回想



「ピーター、おはよう」
 呼ばれて振り返ると、顔見知りの友人であるトーマスが手を振っていた。私も手を振りながらそれに応える。彼が走って来るのを待って、一緒に歩き出した。
「この前の実習すごかったんだよ!」
 彼は突然興奮気味に話し始めた。彼の癖だ。
「実習があったのか。私の研究室は無かったんだ。で、上手くいったかい?」
 今思えば、医学生の実習なんてたかが知れている。献体された遺体の解剖だ。しかし、初めてそれを行った時のショックと興奮は大きいだろう。今までつまらない机上での勉強を続けてきて、ようやく行われる医学生らしい実習だから。
「僕の腕なんて君がよく知ってるだろう。それに最初だからそんなに上手く行くはず無い。所が!すごいやつがいたんだ。教授も目を見張る腕で、どうやらグレイブ教授の秘蔵っこらしいぞ」
「そんな人がいるのか?」
「全く、君ってやつはそういう事に全く無関心だな。それ以外でも有名だぞ、成績も優秀らしいし…お、ほら、噂をすれば、だよ」
 そう言って彼が指差した方を見ると、数人がグループとなって歩いていた。彼の指はどうやらそのグループの中心に居る人を指しているようだ。
「彼か?あの茶色の髪の…」
「そうそう。ジョージ・ハミルトンだ。見た通り見た目もいいしな。あー、神は残酷だよなー」
 笑いながら彼は言ったが、私は特に関心を持つ事も無くそのまま彼から目を離した。
「おそらく真面目に勉強したんだろう。生まれつき頭がいい人間なんて、本当に一握りさ」
 そう、他人を妬んでも自分には何の得にもならない事を私は知っている。それは時間の無駄というものだ。
 彼はまだ何か言いたげな表情をしていたが、それを敢えて無視して、私は次の講義が行われる教室へ向かった。
 この時が、私が初めて見たジョージの姿だった。


 元々身の回りに執着する事が無かった私は、それからすぐにジョージの事などすっかりと忘れていた。所属してる研究室の教授から、大きな実験をまかされ、それに夢中になっていたのだ。
 その日の実験は深夜にまで及び、私はモニターを監視しながら、余った時間にコーヒーを飲んでいた。構内はしんと静まり返り、私以外の人間は居ないだろうと思われた。
 と、そこへ扉をノックする音が聞こえてきた。誰か他の研究生が忘れ物でもしたのかと扉を開けると、そこには予期せぬ人物が立っていた。
「ワーズワース教授の研究室で宜しかったでしょうか」
 彼はそう言った。きれいな発音だった。
「あ、ああ、そうですが。何か御用でしょうか?」
「頼まれていた研究の結果を届けにきました。遅くなって申し訳ありません」
 さすがに教授はこの時間はお帰りでしょう、と彼は苦笑した。
「あの、失礼ですがハミルトンさんですか」
「ええ、そうです。失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
 私のぶしつけな質問にも彼は気を悪くする風は見せず、にこりと笑いながら言った。
 こういう有名な人間はどこか他人を見下した所があると思っていたが、ジョージからはそれがみじんも感じられない。彼は噂どおりすばらしい人間のようだった。
「いえ、すみません。お会いするのは初めてですが、あなたの噂は聞いた事があります。有名でしょう」
「いえそんな事はありません。私は何もしていませんから。…あなたはジェイキンスさんですか?」
 彼は私の白衣についたネームプレートを見たらしかった。ええ、と応えると、すっと手を差し出し、
「近々研究についてお世話になる事もあるかと思いますが、宜しくお願いします。私の事はジョージと」
 差し出された手を握り返し、私も簡単に自己紹介をした。その後彼は私に研究結果が入っているという封筒を渡して帰って行った。
 私は狐につままれたように、ただぼんやりと彼が立っていた場所を見つめていた。実験装置が甲高い警告音を立てていたにも関わらずだ。おかげでその日は徹夜で実験を行うはめになってしまった。


 それから暫くして、正式に教授からの紹介があった。私はインフルエンザやその他ウィルス性の病気に対するワクチンを主に研究していたが、彼はその原因であるウィルスの研究を行っていた。
 互いに研究結果をやり取りするうちに、私は驚くべき事に、彼に段々と興味を持って行った。トーマスにジョージの事を尋ねると、彼は大層驚いた様子で、
「興味が無いんじゃなかったのかい?」
 としきりに尋ねていた。私は研究でチームを組む事になったからだと言ったが、本当はそうではない。単にジョージの事が知りたかっただけだ。
 ジョージは非常に出来る人間で、研究はもちろん、医者としての腕もよかった。すぐに付属病院へ配属されるのではないかという噂も流れていたが、ジョージは修士課程へ進むと言っていた。
「研究が面白くてね。でも、博士にはならない」
 私が尋ねた時には苦笑しながらもそう答えた。今やっている研究の成果が出て、学会に発表出来たらすぐにでも国家資格の勉強に取りかかるのだと言っていた。
「ピーターはどうするんだ?」
「私はこのまま研究者への道を進む事にするよ。人と向き合う医者は向いていない」
 そうか、とジョージは言った。あっさりした反応にどこかでがっかりしている自分が居る事に気がついた。まさか、ジョージに残念がってほしいとでも?最近の自分の感情は分からない。
 私は彼に惹かれていた。彼の事が好きだったのだ。今ならはっきりと分かる。けれど、あの時の自分はそれに気がつくには幼過ぎた。ただもやもやとした感情を憧れと判断し、ジョージに気に掛けてもらえるよう研究を頑張った。その所為か、二人の研究はとんとん拍子に進み、目覚ましい功績を残す事が出来たのだ。
 教授も手放しで褒めてくれたし、何よりジョージに感謝される事が嬉しかった。
「有難う、ピーター。君のおかげだよ」
「いや、ジョージの功績が大きい。こちらこそありがとう」
 学会の論文誌に掲載される事が決まった時、私たちは二人でささやかなディナーを食べた。
 実は、一緒に研究した期間、一度もジョージとともに食事を取る事をしなかったのだ。いや、出来なかったとも言うべきか。なんせ彼は常に恋人がいて、食事の時間になると彼を誘いにくるのだ。また彼も、誘いに来る事を知っていて、なるべく食事の時間に実験がもつれ込まないように上手く調整をしていた。
 ディナーはジョージの行きつけであるというレストランで行われた。誰も邪魔する事の無い、二人きりのディナーだ。今でもその時のジョージの様子を覚えている。今までで一番幸せだったと言っても、過言ではないだろう。
 私は、ジョージと知り合えて本当に良かったと思ったのだ。


 しかし、研究が終わると彼は医師になる為の資格の勉強を始め、私はまた違う研究に取りかかった為、二人で会う事はほとんどなかった。もちろんそれは当たり前の事なのだが、私はひどくがっかりした。もうジョージに会う理由が無いのだ。
 時折図書館で彼の姿を見かけたが、とても声をかける事は出来なかった。ジョージを意識し始めてから、私は自分からジョージに話しかける事が出来なくなっていた。拒否されたらどうしようかという、ネガティブな考えが頭をよぎるのだ。
 私はジョージを忘れる事に決めた。もう二人の時間は戻ってこないのだから、忘れた方がいい。
 それから、ジョージの事をふっ切るように研究に没頭する日々が続いた。時が瞬く間に過ぎ去り、新しい論文が完成した頃、風の噂でジョージが医師資格を取った事を聞いた。
 彼が大学で過ごす時間は残り少ないのだ。そう思うと、私は胸が締め付けられるような気がした。
 

 その年の学年末、大学で卒業式が行われる。私はまだ先だが、卒業式の様子を見に行った。そこにはジョージがいるはずだった。彼はラクーン市内の病院へ勤務が決まっている。
 講堂の扉が開かれ、がやがやと卒業生が出てくる。私は思わずジョージの姿を探した。もう一度彼に会って、話したい。その思いが私を駆り立てたのだ。
 なかなかジョージは出てこなかった。学部生の卒業式も合わせているため人数は数百人におよぶ。みな黒いコートと帽子を見につけ、誇らしげに歩いて行く。それを見ていると、ジョージと一緒に卒業すれば良かったかなんて馬鹿馬鹿しい考えも浮かんでしまうから不思議だ。私には研究する事しかとりえが無いと言うのに。
 そのまま待っていると、随分経ってからジョージが姿を現した。声を掛けようかと思ったが、初めて彼を見た時と同様、彼の回りには数人の人がいた。おそらく仲のよい友人だろう。彼等を見ていると、急に自分が滑稽に思えてきて、足がすくんだ。行きたいけど行きたくない、という相反する思いが私を混乱させる。

 チャンスは今しかないのだ。

 それなのに、私は声をかける事は出来なかった。ジョージは私に気付くはずも無く、そのまま友人達とどこかへ行ってしまった。私はがっくりと肩を落として研究室へ戻るしかなかったのだ。


 あれからジョージには一度も会っていない。噂では腕のいい外科医として評判だという話だ。私は博士号を取り、そのまま大学に教授として残っている。
 研究は好きだし大学教授としての暮らしも悪くない。けれど、時々、一番楽しかったジョージとの時間を思い出し、たった一枚だけの二人の写真を見ると、あの頃に戻りたくなるのだ。輝かしい学生時代へ。
 もし戻れるのならば、その時こそは彼に思いを伝えようと思いながら。