邂逅
「いてて…」
止まらない血を何とかしようと一生懸命腹を押さえるが、その効果は芳しくなかった。じわりと衣服を赤く染めた血は、それだけでは飽き足らないのか、押さえる手を伝って床にシミを作っていた。
自分が歩いてきた道のりが一目で分かるような、赤い印が一定間隔で床に記されていた。そしてその印が放つ生臭い臭いにつられて、死者の群れが自分を追いかけてきているのも分かっていた。
「はぁ、はぁ、ホントに、全く、ついてないったら…!」
少しだけ血の流れが緩くなった。しかし、流れた血の所為で体力は確実に減っていた。顔を上げると急にめまいがし、思わずよろっと壁に寄りかかってしまった。そしてそのままずずっと床にへたり込んだ。
「何だってんだよ、あいつらしつこいんだよ」
悪態をついても返事を返すものはいない。しんと静まり返った室内に自分の荒い呼吸音だけが響いていた。幸いにも、死者の群れは追い付けなかったのか、足音やうめき声は聞こえなかった。
少し体力が回復するまで休んでいようと、ジムは手持ち無沙汰にコインを投げた。何をするでもなく、ただ座っていると言うのは案外つまらないものだ。いつもは暇さえあればパズルやクイズを解く事に一生懸命だったが、そんなものがある訳も無い。ぼんやりとしながら体力が回復するのを待っていた。
その時、突然ギィ、と鈍い音を立てて扉が開いた。とっさに隣に置いてあった拳銃を扉の方に向けて構える。足音は聞こえなかった。ゾンビだろうか?まだ体力が回復していない今襲われたら、ひとたまりも無いことは馬鹿でも分かる。ドクドクと心臓が早鐘を打った。
しばしの静寂。そして、聞こえてきたのは。
「誰かいるのか」
その声を聞いて、思わず銃を手から落としてしまった。カツン、と固い音が響き、侵入者がハッとこちらに振り返る気配が伝わってきた。続いてこちらに近付いてくる足音。現れたのは、ジョージだった。
「…ジム」
「何だよ、いきなり入ってくるなよ。ゾンビかと思ったじゃん」
いつものように文句を言いながらも、手はカタカタと震えていた。慌てて落とした拳銃を拾い上げようとするが、上手く行かない。
「血の跡があったから、誰かいるのかと」
「オレのだよ、それ」
「怪我をしているのか。…見せてくれないか?」
ジョージはそう言って、懐から何やら取り出した。どうやら簡易治療セットらしかった。さすが医者と言うべきだろうか。ジムを安心させるようにジョージは少し笑って、
「応急処置くらいなら出来るだろうから」
と言った。
確かに体力の消耗はかなりのものだったし、今後ハーブや回復剤が見つかる保証は無い。応急処置でも、治療して貰った方がいい事には変わりない。そう思って、ジムは頼むよ、と無意識のうちに押さえていた腹を見せた。
「大分出血したようだな。…ふむ、消毒が必要なようだ」
患部をなで回すように触るジョージの指先が妙に気持ちよかった。きっと名医なんだろうな、と思っていた矢先、ジョージが突然患部を舐め始めた。慌てたジムは飛び上がって、思わずジョージの頭を押しのけようとする。
「な、何やってるんだよジョージ!やめろよ!」
慌てるジムとは対称的に、ジョージは平然とした顔で言った。
「まずは消毒をする必要があるのだが、残念な事に消毒液が無くてね…人間の唾液には殺菌成分もあるんだ」
言い終えるとまたジムの傷口を舐め始めた。ジムは嫌だったが、医者にそういわれると、そうなのかと納得してしまった。治療してくれるというのに文句を言う訳には行かない。
しばらくじっとしていると、どうやら舐め終わったのかジョージが顔を上げた。確かに血まみれだった傷跡はすっかり綺麗になっており、傷口だけがまだ生々しい赤色をしているのが見える。それを見てからジョージに視線を移すと、血の所為か、唇が真っ赤になっているように見えた。
「ジョージ、口に血が付いてる」
「本当かい?ああ、有難う」
ジョージは手の甲で口を拭った。茶色く変色した血が手の甲にさっと付着する。何処かで後で洗う事にしよう、とジョージは誰にとも無く言って、再びジムに向き直った。
「さあ、また血が出てこない間に治療するとしようか」
こくりとジムが頷くと、ジョージはジャケットの内ポケットから何やら小さな箱を取り出した。それを開けるのをぼんやり見ていたジムの目に、何やら不思議なものが映った。 「ジョージ、指。怪我でもした?」
血がにじんでいる訳でもなかったが、人さし指に刻まれた一本の筋が何故かジムの興味をそそった。怪我の痕にも見えるし、少し前まで握っていた引き金の痕にも見えるそれは、綺麗に身なりが整えられたジョージの、たった一つの欠陥のように思えた。
「いや、これは違うよ」
何であるかは答えず、ジョージはジムの問いを否定し、箱を開ける作業を再開した。箱の中からは、小さな箱に収まっていたとは思えないほどの薬や応急処置用具が出てきた。まるで魔法の箱だ。
「ちょっと痛いかもしれない」
ジムが返事をする間もなく、ジョージは指ですくった薬をジムの傷跡に練り混んだ。冷たい薬が火照った肌に刺激を与え、思わずうっとうめき声を漏らす。痛いのもあったが、それだけではなかった。ジョージの指の感触がいやにリアルに肌に伝わって来るのが気持ち悪かった。
「何なんだ、これ…」
「痛かったかい?」
そう言いながらもジョージは指を動かすのをやめない。緩い動きと素早い動きを交互にしてジムを翻弄する。なんだこれ、なんだこれ。オレは一体どうしたんだ。ジョージは何をしているんだ。疑問が次から次へと生まれては消えていく。考えるほど集中出来ない。
「それもあるけど、なんか違う…やめてくれよ、ジョージ…」
思わずギュッと目を閉じた。そうでもしなければ意識を全て持っていかれそうで恐かった。目の前にいるのは本当はジョージじゃなくて、ジョージの皮を被った化け物かもしれないとも思った。
「ああジム。そんな君も可愛いよ……そう、素直になればいいんだ。私に全て任せて」
自分を翻弄するものの正体が快感であることが分かったのは、それからしばらく経ってからだった。何も敏感な所を触られた訳ではない。ただ傷口周辺に丁寧に薬を塗られただけなのだ。それなのに、どうしてこんなに気持ちがいいのか、ジムにはさっぱり分からなかった。
「だめだよ、ジョージ…」
泣きそうな声で懇願するが、要求とは逆にますますジョージの指が他の生き物のように動く。
「あまり声を出さないで。奴らに気が付かれてしまうよ」
「ジョージ、駄目だよジョージ。やめてよ」
ジョージの手の動きが一段と強くなったその時。ガタン、と何処かで扉の開く音がした。続けて、ゆっくりとした足音。どうやらここが安全である時間は残りわずからしかった。
「…残念だけど、ここで終わりだな」
そう言ってジョージはジムの傷口から手を離した。そして残りの処置を簡単に済ませてしまうと、さっと傍においてあったショットガンを手に取り立ち上がった。そして、
「しばらく動けないだろうから、私がやつらを足留めしておこう。動けるようになったらすぐに逃げるんだ。分かったかい」
「…うん。分かったよ」
扉から出ていく間際、くるっとジョージはジムの方を向くと、こういった。
「また会う事が出来たら、さっきの続きをしよう」
ジョージは今まで見せていた柔らかい表情とは全く逆の、危険な感じのする表情を浮かべて少しだけ笑うと、そのまま部屋から出ていった。残されたジムは、体の火照りが収まるまでしばらくその場から動けなかった。