逃走
疲労は限界に達していた。
割れた鏡に映る自分は数日前より痩せこけて見える。剃られる事のない髭、整えられていない髪、浮浪者一歩手前だと無理に笑おうにも笑えなかった。
しかし、一刻も早くこの街から脱出しなければならないという強迫観念が私を急かすのだ。
ウィルスに感染した身体は待ってはくれない。意識が朦朧とする回数が増えたのも気のせいではない。けれど、わずかな可能性に掛けて私たちは先を急ぐ。決して明けない夜などないのだから。
「ジョージ」
呼ばれてふっと意識が浮上した。顔を上げると、デビッドが私を見下ろしていた。
「何だ?」
「いや…」
デビッドは少し顔を歪めて、そして私に背を向けるとどこかへ歩いて行った。一体何だったのだろう。
ふと彼が立っていた所を見ると、血溜まりが出来ていた。そこで初めて、私は彼がケガをしていた事に気が付く。慌てて立ち上がると、彼を追いかけた。
「デビッド!」
「…うるさい。傷に響く」
デビッドはそう言って私をにらみ付けたが、私は構う事無く彼の傷を探す。腹部に出来たそれは、血が流れて入るもののそれほど深い傷ではないようだ。それに少し安堵して、その場に座るよう指示した。しかし、
「俺の事は放っておけ」
「そんな事出来るか。ケガをしている人を見逃す事は出来ない」
「大した道具も持ってないんだろう」
「応急処置なら可能だ。さ、そこに座ってくれ」
再度言うと、デビッドはしぶしぶという感じでその場に座り込む。
「服を脱いで」
腹部では服を脱いでもらわねば治療出来ない。デビッドがつなぎの上半身を脱いでいる間に、私は応急処置道具を取り出した。消耗品は既に残り少なくなっている。補充する事は期待出来ないため、早々にこの悪夢から脱出したいものだ。
「少し痛いかもしれない」
「痛いのは、今さらだ…」
デビッドは諦めたように笑った。それもそうだな、と返して患部に消毒液を塗る。う、とデビッドが少しうめいたが、気にせず治療を続けた。と言っても応急処置しか出来なかったが。
「これで少しは楽になるだろう」
「ああ…」
しっかりと巻かれた包帯を確かめて、私は立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行こうか。あまり時間は残されていないようだ」
デビッドは黙って頷いた。彼も気付いているのだろう、自分を蝕んで行くウィルスの存在を。
突然、ふっと視界がぼやけた。と同時に心音が早くなる。嫌な感じだ。
息苦しくなり、思わずその場に崩れ落ちた。その気配を察したデビッドとシンディがこちらを振り向くのが見えた。そして、私の後ろにはあの忌ま忌ましい死者達の群れが迫っている。
「行け!私に構うな!大丈夫だ、先に行け!」
二人とも少し迷っていたようだったが、デビッドが叫んだ。
「シンディ、行け!」
少し躊躇したが、シンディは今武器を持っていない。自分がいても足手まといになると思ったのか、
「早く来て…きっとよ」
と言い残して走って行った。
「大丈夫か」
「行けと言っただろう…私は大丈夫だ、少しめまいがしただけだ」
「お前を置いて行ったら、治療してくれる人間が居なくなるからな」
デビッドは素っ気なく言った。けれど、それが彼なりの心遣いだということに私は気が付いていた。
「有難う…」
肩を借りて起き上がる。ゾンビの群れはすぐ近くだ。
「援護しろ」
「ああ」
弾丸の無駄遣いは出来ない。けれど、何とか食い止めなければならない。
慣れない手つきで銃を構える。普段銃弾を受けた人間を治療している私が、こんなことになるなんて。
もう少し先に緊急避難所があると聞いたため、そこへ向かう途中だった。シンディは無事着いただろうか。…いや、彼女なら大丈夫だろうと信じて、私はデビッドを見た。
その時、彼は言った。
「必ずお前を守る。絶対に死ぬな」
「え?」
次の瞬間、彼はゾンビに向かって発砲していた。私の問いは彼の耳には届かない。私も彼を援護するために発砲する。血が辺りに飛び散り、生臭い臭いを発していた。
「デビッド、こっちだ!」
まともに相手をする余裕など無い。振り切れるものなら振り切る方がいい。デビッドも素早く反応し、すぐさま私に続く。見覚えのある道だった事が幸いし、数分走った所で何とか巻く事が出来たようだった。
「はぁ、はぁ、運動不足には堪えるよ…」
「…フン」
「早くシンディに合流しないと。さ、行こう」
デビッドは頷いて私についてきた。私の記憶が正しければ、避難所はもうすぐのはずだ。
歩きながら、先ほど気になった事をデビッドに聞いてみる事にした。もしかしたら怒鳴られるかもしれないが、それも覚悟の上だ。
「なあ、デビッド。何故私を守ってくれるんだ?」
「…うるさい。黙れ」
「教えてくれないか。気になって仕方ないんだ」
あれじゃまるで愛の告白じゃないか、と言いかけて、やめた。そんな事を言ったらデビッドに殺されかねない。
…デビッドは相変わらず黙ったままだった。
「言いたくないなら、構わないがな」
こんな事でむきになっても仕方が無い。無事この街を脱出するまでは、何よりも生き残る事に力を注がねばならない。聞くのはそれからでも遅くないだろう。
「なあ、デビッド。もし二人とも無事にこの街を脱出出来たら、教えてくれないか」
先ほどの言葉の理由を。
そう言うとデビッドは、口の端だけで笑って、すたすたと先へ行ってしまった。やはり、彼の考えている事は私には分からないようだ。
ふと顔を上げると、向こうに私たちに手を振るシンディの姿が見えた。幸いケガはなさそうだった。その姿を見て、ホッと胸を撫で下ろす。そうだ、まずは脱出しなければならない。私たちに残された時間は、あとわずかなのだから。