夜明けの青



 路地裏に座り込んで、シンディはぐるりと辺りを見回した。
 幸い自分たちを狙う化け物の姿は見えない。そして、自分たち以外に生きている人間の姿も見えない。ただ遠くから犬の遠吠えらしい声が聞こえてくるだけだ。
「大丈夫かい?」
 いつの間にかジョージが隣にいて、そっとシンディの肩に手を添えた。泣きたくなる気持ちを押さえて、シンディは黙って頷いた。ここで泣き言を言っても生き延びることが出来る訳じゃないと分かっているからだ。
「私たち、まだ生きてるわよね?」
「もちろんだとも」
 手は普段使ったこともない銃の硝煙と自分のかどうかも分からない血で汚れていた。それを隠すようにぎゅっと握りしめて、シンディは立ち上がった。

***

 初めて会ったのは、シンディの勤め先のバーで、だ。
 他の客は多少なりともシンディと会話をしていたが、この男だけは何も言わず、一人で黙々と飲んでいたことを覚えている。
 良く言えば寡黙、悪く言えば無愛想だな、というのが第一印象だった。そしてその印象は今でも変わらない。ただ、そこに「冷徹」という印象が付け加えられたが。
「撃て!」
「いやっ…駄目よ、私には出来ない!」
 目の前にゾンビが迫る。まるでこの前見たホラー映画のようだとぼんやりと思っていた。それくらい、現実味がない光景だった。けれど、次に襲ってきた皮膚が引き裂かれる鋭い痛みが、それが現実だと言うことを嫌でも教えてくれる。
 目の前にいるのは、シンディの同僚だ。既に目は白く濁り、人間らしい言葉を発することなく、ただ己の食欲を満たすためだけに彼は動いていた。助けることが出来ないことは一目瞭然だ。
 けれど、シンディにはどうしても彼が撃てなかった。数時間前まで一緒に笑っていたウィルを撃つなんて…銃身を支える手が震えて、今にも取り落としそうなほどだ。撃とう、と思っても、引き金に掛かった指がそれを拒否する。
 突き出された手に捕まらないように何とか足は動かして一撃をかわしたものの、次に撃たなければ確実に捕まってしまうだろう。それでも、頑固な手は引き金を引くことを拒否したままだ。
 その時、咄嗟にシンディの手から銃が消えた。
「貸せ!」
 そう言って奪っていったのはデビットだ。シンディから取り上げた銃を素早く構えると、容赦なくウィルの頭に銃弾を数発撃ち込んだ。その度に皮膚や脳漿らしいものが飛び散るのをシンディは間近で見ていた。
 最後にくぐもった呻き声を上げながら、ウィルはその場に崩れ落ちた。どさり、という音と共にシンディの身体は金縛りが解けたように自由に動くようになる。
「ウィル!!!」
 倒れたそれに近づこうとすると、
「近づくな!」
 デビットはそう言って、更に数発ウィルの身体に発砲した。ドスッ、ドスッと肉に銃弾が食い込む音がする。それを見てシンディはデビットの腕にしがみついた。
「止めて!もう止めてよ!」
「とどめを刺さなければまた起きあがってくる」
「もう死んでるわ…止めて、お願いよ」
 優しかったウィルはもうその原形をとどめていない。至る所から赤黒い血が流れてめちゃくちゃだ。それを見て涙を流すシンディをデビットは鼻で笑って、
「甘いな…お前、すぐ死ぬぞ」
「何ですって!?」
「人間を襲うようになっちゃもう生きているとは言えん。さっさと殺した方が身のためだ」
「酷い…あなた、自分の知り合いがこうして目の前に現れた時でも同じ事が言える!?」
 シンディの問いかけに、デビットは表情を変えることなく、ただひと言
「出来る」
 その声が今まで聴いたことのない位冷え切っていて、シンディは思わず身震いをした。デビットは想像以上に怖い人だったのだ、と。
「悪いけど…あなたと一緒に行動なんか出来ないわ」
「…勝手にしろ」
 そう言い残して、デビットは外に続くドアの向こうに姿を消した。それと入れ替わりに隣の部屋から現れたジョージがシンディに駆け寄る。
「大丈夫だったかい?あれ、デビットは?」
「知らないわ、あんな人」
「隣の部屋で弾薬が手に入ったから渡そうと思ったのだが…シンディ、君にはこれを」
 ジョージが差し出したもの、それは小振りのハンドガンだった。先程持っていたものよりも小さく、扱いやすそうだ。
「君ならこっちのほうが使いやすいだろう。先程の銃は私にくれないか」
「ごめんなさい、デビットが勝手に持って行っちゃったの」
「そう、それならいいんだが…おや、怪我をしている」
 そう言われて初めて、自分が怪我をしていることを思い出した。と同時に鋭い痛みが戻ってくる。傷口を見ると、裂けた傷からじっとりと血がにじみ出ていた。
「これはいけない。消毒をしよう」
「ごめんなさい、ジョージ…」
 デビットとは全くタイプの違う、この医者にシンディはこの事件が起こる前から好意を寄せていた。こうして彼と一緒に居ることが出来る事は、この地獄のような街にあって僅かな希望だと言えるだろう。勿論気持ちを口に出すことはしないが。
「よし、これでいい」
 傷口には白い包帯が巻かれていた。多少皮膚が突っ張る感じがしたが、贅沢は言っていられない。
「ありがとう」
「さ、私たちも行こうか。ここにいても大した収穫は得られないだろうし」
 その時ふと、先に出て行ったデビットはどうなったかしら、と思ったが、首を振って、あんな男ゾンビにでも何でも食われちゃえばいいのよ、とシンディは考え直した。
 次に会うことがあったら見返してやるわ、とジョージから渡されたハンドガンを握りしめて、シンディはジョージに続いて外に出た。

 外はシンディの想像を超える酷さだった。
 横転したトラック、燃え続ける積荷、崩れた建物や倒れたダストボックス。幸い化け物の気配は無かったが時々聞こえるカラスの鳴き声が不安を煽る。それに、何時までもここが安全だという保障は何処にもない。
 この街は一体どうなってしまったのだろう。何の前触れもなく突然戦場に投げ出されたような光景にシンディは身震いをする。
「どうする…?」
「取りあえず、警察署まで行こう。対策本部が設置されている可能性が高い」
 警察官達が全滅していなければだが、とジョージは付け加えた。警察官なら一般人より銃器の取り扱いに慣れているはずだから、自分の身を守るくらいはしているだろう。しかし、先程のような人が大勢で襲ってきた場合は分からない。
「いいわ。行きましょう」
 そうして歩き始めたジョージをシンディは呼び止めた。
「何だい?」
「お願いがあるんだけど、銃の撃ち方を教えて欲しいの」
 デビットに馬鹿にされないように、というのは言わないでおいた。ジョージは微笑んで、
「いいよ」
 と言った。そして、シンディに近づくと、銃を持った手をもう片方の手で固定させ、まっすぐ正面に突き出すように移動させる。
「この体勢で撃つんだ。足は少し広げた方が良い。結構な衝撃に耐えなくちゃならないから」
 一発撃ってごらん、とジョージが言うので、シンディは引き金を引いた。パン、と乾いた音と共にその音に似合わない衝撃が身体を襲って、先程の傷が少し痛んだ。
「…銃を撃つのって結構大変なのね」
「慣れればそうでもないよ。まあ、本当は慣れないのが一番なんだが…」
 悲しそうにジョージがそう言う。確かにその通りだ。銃なんか撃たないでいるのが一番良い。でも、役立たずとは思われたくなかった。甘い女だと見くびられるのは嫌だったからだ。
「いいわ、行きましょう。私頑張るから」
「無理をしないようにね」
 
 デビットとはすぐ合流することが出来た。
 ホテルの裏口から中庭に入り、正面に抜けた方が警察署が近いというジョージの意見を元にそこへ言ってみると、既にデビットの姿があったのだ。
「デビット!無事だったのか」
「ああ…その女も一緒か」
「悪かったわね」  キッとデビットを睨み付けて、シンディは言った。
「私だって、銃くらい撃てるんだから」
「せいぜい頑張るんだな。俺の足は引っ張るなよ」
「あなたこそ私の足を引っ張らないで欲しいわ」
 おやおや、とジョージが苦笑いをしている。お互いにフン、とそっぽを向く瞬間、デビットが腕に怪我をしている事にシンディは気がついた。
「あなた、怪我してるの?」
「…俺に構うな」
「嘘、ちょっと見せて」
 デビットに近づくと、さっと傷口を隠された。それでも構わず怪我をしている方の腕を掴もうとすると、シンディの手を振り払って、
「構うなと言っている」
「何強がってるのよ。怪我してこれから足引っ張られちゃ困るわ」
「煩い。これくらいの怪我、大したこと無い」
「じゃあ勝手にしなさいよ!!」
 せっかく治療してあげようと思ったのに、とシンディはデビットから離れると、さっさと一つだけ開いた扉に向かって歩き出した。
「シンディ!」
 慌ててジョージが声を掛けるがシンディは黙ったまま建物の中に消えていった。いいのかい、とデビットの方をジョージが見ると、デビットは首を振って、
「ハーブは温存しないとな…この先何があるか分からん」
「それでも…彼女はよかれと思ってしたことだろうに」
「俺には関係ない」
 デビットも続けて建物の方に向かって歩いていく。やれやれ、とジョージは肩をすくめ、それから二人の後に続いた。

 建物の中は灼熱地獄だった。
 どこかで火災が発生してるらしく、木の焼ける臭いと煙が辺りに充満している。
「早く脱出しなければ私たちが蒸し焼きになってしまう」
「クソ、なんだこのふざけた仕掛けは」
 デビットがいるのはホテルの一室だ。警備室に散乱した資料を読むに、このホテルはオーナーの趣味で二つばかり仕掛けがあり、それを解かねば玄関ホールへの緊急通路が開かない仕組みになっているようだった。
「緊急通路だというのに仕掛けか…一般の人が誤って使用しないようにという配慮かも知れないが」
「パズルになってるみたいね…デビット、あなた解けないの?」
「力づくで殴る」
「おいおい、止めてくれよ。壊れてしまっては元も子もないだろう」
 殴ろうとするデビットをジョージが必死に止めている。しかし、このままここで三人こうしていても仕掛けは解けないだろう。もう少し資料を集める必要がある。
「私、隣の部屋も見てくるわ」
「気をつけるんだ!」
「大丈夫」
 そう言ってシンディは部屋を出て行った。確かに今の部屋と隣の部屋の距離は数メートルに満たない。けれど、この非常事態では何が起こるか分からないのだ。
 その時、耳をつんざくようなシンディの悲鳴が聞こえてきた。ジョージが恐れていたことが怒ってしまったらしい。
「シンディ!」
 デビットとジョージは部屋から飛び出した。しかし、シンディの姿は見あたらない。何処へ行ったのだろうか、と二人は辺りを見回す。
 と、突然デビットの目の前にシンディの足が姿を現した。さすがのデビットも驚いたようで思わず数歩後ずさる。
「デビット、上だ!!」
 背後からジョージの声が聞こえ、上を見上げると、今まで見たこともないような化け物が天井に張り付いていた。そして、そいつの口から伸びる長い舌にシンディの首が絡め取られている。呼吸も満足に出来ないのだろう、シンディは顔を真っ青にして微かな呻き声を上げるのみだ。
「う、うう…」
「この野郎!」
 デビットはハンドガンを構えると、天井に張り付く化け物に発砲した。化け物は怯んだようで、シンディの首を絞めていた舌が緩む。解放されたシンディはドサッと床に投げ出された。
「シンディ!」
 慌ててジョージが駆け寄り、シンディの身体を安全なところへ移動させる。シンディは気絶しているらしく目を開けない。
 デビットは天井を向いたまま、更に数発その化け物に銃弾を撃ち込んだ。そのうち、断末魔の悲鳴と共にそれも天井から落ちてきて、床にぐったりとしたまま動かなくなった。身体を包んでいたらしい粘膜がだらりと辺りに伸びている。
「それも、人間だろうか…?」
 恐る恐るジョージが尋ねると、デビットは顔色も変えず、
「恐らくな」
「なんて事だ…」
「これ一匹じゃない、多分他にもいるだろう。少し前からピタピタと変な足音がすると思ったらこいつだったのか」
「とにかく、一旦先程の部屋に戻ろう。シンディが心配だ」
 デビットは黙って頷くと、床に横たわっているシンディの身体を背中に背負い、仕掛けのある部屋に入っていった。

 シンディが目を開けると、ジョージとデビットが覗き込んでいるのが見えた。一瞬自分が置かれた状況が分からなかったが、徐々に先程起きたことを思い出す。
「私…」
「良かった、気づいたんだね」
 ジョージがそう言ってシンディの下瞼を少し押させて目の色を見る。
「大丈夫、問題はなさそうだ」
「これに懲りて無茶するな」
「…ごめんなさい」
 素直に謝るシンディに面食らったのか、デビットもそれ以上シンディを責めることはせず、ベッドの側から離れた。
「そうそう、先程の仕掛けが解けたんだよ」
 そう言ってジョージは赤い宝石をシンディに見せた。勿論本物ではなく、プラスチックか何かで出来た偽物だ。それでも、部屋の灯りを反射してきらきら光る様子は美しい。
「これがあれば脱出できるようだ。君さえ動けるようになったら出口へ向かおう」
「私、もう大丈夫だわ」
 シンディはそう言って身体を起こす。と次の瞬間には酷いめまいがしてベッドに逆戻り。
「ほら、無理はしない方がいい」
「無理するな。足手まといになる」
 その言葉を聞いたシンディは、悔しくて涙が出た。役に立てるよう頑張っても、結局デビットにしてみれば自分は足手まといなのだ、と。
「そんなに私の事が嫌いなら、一人で先に行けばいいでしょう」
「シンディ…デビット、君も少し言いすぎだ」
 ジョージがたしなめると、デビットは黙った。
「フン…配電盤を操作してくる」
「大丈夫かい?さっきの事もあるし団体行動の方が…」
「心配するな。そこの女とは違う」
 デビットの背中に向かって、シンディは思いっきり舌を出した。おやおや、とジョージが苦笑するが、今は自制する気分にもなれなかった。
「でも、彼は君のことを心配していたよ」
「嘘よ。ジョージも見たでしょう?いつもあんな風に私のこと見下して…いつか見返してやるんだから!」
「きっと、素直になれないんだよ、彼は」
「そうかしら…」
 喧嘩は無事脱出できてからにしてくれないか、というジョージの言葉は確かに一理ある。シンディとデビットが喧嘩をするのは構わないが、そうすることでジョージには多大な迷惑が掛かる事くらいシンディは分かっていた。それでも、デビットの文句を聞くと言い返さずにはいられない。
「さあ、デビットが戻るまでもう少し休んだ方がいいね」
「そうね…」
 目を閉じると緊張がほぐれたのか、すぐに眠ってしまった。

 何とかホテルから脱出し、三人は警察署に向かう。
 しかし、警察署も既に化け物の巣窟と成りはてていた。そして、警察ですら何人もの犠牲者が出ていた。僅かに残った数名の警察官が奮闘していたが、持ちこたえることはほぼ不可能だろう。
「どうしよう…」
「脱出方法が確保されていないとなると…私たちでは手の打ちようがない」
「そんな!じゃあ死ぬのを待つだけだっていうの?」
「ぎゃーぎゃーわめくな。まだそうと決まった訳じゃない」
「でも」
 二人が言い合いをしている間に、ジョージは壁に貼られた伝言メモを一枚一枚慎重に見ていく。何か脱出に繋がる情報が隠されているかも知れないという僅かな望みを糧に。
「おや…?」
 一枚のメモがジョージの目に止まった。
「おい!ちょっとこれを見てくれ」
 ジョージの声に二人が近づいてきた。そしてジョージが指さしたメモを見る。
「…一時間おきにヘリを派遣…?場所は…」
 そこには市民を輸送するヘリが一時間おきに発着するというメッセージと場所が記されていた。発着場所として指定されたラクーン大学はここから少し遠かったが、ここで来るかも分からない助けを待っているよりはずっと良い。
「行ってみる価値はあるんじゃないだろうか」
「そうだな」
「そうね」
 三人の意見は一致した。そうして三人は大学へ向けて警察署を後にした。
 大学への道のりは決して楽ではなかった。大勢の化け物が徘徊する大通りを抜け、所々にバリケードが築かれた裏路地を抜けていく。化け物は人間だけでなく、巨大化した虫や犬など様々なものが徘徊していた。
 長い間歩き続けた所為か、シンディの足はもう限界を訴えていた。特に歩き難いハイヒールを履いているのだからなおさらだ。しかし、弱音は吐きたくなかった。痛みをぐっと我慢して、ジョージとデビットの後ろを必死でついていく。足を取られないよう、慎重に、それでいて急ぎながらというのは中々難しい事だ。時々ジョージが心配そうに振り返ってくれたが、笑って何事もなかったかのように振る舞う。それがシンディの処世術だった。
 しかし、デビットは全く気遣う様子もなく、さっさと一人で先に進んでいく。その背中が気に入らなくて、シンディはキッと睨み付けた。見てなさい、いつか見返してやるんだから、と。
 そうしてたどり着いたラクーン大学は、既に人の気配が無く、本当にヘリが来てくれるのか疑ってしまうような静けさに包まれていた。しかし、もう後戻りは出来ない。三人は正門から敷地内に入り、ぐるっと建物の周りを一周してみることにした。
 この大学の出身だというジョージが先頭に立ち、建物に沿って回っていると、不意に開けたところに出た。どうやら大学の駐車場として利用されていた場所のようだが、今は車の数も数えるほどしかない。そして、そこに即席と思われるヘリの着陸地点が描かれていた。
「どうやらここで合っていたようだな」
 ここからヘリが発着していたのは確かなことのようだった。出発した後なのか、辺りに人の気配がないのが気になる。
「本当にヘリが来てくれるのか?」
「少し待ってみない?」
「そうだな…私は建物の中に入れないか少し見てこよう。もしかしたら弾薬か薬になるものがあるかも知れない」
「大丈夫か?」
 デビットがジョージを気遣う声を掛けたが、ジョージは笑って、大丈夫だと思うよ、と一人建物に向かって歩いていった。
「俺も見てくる」
「待って、私も…痛っ…」
 デビットを追いかけて歩き出そうとした途端、足に激痛が走り、シンディはその場にしゃがみ込んだ。靴擦れが出来てそこから血がにじみ出ている。通りで痛いわけだわ、とシンディは溜息を吐く。持っていた止血帯を細く千切って、患部に巻き付ける。
「おい、何してる」
「デビット…見て分からない?怪我してるの」
「ハーブでも使えばいい」
「駄目よ、これはもっと酷い怪我の時に使うんだから…あなたのその腕、まだ治らないの?」
 ふと、先程治療を拒否されたデビットの腕が目に入って、シンディは顔をしかめた。あれから結構な時間が経っているにもかかわらず、傷口からは未だに血がにじみ出ている。そして、傷の周りに先程は無かったはずの細かい水疱が見られた。嫌な予感がして、シンディは再度治療を申し出る。
「やっぱり無理しないで治療させて」
「俺に構うな」
「悪化したら腕が使えなくなるかも知れないのよ!?それでもいいの?」
「…その時はその時だ」
 達観したような目をして、デビットは言った。その時、シンディは気がついた。デビットが死すら厭わない覚悟でいるということを。
「死んでもいいなんて思ってるんじゃないでしょうね?そんなの許さないわよ」
「フン…早くしろ、行くぞ」
「あ、待ってよ!もう…」
 慌てて千切った止血帯を患部に巻き付けると、デビットの後を追った。まだ傷は痛むが、治療前よりは随分と楽になっている。これならヘリが来るまで持つだろうとシンディは思った。後はヘリが迎えに来てくれるだけでこの街から逃げ出すことが出来る。そう考えるともう少し頑張ろう、という思いが湧いてきた。
 しかし、ついていった所で二人分の発見がある訳ではないとすぐ察したシンディは、あっち側を調べてくるわ、とデビットの傍を離れた。デビットは特に異存は無いらしく、頷くとそのまま先へ歩いていく。
 ぐるっと辺りを見回すと、川に面した柵の傍に、錆び付いた扉があることに気がついた。デビット、ここに扉があるわよとシンディが呼ぶと、反対方向を調べていたデビットが近づいてくる。
「どこだ」
「ほら、そこ」
 シンディが指さした扉に近づくと、押したり引いたりしてみる。しかし、鍵が掛かっているのかそれとも接続部分が錆び付いているのか、とにかく扉はびくともしなかった。クソ、とデビットはその扉を力任せに蹴りつけた。
「何してるのよ」
「開かないから蹴っただけだ」
「…私も同じ事をしたわ。でもあなたが蹴っても駄目なら駄目なのね」
「お前が蹴ったところでびくともしないだろう」
「煩いわね、どうせ力はないわ」
 でも蹴りたくなる事だってあるのよ、というと、デビットは変な顔をした。それが笑っているのだとシンディが気づいたのは暫くしてからだ。何せ、デビットの笑った顔など見たことがなかったし、第一笑うことなどないのではないかとずっと思っていた。だからその笑い顔が余計に変に見えたのだ。
「デビット、あなた笑った顔がもの凄く似合わないわ。ずっと仏頂面でいなさいよ」
「フン…」
 もっと罵倒されるかな、と思っていたシンディには、デビットの反応は意外だった。それとも自分で似合わないのが分かっているのだろうか。
 違うルートを探すぞと言って、デビットは再びその場から離れた。ふと、その背中がふらついているような感じがしたシンディは、デビット、と言いかけて止めた。きっと何を言っても俺に構うな、で一蹴されてしまうと今までの経験から分かっていたからだ。
 それでも、今までとは違う感じに妙な胸騒ぎを覚えた。

 どれくらい時間が経ったのだろう。唯一時計を持っていたジョージが不在とあっては、二人に時間を知る術がない。もう一時間経ったのかも知れないし、まだ三十分も経っていないのかも知れない。取りあえず、一向にヘリが現れる気配がない事だけが引っかかっていた。
 大学の中に入るにはカードキーが必要らしく、それはジョージが持って行ってしまったのでこうして外で待つしかない。幸いにここまで死者の群れが入り込んでくることはなく、時々カラスが獲物を狙う目で飛び回っている姿を見る他は至って平穏だった。
「はぁ、疲れたわ…」
 大体の所はもう見て回ってしまい、やることが無くなったシンディはその場に座り込んだ。デビットはまだ何か探しているらしく姿が見えない。腰に付けたハーブケースの中身を見ると、残り僅かだった。それがますますシンディに溜息を吐かせる。
「デビットとジョージ、早く戻ってこないかしら」
 その時、どこかで一発銃声が聞こえた。それから立て続けに数発。もしやまた化け物が現れたのかとシンディは慌てて立ち上がる。
 銃声は今シンディがいる建物の向こう側から聞こえた。となると、発砲しているのは恐らくデビットだ。
 次の瞬間、シンディは音の聞こえた方に向かって走り出していた。嫌な予感がする。まさかあのデビットが簡単に喰われてしまうとは思えないが、相手が複数だった場合はどう考えてもデビットの方が不利になってしまう。
 久しぶりに手にしたハンドガンはずしりと重く、一生これの扱いに慣れたくないわ、と思いながら、弾が入っていることを確認して、建物の裏側に続く扉を開けた。
「デビット!!」
「来るな!」
 その瞬間、今まで見たこともないような巨大な虫がシンディの頭を掠めていった。何が起きたのか判断するまもなく、続けて同じ大きさの虫が飛来する。
「きゃぁああ!」
 必死にしゃがんでそれらの攻撃をかわしながら辺りを見回すと、丁度壁際にデビットが倒れ込んでいた。
「何してるのよ!」
「見りゃ分かるだろう」
「動けないの?」
 慌てて駆け寄ろうとしても、その虫は執拗にシンディを付け狙う。プンプンという羽音が鼓膜を刺激するのに耐えかねたのか、シンディは持っていた銃を構えると、その虫目がけて発砲した。途端、ぐしゃっという音と共に、羽音が一つ止んだ。
 まさか当たるとは思っていなかったシンディだったが、それに気をよくしたのか、もう一匹に狙いを定める。しかし、ちょこまかと飛び回る虫に照準を合わせるのは難しい。
「大人しく、止まってよ!」
 そうしている内に、ぐるぐるとシンディの周りを回っていた虫は、狙いを定めたらしくシンディの方へ一直線に向かってきた。あ、と思った次の瞬間、デビットが叫んだ。
「今だ、引き金を引け!」
 その声で我に返り、シンディは人差し指を力一杯引いた。発射された鉛玉は虫の体内深くに突き刺さり、体液と思われる液体を飛び散らしながら地面に落下した。それからぴくりとも動かない。絶命したのだ。
「やったわ…」
 ほら、私でも撃てるのよとデビットの方を見たシンディは顔色を変えた。デビットは腹を抱えてうずくまっており、その顔は青白く、唇が紫色に変色していたからだ。一目で具合が悪いと分かるほど酷い表情だった。
「何があったのよ!」
「何でも無い…」
「そんなわけないじゃない、第一その顔色…」
 あいつらみたい、と言いかけて口をつぐんだ。本当にそうだとしたら?デビットがあいつらと同じようになってしまったら…シンディはゾッとした。考えたくない事だが、他の人間が次々人を襲うようになっているのに、自分たちだけが例外である筈がない。現にウィルはシンディに襲いかかってきたではないか。
 ハッと思い立ってデビットの腕にある傷を見た。大学にたどり着いてからそれほど長い時間が経過したわけではないのに、その傷はますます悪化し、不気味な水疱は傷口だけでなく、腕全体に広がっていた。
 シンディが自分の腕を見ていることに気づいたデビットは、さっとそれを身体の影に隠した。そしてお互い何も言わず黙り込む。
 先に口を開いたのはデビットだった。
「…少し前から意識が途切れるようになった」
「え?」
「もうすぐ奴らと同じように、お前やジョージを襲うようになる…俺には分かる」
「何言ってるの、もう少しでヘリが迎えに来てくれるのよ!?そんなこと…そんなこと言うなんて、あなたらしくない」
「俺らしい、か…」
 らしさなんてこれっぽっちも無い、と笑ってデビットは銃をシンディに向かって投げた。
「な、何よ」
「銃の腕前、上達したな」
「…あ、あなたを見返してやりたかったのよ!散々人を馬鹿にして…」
 悔しかったんだから、と言うと、馬鹿な女だと言う。口の悪さは相変わらずだが、時々その言葉が途切れるのが今までと違っていた。舌が回らなくなってきた、と悔しそうに地面を拳で叩く。
「その銃で、俺を撃て…」
 デビットの言葉にシンディは驚かなかった。銃を投げられた時からそう言われるような気がしていたのだ。ただそれを信じたくなくて、銃を取らずにジッと見つめる。どうしてこの人はこんな残酷な事を私にやらせるのだろうと涙が出てきた。
「嫌よ、あなたを殺すなんて嫌!」
 傷の治療もさせてくれなかった癖に、と今まで抱えていた思いをぶちまけていた。
「散々人を馬鹿にして、最後は殺してくれだなんて都合が良すぎるわ、あなたが嫌いな煩い女に殺してもらうだなんて…自分で死ねばいいじゃない!映画みたいにこめかみに銃を当てて…」
「シンディ」
 初めて名前を呼ばれた気がした。その響きが想像以上に優しくて、思わず言葉が止まる。
「Please(お願いだ)」
「そんなの…卑怯よ…」
 どうして私なの、という問いにデビットは答えなかった。ジッとシンディを見て、無言の内に早く撃ってくれと訴えている。どうあっても、デビットはここで死ぬつもりのようだった。
 仕方なく、シンディは震える手でデビットが投げて寄越した銃を拾い上げた。今まで使っていたハンドガンよりも重いそれは、一発で頭を砕くくらい容易いだろう。
「…甘い女だと言った事は訂正しない」
「最後まで憎まれ口ばかりなのね」
 いつの間にか両目から流れ出た涙がシンディの視界を遮っていた。それを手の甲で拭っても、すぐまた溢れてきてしまう。銃を構える動作とは反対に、心の中は引き金を引きたくない思いで一杯になっていた。
 それでも、デビットを殺そうと思ったのは、彼にウィルのように人を襲わせたくなかったからだ。今殺せばまだ『人として』デビットは死ねる。しかしシンディが殺さなければ、いずれあの大勢の人々と合流し、新鮮な血肉を求めて彷徨うようになるのだ。それは悲しすぎる。
「また、会えるかしら」
 努めて明るくシンディは言った。
「俺はごめんだ」
「最後くらい、お世辞を言ったっていいじゃない」
「俺は俺を…貫き通す。最後までな」
 シンディはデビットの眉間に照準を合わせた。セーフティーを解除し、引き金に指をかける。今まで撃った銃よりも、引き金が重く感じたのはデビットの銃のせいだけではない。恐らく、デビットを殺したくないという思いが引き金を何倍も重くしていたのだろう。
 目を閉じたい思いをぐっと堪えて、シンディは引き金を引いた。重い衝撃で銃を持った腕が跳ね上がる。そしてシンディが撃った弾はデビットの眉間に直撃し、その脳を破壊した。
 最後に「サンキュー」と聞こえたのは空耳だったのだろうか。
「ぁああ…デビット、デビットーーー!!」
 手にした銃を落とし、その身体にしがみつく。まだ暖かさを残す身体にシンディの涙が伝っていくつもの筋が出来ていた。

 それから暫くはずっと泣き続けていた。最初は暖かかったデビットの身体も硬く冷たくなり、シンディの涙も枯れ果てていた。
 それでもその場を動く気になれず、ただぼんやりとデビットの身体と共に横たわっていた。
 その時、パラパラと風邪を切り裂くプロペラ音が辺りに響いてきた。続いて辺りが雲がかかったように暗くなり、シンディが顔を上げると、丁度ヘリが頭上を横切っていくところだった。
 あれ程待ちわびたヘリがようやくやってきたのだ。シンディは立ち上がり、ヘリを追いかける。
「シンディ!!」
 ジョージと別れた広場まで行くと、既に戻ってきていたらしいジョージがそこにいた。
「何処にいたんだい?探していたんだ」
「ジョージ…」
「これが最後のヘリらしい。ラクーンシティは爆破されるんだ。急いで」
「爆破!?」
「そう、政府はこの街を全て葬り去るつもりだ。もうすぐミサイルが飛んでくると」
 ジョージの言っている事が理解できなかった。ラクーンシティが爆破される?突然の展開に頭がついていかない。そんなシンディにジョージは注射器を見せた。その注射器には薄く紫がかった液体が注入されている。
「これは何?」
「デイライト…この惨状の原因となったウィルスを死滅させる薬だ。これを作っていて遅くなった…そう言えば、デビットは何処に?彼の分もあるのだが」
 腕を、と言われるがままに差し出すと、ジョージは手際よくそれをシンディに打った。針が皮膚を指す痛みに顔をしかめながら耐えていると、一瞬ドクン、と心臓が波打った後は、今まで感じていた気怠さなどが一瞬の内に消し飛んだ。
「デビットは…もう来ないわ」
 その言葉の意図を察し、ジョージはひと言、そうか、とだけ答えた。
「おい、早く乗ってくれ!」
「さ、シンディ、行こう。私たちは助かるんだ」
 肩に手を置かれ、一歩を踏み出す。すると先程まで一緒にいたデビットの事を思い出し、足がすくんだ。
「…シンディ?」
「私、行けないわ」
「早く乗れ!もう間に合わないぞ」
「シンディ、何を言ってるんだ。助かるんだぞ!?」
「駄目よジョージ、私は、私は…デビットを置いて行けないわ」
 肩に置かれたジョージの手を振り払うと、シンディは一歩下がった。そして、首を横に振り、行ってと言う。
「シンディ!私は、私は君のことが…!」
「私も、あなたのことが好きだったわ、ジョージ。一緒に脱出したかった…でも、デビットを置いて行けないのよ!」
 分かって、と言うシンディの目には再び涙がにじんでいた。
「あなただけでも生き延びて、ジョージ」
「早く!もう出すぞ!」
 ヘリに乗り込んでいた消防隊員らしい人が、ジョージを引きずるようにヘリの中へ連れて行く。それを見ながら、シンディはこれで良かったのよ、と心の中で思った。
「シンディ!シンディーーーー!!」
「さようなら、ジョージ。元気で」
 ふわっと浮き上がったヘリは、そのまま高く上昇すると、山の向こうへ向かって飛んでいった。その姿を見送りながら、シンディはもう一度さようなら、と言った。
 ヘリが見えなくなると、再び静寂が辺りを包んだ。シンディはデビットのいる所へ移動すると、その隣に座り込む。
 夜明けが近いのだろう。山の向こう側が微かに明るくなっているのが見える。そう、この悪夢ももうすぐ終わるのだ。
 シンディは隣に横たわるデビットの手をそっと包んだ。冷たい手。けれど大きなその手は一体どれだけの命を終わらせてきたのだろう。シンディが手に掛けた人々よりもずっと多い人たちを悪夢から解放してきたはずだ。
「本当に、あなた馬鹿だわ」
 怪我をしていても触れることを許してくれなかった手。今ようやく触れることが出来た。
 夜が明けた空はゆっくりと漆黒からオレンジへと変わっていく。その向こうから流れ星のような光が飛んでくるのが見えて、シンディは思わず祈った。
 次にデビットと会えたら、その時はお互い素直になれますように、と。