Mother's day



 小さな茶碗に注がれた茶を口に含み、うーんと神妙な面持ちでじっと商品説明が書かれた札を睨む。
「こちらは今年の新茶で……お湯を注いだときの出が違うんです」
 店員は真剣に悩んでいる克哉に付き合って次々と新しい茶葉を取り出し、その場で簡単に淹れては飲ませてくれる。御堂が見ている限りでは既に克哉は五種類以上の茶を飲んでいるはずだ。
「克哉、まだ決まらないのか?」
「もう少しだけ、待って下さい」
 それだけ言うと、再び商品が陳列された棚に視線を戻す。御堂は軽く溜息を吐いて、少し離れたところからその様子を見ていることにした。
 今日は土曜日で、明日は母の日だ。デパートの中はどこもかしこも母の日一色で、どんなものであっても母の日を口実にセットになっていたり、派手なラッピングが施されたりしている。そして、それらの商品を買い求める人で売り場は何処も混雑していた。
 本当ならばこんな所へ来るつもりはなかった。ゴールデンウィークの休暇を海外で過ごした二人にとって、久しぶりに日本の自宅でゆっくりできる日だったから、今日も明日も家から一歩も出ずに、克哉と二人きりで過ごすつもりだった。少なくとも、御堂はそう考えていたし、克哉も同じだと思っていた。
 ところが、金曜の夜になり、御堂が帰宅すると、克哉が言い辛そうに御堂に告げた。
「明日は買い物に行きたいんですが……」
「何だ、日用品は事足りているし、食事はいつものケータリングを」
「いえ、その、贈り物を買いたくて」
 今日は仕事が終わったのがデパートも閉まるような時間だったので、買いに行けなかったのだと克哉は言う。それで、今日は克哉がメインで担当している案件の打ち合わせが長引いて、終わったのが午後八時少し前だった事を思いだした。御堂ほどではないが、遅くまで残っていた事は知っている。
 しかし、贈り物、とは心中穏やかではいられない。御堂に送るものならば隠すか、もしくはそれを前提に一緒に買い物に行こうと言うはずだ。
「……贈り物?誰に」
「……笑いませんか?」
「相手と理由によっては、としか言えないな」
「……母です。明後日の日曜日は、母の日なので」
 ますます言い辛そうに告げた克哉の言葉は、御堂には意外だった。克哉はあまり御堂に家族の話をしなかったから、そういった行事にも興味がないものだと思いこんでいたのだ。
「そうか。で、贈り物は決まっているのか?」
「いえ、まだ。明日デパートへ行ってから決めようかと」
「それならば、私が行きつけのショップを紹介しよう。良いワインがあればいいのだが。それとも、花の方がいいか?わざわざ人混みの中へ買いに行かなくても、ここまで持って来るように言っても良い」
 御堂にしてみれば気を利かせたつもりだったのだが、克哉は慌てて手を横に振り、そんな事まで御堂さんにしてもらうわけには、とその申し出を断った。
「それに、プレゼントは自分で選びたいんです」
 そう言われてしまえばもう御堂に口を出す理由は無い。が、せっかくの休日、朝から出かけるのは少々勿体ない気がする。それに、今週末は克哉とゆっくり過ごすために仕事を全て片付けてきたから、克哉がデパートに買い物に行ってしまえば、どうしてもその間手持ち無沙汰になることは目に見えていた。
「分かった。その代わり私も行くぞ」
 家で一人手持ち無沙汰になっているよりも、克哉と一緒に行った方が良いと判断した結果だった。が、克哉にはその申し出が意外だったらしい。
「ええっ、御堂さんもですか?」
「私が行くと何か不都合があるのか?」
「いえ、でも多分混んでいますし、その、オレの買い物にわざわざ御堂さんまで来てもらうのは、申し訳ないような気がして」
「それは違うぞ克哉。仕方なく行くのではない、私が行きたいから行くんだ。それに、君がどのようなものを選ぶのか、興味があるからな」
 完璧な口実に、今度は克哉が黙った。克哉にも御堂の同行を拒否する理由がないからだ。
「分かりました。じゃあ明日、お願いします」
 ……という経緯で、今に至る。
 克哉は五階の婦人服売り場から順に各階を見て回り、三階に置かれていたハンカチのセットと、一階の花屋の花束に心を動かされた様子ではあったが、結局購入までには至らなかった。そして、最後の砦である食品売り場へとたどり着いた。
 食品売り場は洋菓子、和菓子、紅茶、日本茶、酒と、贈り物には相応しい品々が一通り揃っている。その中でも克哉が足を止めたのは、とある日本茶のブースだった。
 ちらりと腕時計に視線を向ける。普段の仕事ぶりを見ていても、克哉は決断力がある方だと思う。なのに、今日に限ってはもう三十分も迷っているのだから、溜息の一つも吐きたくなっても文句は言われないだろう。
「克哉、決まったか?」
 もう一度御堂が声を掛けると、克哉は意を決したかのように顔を上げ、持っていた茶碗を店員に返すと、これを下さいととある茶を指した。それは今年の新茶で、少々他の茶に比べて値が張るものだった。
 店員がプレゼント用のラッピングをしている間、御堂は克哉に近づいて、
「決まって良かったな」
「はい。今日宅配便で送れば明日には届くので」
 そう言われて、御堂は克哉の実家が都内から日帰りも不可能ではない場所にあることを思いだした。
「自分で届けなくても良かったのか?」
 自分で言っておきながら、少々意地の悪い質問だったか、と思った。が、克哉は特に気にした様子はなく、いいんです、とだけ返事をした。
 程なくしてラッピングされた箱が入った紙袋を持って店員がやってきた。代金を支払う代わりに商品を受け取り、二人は昼を過ぎて更に混雑し始めた食品売り場から地下の駐車場へと移動するため、エレベーターの前に立った。
 チン、と小さな音と共にエレベーターの扉が開く。混雑しているはずが珍しく、中には誰も乗っていなかった。まだ帰るような時間帯ではないということだろうか。
 エレベーターに乗り込み、最下階のボタンを押す。図らずして二人きりになった所で、御堂は先ほどから疑問に思っていたことを克哉に訊いた。
「何をあんなに迷っていたんだ?」
「え?」
「お茶だ。それを買うまでに君が何回試飲したか忘れたのか?」
 克哉が手にした紙袋を見ながらそう言うと、見ていたんですか、と言って克哉は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「店員さんが勧めてくれたものを買えば間違いないことは分かっていましたけど、でも、自分が飲んで一番美味しいと思うものを買いたかったので」
「それで、買ったそれが一番美味しかったということか」
「ええ。さすがに値段に比例していました」
 正直最初の方は分からなかったんですけど、と克哉は話を続ける。
「最後にあのお茶を飲んで、今まで飲んだものと明らかに違っていて……口当たりが柔らかい、というか、甘いというか……上手く言葉に出来ないんですけど、何か違っていたんです」
「そうか。それだけ君が真剣に選んだものだ。きっと、喜んでくれるだろう」
「はい」
 御堂に褒められた事が嬉しいのか、それとも母親の喜ぶ顔を思い浮かべてかは分からないが、克哉は満面の笑みを浮かべて頷いた。その顔を見られただけでも、一緒に買い物に来た価値はあるな、と御堂は思った。
 僅かな衝撃と共に、エレベーターが停止した。今から買い物に向かう人たちと入れ違いにひやりとしたコンクリートの空間に降り立つ。車を駐めた区画まで移動しながら、
「さて、早くそれを送ってしまおう。店舗では発送してもらえなかったのだろう?」
「もう明日到着分は無理だと言われてしまって。でも普通の宅配便なら明日届きますから」
「まずは宅配便の営業所へ行くか。その後は私に付き合ってもらうぞ」
「はい。あれ、御堂さんもプレゼントを?」
「いや、我が家にはそのような習慣はないからな。それに、家族を大切にする君の気持ちは素晴らしいと思うが、私としては少々面白くない」
 車に乗り込み、それぞれがシートベルトを締めながら、御堂が言わんとしていることがまだ分かっていないらしい克哉の耳元に顔を寄せた。
「君が私以外の人の事を考えている所を見ているのは面白くない、と言ってるんだ」
「み、御堂さんっ」
 誰が見ているか分からないのに、と慌てて身体を引こうとする克哉の肩を掴み、より顔を近づけると、克哉の耳朶を唇で挟んだ。びくり、と肩が震えるのが可笑しい。
 しかしこれ以上すると克哉も自分も我慢できなくなる事は目に見えている。だから唇を離した。
「車を出すぞ」
 何か言いたそうにしている克哉に軽く笑って見せて、御堂はエンジンを掛けるとアクセルを踏みこんだ。
 まだ二人の休日は始まったばかりだ。