終焉



 身体中引き裂かれるような痛みを堪えながら、ジョージは身体を動かし続けた。
 ようやく安全な場所にたどり着くと壁に身体を預け、冷たいコンクリートの温度を背中で感じながら溜息を一つ漏らす。その間にも徐々に体内から血液が流出していく。
 人間は血液の何パーセントを失うと死ぬのだったかな、と大学の講義で話す教授の姿が脳裏に浮かんでは消えた。
 患部を抑える手は赤黒い血で濡れて鈍い光を放っているように見えた。時々ぐらりと視界が動くのは恐らく最後が近いからだろう。
 こんな所で死にたくないと思った所で、もはやどうしようもないということが医者のジョージにはよく分かっていた。生憎ここには手当をするための道具も、輸血するための血液も、清潔な処置室もありはしない。いくら技術を持っていたとしても、道具がなければ何も出来ないのは滑稽だと思う。
 ただ、あと少しというところで死を待つのも辛い。早くこの苦しみから逃れたいという思いと、少しでも長く生きながらえたいという思いがせめぎ合っていた。

 ポケットに残った数錠の止血剤を飲み込みながらジョージは待っていた。
 今ジョージがいる場所は、地下へ続く通路が存在する。ピーターの書類には地下に保管されている薬剤ベースが必要だと書かれていたから、必ずそれを取りにここに誰かが来るはずだ。それがジムだと良いと思いながら、途切れ途切れになる意識を奮い立たせて待ち続けた。
 通常ならば苦にならない数分が、死を前にした今ではとても長く感じられる。こうしている間にも自分の生命は事切れてしまうのではないか、その恐怖と戦いながらジョージは待った。
 そうしてポケットの中に残った錠剤が無くなってから暫くして、誰かがエレベーターから現れる音を聞いた。途端ジョージの口からは安堵の溜息が漏れた。後はその誰かが自分を見つけてくれるだけで良い。もうすぐ自分の役割も終わる。
 ジョージの手にしっかりと握りしめられているのは、ジョージが地下から採ってきた薬剤ベースだ。あの時油断して大きなカエルのような化け物に飲み込まれさえしなければ、こんな事にはならなかった。しかし、それを今悔やんでも仕方がない。薬剤ベースは手に入れることが出来たのだし、後は排気筒に巣くう蜂の蜜と、あの化け物の背中に刺さった血液を手に入れるだけで、皆助かる。
 足音を聞くだけで、その主が怯えているのが分かる。ゆっくり、一歩ずつ進む足音で、ジョージはその足音の主を察し、そして神に感謝した。
「ジョージ…?」
 そう呼ばれて閉じていた目を薄く開くと、目の前にジムの浅黒い顔が見えた。強ばった顔を動かして出来る限り微笑んでみせると、反対にジムは今にも泣き出してしまいそうな顔になった。
「どうしたんだい?」
「どうしたんだい、って…ジョージこそこんな所で何やってるんだよ!?あまりに遅いから心配して…」
「ああ、それは済まなかった…」
 ジョージは薬剤ベースを握りしめた手をゆっくりと上に挙げ、ジムの前にかざした。
「これを取りに行っていたんだ。疲れたからここで少し休んでいたんだが」
「ははっ、バカだなジョージ……」
 ますます泣きそうな顔になりながら、ジムはそれをジョージから受け取った。ジョージがずっと握りしめていたせいか、ほのかに暖かい。が、その温もりは一瞬で、すぐに冷たい無機質な感触に変化した。
「もう後は揃ったんだ。だから行こうぜ。みんな上で待ってるよ」
「そうしたいところだが…まだ疲れが取れていないようだ。だから、先に行っていてくれないか」
「え、でも」
「いいから」
 少し強めの声でジョージは言った。それから最大限に優しい声で、
「君に会えて良かったよ、ジム」
 それが別れの挨拶だとジムには分かったのだろうか。オレもジョージに会えて良かったと言うジムの言葉を聞いて、ジョージは嬉しそうに微笑んだ。その言葉はこれから死にゆくジョージにとって何よりの手みやげだった。
「さあ、早く行くんだ」
「ジョージも後から来るんだろう?」
「……ああ」
 決してかなえることの出来ない約束をした。そしてジムの手を取り軽くキスをする。ジムは驚いた表情を浮かべていたが、何も言わず、ただ手をジョージに預けていた。
 ほんの1秒足らず唇を寄せた手から顔を起こしてジムの顔を見る。
「次に会ったときに、君に秘密にしていたことを言うよ」
「何、オレに何か隠し事してたってこと?」
「とても大きな隠し事を、ね」
「分かった。覚えておくから必ずだよ!」
 じゃあ行くよ、とジムはその場を離れた。再びエレベータに向かって歩いていくジムの姿を見ながら、ジョージは自分の目に涙が浮かんでいることに気がついた。そしてジムを乗せたエレベーターの扉は閉まり、ジョージはそれに向かって好きだよ、と呟く。
 この気持ちを持ったまま自分は死ぬんだと決めていた。そして最後に神はジョージにジムを会わせてくれた。それだけで、十分だった。死ぬことへの恐怖を完全に取り去ることは出来なかったが、自分に会えて良かったと言ってくれたジムの言葉に少し救われたような気がした。
 頭に霞が掛かっていく。意識が遠のいていくのを感じながら、ジョージは目を閉じた。
「ありがとう、ジム」