ひかるみち
カードリーダーに社員証をかざして、会社を出た。定時から三時間ほど経過しており、凝った肩をぐるぐると回しながら駅へと向かう。
MGNから駅までの距離はそれほど遠くない。それにすぐ近くに入り口がある地下道を通れば寒さを感じながら歩く距離も最低限で済む。しかし克哉は、敢えて外を通って駅へと向かっていた。
理由はただ一つ。この時期は駅前の通りがライトアップされる事を知っているからだ。
十二月に入り、クリスマスまでの一月に満たない期間、普段は何の変哲もない街路樹に電飾が施され、道路脇に飾られているオブジェもライトアップされる。また、通りに面した企業のビルの壁にも雪の結晶や幾何学模様の光がくるくると点滅しながら踊っている光景は、暗くなってから夜九時までの限られた時間だけ見られるものだった。
ライトアップされるようになったのはここ数年の話だそうだが、年々見に来る人は増えているという。今日も会社帰りの人に加えて、カップルらしい二人の姿もちらほらと見えた。
白いコートに身を包んだ女性が、隣の男性の腕を取り、寄りかかるようにして身体を密着させている。そんな様子を後ろから見ていると、いつの間にか克哉の口から溜息が漏れていた。
イルミネーションを見た感想をその場で誰かと交換することが出来る事が羨ましかった。めまぐるしく変わる光の様子に感動しながら、綺麗だと言い合う二人の顔がほのかに照らされて、とても楽しそうに見える。無い物ねだりだと分かっていても、羨ましくないと言えば嘘になる。
あんなに密着しなくても良い。せめて一緒にこの光景を見られたら……そう思って何度か御堂にこのことを言おうかと考えたこともある。が、御堂は普段車で通勤しているから、駅前を通ることはないし、もし二人で見に来たとしても、車を取りに戻る必要がある。それに、MGNに近いこの場所では、二人で一緒にいるところを他の社員に見られてしまう可能性が非常に高い事を考えると、どうにも言い出すことが出来なかった。
今年も結局、一人で会社帰りに見るだけだなあ、と克哉はもう一つ溜息を吐き出した。
数日後、総務課より渡された書類を運んでいると、声を掛けられた。
「佐伯くん」
呼び止められて振り向くと、少し離れた場所に御堂が立っていた。
「何かご用でしょうか?」
手にした書類を抱え直し、御堂の方へ近づくと、何か私に言いたいことがあるんじゃないのか、と問われた。突然の事にその質問が一体何を意味しているのか分からず、首を傾げる。
「いえ、特に今は……」
「そうか。呼び止めて済まなかった」
それだけだと言って、御堂は克哉の横をすり抜けて先に歩いて行ってしまった。その背中を見送りながら、一体何だったのかと克哉はここ最近の事を思い返してみるが、特に思い当たることも無い。
そんなに物言いたげな顔をしていただろうかと考えながらオフィスに戻ると、藤田が近づいてくる。
「佐伯さん、御堂部長に何か言われましたか?」
「え?別に何も」
「すいません、もしかしたら言ったらまずいこと部長に言ったかもしれなくて……」
しきりにすみません、と謝る藤田を宥め、一体何があったのかと尋ねる。
「この前、佐伯さんと話してたじゃないですか、駅前のライトアップのこと」
「ああ、うん、そんな話もしたね」
持っていた書類をテーブルの上に置くと、椅子を引き寄せて座る。藤田も克哉に合わせて近くにあった椅子を引き寄せると、顔を少し近づけて、話を続けた。
「佐伯さんが、一人でライトアップされたところを見るのも良いけど、やっぱり誰かと一緒に行く方が楽しいって言ってたって事を、同期と話していたらたまたま御堂部長が通りかかって」
真剣な顔で訴えてくる藤田に、克哉はなんだそんなこと、と言って笑う。
「御堂部長には聞こえていなかったんじゃないかなあ?」
「いや、それが……こっちに近づいてくると、佐伯さんがそう言っていたのか、って問いただされて。慌てて頷くと、凄い顔をして何処かへ行ってしまったんです。口調は優しかったんですけど何だか怖くて、もしかして佐伯さんが怒られるような事言っちゃったかなあ、って思っていた所で」
それであの質問か、と克哉は先ほどの御堂との会話の謎が解けた気がした。そして、案外御堂も可愛い事をするのだと思った途端、可笑しくて思わず吹き出した。
真剣に話をしている藤田にとって、突然克哉が笑い出したことは御堂以上に理解できない事だっただろう。え、と言ったきり、ぽかんとした顔をして克哉を見て、微妙な表情を浮かべていた。
「ご、ごめん。いや、大丈夫だよ。藤田くんが心配しなくても……怒られたりしていないから」
「そうですか?それなら良かったですけど……」
「本当に大丈夫だから。ありがとう」
藤田はまだ納得していないようだったが、克哉が話題を切り上げたのを察して、それ以上何も言わなかった。克哉は書類の確認をしながら、今日は帰りに部長室へ寄ってみようか、と考えていた。
就業時間もとっくに過ぎたフロアは人気も少なく静かだ。
「失礼します」
ドアを軽く二度叩いて、向こうの様子を伺う。入れ、と御堂の声が聞こえたことを確認し、克哉はドアノブを回した。
「こんな時間に。何か用事でもあるのか?」
克哉の方を見る事無く、御堂はそう言った。少し怒っているのかもしれない。克哉はそのまま机の前に近づくと、まだお帰りにならないのですか、と尋ねた。
「……どうしてそんなことを聞く?」
「一緒に、帰りたいなと思ったので」
「私と?……どういう風の吹き回しだ」
目だけで克哉の方を見た御堂は、まだキーボードを叩いている。
「オレが誘っては、駄目でしたか?」
「そんなことはない。が、珍しいと思っただけだ」
「一緒に行きたい場所があるんです。御堂さんと」
御堂が僅かに顔を動かした。それを見て、やはり昼間の質問は藤田の話を聞いてのことだったのだと納得する。
「今からか」
「……駄目ですか?」
「いや……分かった。支度をするから少し待っていなさい」
がたんと音を立てて椅子から立ち上がると、御堂はハンガーに掛けたジャケットを羽織り、パソコンの電源を落としながら帰宅する準備を始めた。その間克哉は入り口の扉近くで御堂を待つ。
「所で、その場所は車で必要がある場所か?」
「いいえ、歩いてすぐの所ですから」
それなら車は置いていこうと御堂は言った。それを聞いて、最初からこうすれば良かったのだと克哉は思う。車のことは本当は自分を納得させるための言い訳に過ぎなかった。その気になれば、車を取りに戻ることくらい苦にならないほどの距離だというのに。
「克哉。行くぞ」
御堂の準備が終わったことを確認し、克哉は頷いて先に部屋から出た。
エレベーターで駐車場のある地下ではなく、入り口のある一階へ向かう。二人でカードリーダーにカードをかざして外に出た。途端、冷たい風が二人の間を通り抜けていく。
「寒いな」
「すみません、別の日にした方が良かったでしょうか……」
「構わないと言ったはずだ、克哉。君は少々遠慮しすぎる所があるからな」
人々が吸い込まれていく地下道への入り口を通りすぎ、交差点を渡ればそこから先がずライトアップがされている区画になる。駅前までの僅かな距離ではあったが、綺麗な事には代わりはない。
「あれが、その場所か?」
「ええ……藤田くんから、聞いたんでしょう?」
「何を」
「昼間の質問、オレが何か言いたいことがあるんじゃないかって……その質問、藤田くんから、あ」
克哉が言葉を言い切る前に、信号が変わり、一気に人が歩き出す。その流れに押し出されるように、御堂と克哉も横断歩道を渡っていた。近づいてくるイルミネーションを見て、思わず溜息を漏らす。
「……綺麗なものだ」
「え?」
「何でもない」
通りはそれなりに人がいた。混雑して歩きにくい程ではないが、全く人影が無い訳でもない、程よい人出。それも殆どが会社帰りのサラリーマンだ。これならば御堂と克哉が並んで歩いていても目立つことはないだろうと、少し安堵した。
シャンパンゴールドのライトが点滅を繰り返している。木によって光るタイミングが違うのか、入れ替わり立ち替わり光る木に、視線を奪われて足を止めた。
大きなオーナメントが光に合わせて輝く。並んで歩きながら、右を見たり左を見たりしていると、向こう側に見えるビルの明かりが一斉に消えた。
「御堂さん、あれ」
違う方向を見ていた御堂の袖を引き、照明を落としたビルの方を指さした。今日もビルの壁をスクリーンにして様々な模様が現れては消えていく。しかも、数日前に見たものとまた違っているようだ。大きな模様が光って他の模様と絡まり、違う模様に変わっていく度に、ギャラリーからは溜息のような歓声が漏れていた。
克哉はもちろん、御堂までもいつしかそれに釘付けになっていた。僅か十分間ほどのショーはあっという間に終わり、壁は再び静けさを取り戻す。ビルの前に立っていた人々は皆思い思いの場所へ散っていった。
「綺麗だったな。たまには、悪くない」
「!は、はい……凄く、綺麗でした」
そうだ、こんな会話がしたかったのだと、克哉は内心感動していた。一人で自由に見るのも楽しいが、やはり誰かとその場の感動を共有できるのは、大きい。
そのビルの前を通り過ぎ、駅の前まで辿り着くと、御堂は克哉の腕を取って指を絡ませた。突然の事にどうして良いか分からず、おろおろと辺りを見る。いくら辺りが暗いとはいえ、ここは駅前で、しかもいつMGNの社員が通るか分からないというのに。
「な、何を」
御堂は握った手を躊躇うことなく自分のコートのポケットに突っ込んだ。風に晒されて冷えた克哉の手が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
「君は周りを気にしすぎだ。それが良いところでもあるが……もっと堂々としてもいいはずだ」
「御堂、さん」
御堂のポケットに手を入れたまま、ゆっくりと来た道を戻る。途中、横道を見つけた御堂は、こっちだと言って手を引き、路地の奥に進んでいく。克哉はそれに引きずられるように着いていくしかなかった。
華やかな表通りから一歩逸れれば、光は殆ど届かず辺りは濃い闇に包まれている。目が慣れるまでは顔の判別もままならない場所で、克哉の手はようやく解放された。代わりに両手の手首を掴まれ、ぐっと御堂の身体が迫る。抵抗する間もなく唇を重ねられ、克哉の身体から力が奪われていく。
こんな所で、と思いながらも、誰かに見られたらという不安が興奮を煽る。特に路地の出口は克哉の背中側にあるから、後ろから誰かが近づいてきたとしても気づくことが出来ない。
それでも、身体が熱くなる。この先が欲しくてたまらない。
「御堂、さん」
「克哉」
見つめ合い、視線を交わしてもう一度キスをすると、ようやく掴まれた手が自由になった。理性が欲望を押しとどめてくれる。咄嗟に流されそうになった自分が恥ずかしくて御堂をまともに見られず、視線を外すと、御堂が口を開いた。
「もっと素直になれ、克哉」
まるで、全てを見透かされていたかのような言葉に心臓が跳ねた。
「オレは……」
「欲しい物は欲しいと言えばいい。行きたい場所があればそう言えばいい。仕事で見せるこだわりや頑固さを、プライベートで見せたって構わない。そんなことで君から離れるほど、私の懐は狭くないつもりだ」
「御堂さん」
「それが甘えるということだと思わないか?私は君を甘やかしたいと思っているのに、君はどんどん私から遠ざかっていく。……そうだな、最初の希望だったイルミネーションは既に見た。君はこれからどうしたい?私に何を望んでいる?」
言ってみろ、と促されて、克哉は唇を噛みしめた。
「……っ、御堂さん、御堂さんが、欲しいです……」
絞り出すようにそう言うと、御堂が微かに嗤った気がした。
「いいだろう。だが続きは戻ってからだ。来い、克哉」
御堂から差し伸べられた手を取り、それをしっかりと握りしめる。もう周りのことなど気にしている余裕は無かった。一度欲望に負けてしまえば、後は目先の物しか見えなくなる。
「御堂さん」
掴まれた腕を解いて反対に御堂の腕に絡ませた。身体をぴたりとくっつけて、寄り添うように。端から見れば背の高い二人がこうして歩いているのはさぞかし目立っただろうが、もはや気にならなかった。その気になれば言い訳などいくらでも考えられる。
「御堂さん、オレ、御堂さんのことが好きです」
「何を今更……そんなこと、ずっと前から知っている」
「でも、言いたかったんです……早く帰りましょう」
御堂の顔が、点滅する光に照らし出される。その頬が僅かに赤かったのは、寒さの所為だったのかもしれないし、他に理由があるのかもしれない。どちらにせよ、今日見たイルミネーションが、暫くの間二人の心に留まることは確実だった。
2008/12/12 up