揮する。医者という職業上、ジョージは事ある毎に回復剤を始めとした薬の補充に余念がなかった。役立つ事が分かりきっていたからだ。
「…しかし、あんたの分は」
「心配いらない、自分の分は残してある」
 ジョージはそう言うと、トン、とデビッドの背中を押した。そして、聞こえないような小さな声で、すまない、と言うと、元いた場所へ戻って行く。
 手の中に残された回復剤をそのまま胸ポケットに流し込んで、デビッドは扉を開けた。

 一人でいるのは恐くない。自分の身だけ守ればいいからだ。普段人とあまり行動を共にしないデビッドには、今回のような行動は得意ではない。誰かを守りながらだなんて、不器用な自分には出来ないと思っている。
 襲いかかるゾンビを上手く躱しながら目的の部屋へ着く。果たして目的のものはそこにあった。少々奥まった所に扉があり、近くを通ってもその存在に気付かなかったその部屋は、他の部屋に比べて荒れた形跡もなく、ゾンビもいなかった。
 ふと、テーブルの上にタバコがある事に気が付いた。昔よく吸っていた銘柄で、思わず手に取る。箱の中にはまだ数本残っていた。思えば、先ほど拾ったライターがある。ここで一服しても、誰にも分からないし文句も言われまいと、口にくわえた。 「…?」  微かに物音が聞こえた気がした。またどこからかゾンビが侵入して来たのだろうか?しかし、奴らが扉を開ける時にする独特の音が聞こえなかったのが気になる。
 手に持っていたライターをサッとポケットに戻し、口にタバコをくわえたまま、デビッドは出口の扉へ近付いた。その瞬間、
「…!?うわっ…!」
 突然の出来事に何が起きたか分からなかった。急激に暗闇に引きずり込まれて行くような感覚が体全体に走る。すると、間もなく酷い衝撃が全身に走った。衝撃のショックで呼吸も満足に出来ない有り様だ。
「げほっ、げほっ…」
 咳き込みながらもようやく身体を起こせるほどになると、デビッドは辺りを見回した。辺りには黄色い埃が漂い、視界が極端に悪い。それでもかろうじて光が差している方向に顔を向けた途端、愕然とした。
 唯一光が差し込んでいる所、そこは恐らく元々天井であった所だろう。そして、自分はあの穴からここへ落ちて来たのだ。その証拠に、その穴からパラパラと漆喰のような粉が落ちて来ている。また、自分の回りにも一緒に落ちて来たと思われる床の木材の破片や、崩れた漆喰などが散乱している。
「ちくしょう…」
 一体ここはどこなのだろう。持っていた地図はホールへ置いてきてしまった。先ほどの部屋の下に部屋があっただろうか?それすらも覚えていない。とりあえず立ち上がってどこか脱出口が無いか探す事にした。ここに一人でじっとしているよりは、動いている方がまだ気が紛れる。
 しかし、部屋は狭く、すぐに探索は終了。それどころか、唯一の扉は隙間を溶接してあり、体当たりした所でびくともしないような扉だ。どうやら物置きとして使われていたのをそのまま封鎖したのか、辺りに置いてあるものは真っ白に埃を被っていた。それを見てデビッドはため息をついた。

 結局の所、元の場所に戻る事すら叶わず、デビッドはそこに留まらざるを得ない状況にいた。今まで一人で勝手に行動して来た酬いだろうか?
 ホールで待っている彼等はどうするだろう。いつまで経っても戻らない自分を探しにくるか?どちらにしてもここにあった鍵無しでは脱出は不可能だ。それとも、他の手段を見つけてもう先へ逃げていたら?自分はいつまで経ってもここにいるしか無い。そして、飢え死ぬのが早いか、それとも目に見えないウィルスに侵されて肉を食らうだけの化け物へと変わるのが先か。どちらにしてもいい結末ではない。
 先ほど床に叩き付けられた衝撃で体力も低下していた。こんな時なのに、手もとにあるのはナイフにライター、先ほど拾った鍵に、一緒に落ちて来た一本のタバコのみ。
 とその時、そういえばホールを出る前にジョージに薬を貰った事を思い出し、そっとポケットに手を伸ばした。カプセル状になった薬は、床に叩き付けられた時に割れたらしい。つまみ上げた瞬間にさらさらと細かい薬が空中に四散する。
「ちくしょう、何の役にも立たねえ…」
 結局ポケットに入れてあった薬で無事だったのはたった一つだった。水なんかあるわけがなかったが、幸いカプセル状だったので、無理矢理飲み込んだ。苦さが口の中に広がる前に慌てて喉の向こうへと押しやる。
 薬を一粒食べた所で腹の足しにもならない。先ほどまで感じていた全身の痛みが少し和らいだくらいだった。
 …こんな時、ジョージならテキパキと治療をしてくれるに違いない、と思う。ジョージは俺の事を信じて待っているのだろうか、と思った途端、胸の端が少しだけ痛んだような気がした。
 あの頼りない医者は化け物の群れから逃げ出せるだろうか。治療は得意だが銃の扱いに長けているとはとても言いがたい。そんな彼だからこそ守ると言ったのに、守るどころか自分の方が先にくたばってしまいそうだ。とデビッドは思った。
 こうなってしまった以上は仕方が無いと早々にあきらめ、埃の積もった床に横になる。ゆっくり横になるなんて何日ぶりだろう。何度昼と夜が入れ替わったのか、もう判別がつかない。極限状態がこうも続くと、脳は常に興奮状態で睡魔すら訪れなかった。
 …
 ……
 人の声が聞こえた気がして閉じていた目を開ける。ホールを出発してからどれくらい時間が経ったのか分からなかったが、もしかするとあまりに遅いデビッドにしびれを切らして誰かが鍵を取りに来たのかもしれない。
 起き上がろうとして、身体に力を入れようとした。が、微かに浮き上がった背中はまたぱたりと床に張り付いた。思ったよりも疲れていたようだ。自力で起き上がる事が出来ないとは…デビッドは舌打ちする。
「おい、ここだ!」
 取り合えず寝たまま声を掛けてみる。たとえ声の主が怪物だったとしても、奴らはここまで来られない。
 足音が近付くのが分かった。ぱたぱたと小刻みに一定のリズムを刻むそれは、ゾンビではなく人間のものである事を証明していた。ぱたぱた、とぱた、ぱた、という足音が交互に聞こえてくるのは、並んだ部屋を一つずつ確認しているからだろう。
 だんだん今いる部屋の上に近付いてくる。気が付いてくれるだろうか。デビッドはもう一度、ここだ、と叫んだ。
 すぐ上で扉が開く音がした。それと同時に、うわっ、と驚いたような声が聞こえる。床に大穴が空いているのを見れば、驚くのも無理はないだろう。
 そろりと誰かが穴からこちらを見ているのが分かった。その見なれた顔を確認して、デビッドは思わず安堵のため息をつく。
「デビッド!?」
「すまん」
 何故ジョージの顔を見ると謝りたくなってしまうのだろう。待ってろ、今何か持ってくると言って、ジョージは一旦部屋から出て行った。これで、一人ここで死を迎えるという可能性は無くなった。ジョージがそのまま放置して行かなければの話だが。
 そのまま待っていると、ジョージがどこからかロープを持ってやって来た。そのままそれを垂らそうとするのを、デビッドが慌てて止める。
「まて、あんたの力じゃ俺を引き上げられん。どこかにその端を縛ってくれ。自力で登る」
「どこかといわれても…」
 ジョージは辺りを見回した。しかし、穴の周囲には支えになり得る家具などは無い。どうしようかと考えていると、自分が入って来た扉に目がいった。扉ならばそう簡単に壊れる事も無いだろう。そう判断したジョージは、ドアノブにロープの端を三重にくくり付け、かつそれを自分で掴んだ後、デビッドがいる穴の中に垂らした。
「これで大丈夫だと思う。上がって来てくれ」
「分かった」
 垂らされたロープの端をぎゅっと掴み、少し引っ張ってみる。幸いいきなり崩れるという事は無さそうだ。デビッドはそのロープを伝って上へと登って行く。穴から手が出ると、その手をジョージがしっかりと掴んだ。
「もう大丈夫だ」
「ああ」
 完全に穴から脱出すると、デビッドは大きく息を吸い込んだ。
「どこか怪我をしてるのではないかい?」
「いや…もらった薬を飲んだから」
「薬では傷は治せないよ。痛い所があったら言ってくれ」
 心配そうな顔で自分を見ているジョージを見て、ああ助かったんだと思う。今まで一人でいるのは平気だと思っていたし、死ぬ時はどうせ一人だとも思っていたが、いつの間にか里心でもついたのだろうか。前ならば必要ないと思う感情が、今はとても愛おしかった。
「俺がいなくて先に進めなかったんだろう」
「いや、それが、思わぬ脱出口をシンディが見つけてくれてね。彼女たちは先に避難してもらっている」
 ジョージは言いにくそうにしながら、君一人に危険な役目を負わせてしまいすまない、と謝った。デビッドは良かったという気持ちと、苦労が報われなかった脱力感とでため息しか出なかった。それを聞いて、ジョージがまたすまない、と言う。
「…俺なんか置いて行けば良かっただろう」
 脱出口が見つかったのならば、先に行くなりすれば良かったのだ。それをわざわざ危険な中来なくても良かっただろう、と言いかけて、止めた。というよりも、それを言う前にジョージが、
「君は私を守ってくれるのだろう?」
と言ったからだ。
「君が私を守ってくれるのならば、私は君に最大限のサポートをしよう。それに、そんな理由が無くても、仲間を一人置いて先にいくなんて、私には出来ない」
 それに、と言って、ジョージは少し恥ずかしそうに、
「守ってくれる理由を、まだ聞いていないからな」
 その理由に、思わずデビッドは吹き出した。まさか自分より年上のジョージが、そんな幼稚な事を言うとは思っていなかったからだ。そのギャップがおかしくて、笑いたくなるのを必死で堪える。ジョージはその様子をみて不満そうに、
「助けに来た人間に対してそれは無いだろう」
と言ったが、それが余計にデビッドの笑いに拍車をかけていた。
「何にしても助かった。礼を言う」
「ああ、困った時はお互い様だ。それに、もう生存者は、私たち以外に殆どいない状況だろうからな…」
「俺は、自分とあんたが生き残っていればそれでいい」
 デビッドはそう言うと、いくぞ、と先にドアの向こうへ消えた。またしても不意打ちを食らったジョージは、一瞬固まっていたが、
「!?…おいおい、デビッド、ちょっと待って…まったく、参ったな…」
火照った頬を冷やすかのように、走ってその後を追いかけた。
「どこへ行けばいいのか、君は知らないだろう!!」
と言いながら。