名前を呼んで



 振り上げたナイフを心臓に向かって突き立てた。肉の弾ける嫌な感触からワンテンポ遅れてじわっと血が滲む。
「行け!」
「は、はい!」
 低く冷たい声に一瞬身を強ばらせたが、次の瞬間には一目散に駆け出していた。しかし、今まで散々走り回った足は限界を訴えており、うまい具合に足を運ぶことが出来ない。もつれそうになるのを何とかかわしながら、数メートル走り続けた。端から見れば何とも危なっかしい走り方だったが。
「遅い」
 後ろからデビットの声が聞こえたかと思うと、ふわっと身体が浮き上がるような感覚がした。そしてぐらりと身体が前のめりになる。転んだのかと咄嗟に手を伸ばしたが、それが地面に着くことはなかった。
「あ、あの、その…」
 自分の置かれている状況が分からず、ヨーコは困ったようにデビットの方を見た。しかしデビットは何食わぬ表情でヨーコを抱えたまま走り続ける。
「お前を一人で走らせておいたら、いつになっても目的地に着かん」
 それでも、一人の人間を抱えて(しかも片手で!)走るということはかなりの負担であることは間違いない。それが申し訳なくて、ちゃんと走れるから、とその手から逃れるように身を捩った。
「動くな」
「でも、これじゃ…」
 あなたの迷惑になるわ。ヨーコはそう思った。この状況でもしゾンビや他の化け物が現れたら、咄嗟に対処する事は不可能に近い。そうなったら二人とも共倒れだ。そうなるならば、デビット一人でも逃げ出せた方がいい。
「俺の事は考えるな。自分のことだけを考えろ」
 何も出来ないヨーコにデビットはそう言った。走るのは苦手だし、研究ばかりしていたから銃など握ったこともない。この地獄から脱出するには不利な条件ばかりだった。唯一、たまたま背負っていた愛用のナップサックは皆が持ちきれない分の荷物も収納することが出来たので重宝したが、それだけだ。ヨーコは役に立たない自分が歯痒かった。
 デビットは建物の前でヨーコを下ろした。良く見るとガソリンスタンドに併設されたコンビニエンスストアの様だった。ガラス張りの窓は割れておらず、荒らされた形跡は見られない。ここで休むついでに何か役立つ物を頂こうというつもりなのだろう。
「俺が見てくる」
「嫌よ、一緒に行く」
 しかしデビットは首を縦に振らない。安全が確保されたら呼ぶと言って単身中へ入っていった。
 追いかけることも出来た。しかし、万が一中にゾンビや化け物がいたら、ヨーコはデビットの邪魔になってしまうだろう。一人残されるよりもその方が嫌だったのだ。中から銃声が響かない事を祈って、ヨーコは入り口の前で待つことにした。
 辺りは静まりかえっており、ヨーコの他に生き物――ゾンビもそう呼ぶのなら――の気配は感じられなかった。青いビニールシートで覆われた機械が月に照らされ、影を浮かび上がらせている。それが数台並んでいる様子は見慣れているはずなのにどこか不気味だった。
「いいぞ、来い」
 デビットが店の中から手招きをしている。ヨーコは頷くと店の中に足を踏み入れた。
 脱出時に混乱したのだろう、所々床に商品が落ちている。それを踏まないようそっと跨ぐと、奥にある事務所の扉をデビットが指さす。
「薬があったが持てるか?」
「大丈夫だと思う…」
 そう言ってヨーコは事務所に足を踏み入れた。デビットもそれに続く。
 従業員が待機していたと思われるそこは、思いの外整頓されていた。簡素なテーブルの上にテレビのリモコンや読み掛けの雑誌が置かれている様子は、今にも人が帰ってきそうな錯覚すら覚えさせる。しかし、誰も戻ることはない。
 救急箱の中には化膿止めなどの薬が入っていた。それをナップサックに移し終え、出口に立っているデビットの方を見て、ヨーコは言葉を失う。デビットの僅か数メートルにゾンビが迫っていた。
「デビット、後ろ!!」
 デビットが後ろを向いたのと、デビットにゾンビが掴みかかるのとはほぼ同時だった。回避できるはずもなく、ゾンビの手がデビットの肩に食い込む。続いて腐った顔が首筋に噛みつこうとするのを寸前の所で抑えた。
「くっ…銃、が…」
 ハッとヨーコはデビットの視線の先を見る。デビットが使っていた銃はテーブルの上に置かれていた。しかし、今デビットがいるところからそれを取るのは不可能。意を決してヨーコはそれを手に取った。
 慣れない銃を握る手は微かに震えている。安全装置を外して、なおデビットの首筋に歯を立てようとするゾンビの頭に照準を合わせた。
「ヨーコ!撃て!」
 恐ろしくて、思わず目を閉じた。指が引き金に食い込み、ズドン、という音がした。重い衝撃に足がふらつく。
「…よくやった」
 肩にデビットの手が置かれたので、ヨーコは恐る恐る目を開く。
「あ、私…ちゃんと撃てた?」
 デビットは無言で背後を指さす。そこには先程のゾンビが倒れていた。
「怪我しなかった?」
「大丈夫だ。それより早く行くぞ」
 奴ら匂いで追って来やがる、とデビットは舌打ちした。そしてヨーコに背を向けて歩き出そうとするのを、咄嗟に呼び止める。
「待って、お願いがあるんだけど…」
「何だ」
 デビットの不機嫌そうな声に一瞬怯んだが、ヨーコはぎゅっと自分の手を握りしめ、
「もう一度、名前を呼んで」
 私はあなたの名前を何度も呼んだけど、あなたは私の名前をちゃんと呼んでくれていないから。そう言うヨーコにデビットは面倒くさそうな表情を浮かべたが、一度言い出したら納得しないという頑固な面を持っている事を知っていたため(一度それで突破口が開けたこともある)、渋々その要求に応えた。
「…ヨーコ。行くぞ」
「はい!」
 うきうきと嬉しそうに近づいてくるヨーコを面倒くさい女だと思う反面、どこか放っておけない所を感じている自分にデビットは溜息を吐いた。