使用期限



 喉がおかしい。
 ずっと乾いているような、何かが詰まっているような。それでいて唾を飲み込んでもその違和感は払拭されない。荒れているのだと思ったところで、思い当たる節は無かった。
 薬箱にのど飴と、うがい薬が入っていたはずだと思い出した克哉は、近頃めっきりお世話になることが少なくなったそれを棚から取り出すと、蓋を開けた。薬独特の匂いが鼻を掠める。
 実家を出るときに持たせてもらったその箱は、様々な種類の薬が行儀良く収まっていた。
「えーっと……」
 適当に目星を付けた箱を引っ張り出した克哉は、中ののど飴を一つ取り出すと口に放り込んだ。しかし、うがい薬は見つからない。念のため洗面所も確認したが、やはり無かった。あると思っていたのだが、いつの間にか使い切ったのだろうか。
 口の中でころころとのど飴を転がしながら、買いに行くかどうか迷った。が、既に時間も遅く、今から外出するのは少々億劫だったし、それにのど飴を舐めているのだから、明日になればこの違和感は取れているだろう。そうなることを思えば、わざわざ今からうがい薬を買いに行くのは、やめた。
 人というものは往々にして物事を楽観的に考える傾向にある。このときの判断がまさにそうだったのだが、それを思い知るのは、大抵それが悪化したときなのだということを克哉は覚えていなかった。


 朝目覚めて、食事を取って、歯磨きをする。ここまでは良かった。
 が、突然鳴り出した携帯電話を手に取り、それが御堂からの電話だと気づいた克哉が通話ボタンを押した直後、自分に起きた事件が発覚することになった。
「もしもし」
 一瞬、誰が話しているのか分からなかった。
 いつも通りに話したつもりが、口から飛び出したのは普段とは全く異なる掠れた声。慌てて咳払いをして、もう一度もしもし、と言ってみたが声は全く変わらない。
 電話の向こうで御堂が訝しげな表情をしているのが手に取るように分かる。
「……この携帯電話は、佐伯くんのものだと思ったが?」
 いつもの呼び方ではない、「佐伯くん」という会社での呼び方に、御堂は自分の携帯を誰か他の人が持っていると思っているようだった。
「はい、オレです」
「冗談はよせ。佐伯くんはそんな声ではない」
「御堂さん、オレです。佐伯克哉です」
 自分が聞いている声と、電話の向こうに届いている声はまた違うのだろうが、御堂が克哉の声だと認識しない程違っているという声は、一体どんな風に御堂に聞こえているのかと思うと、克哉は怖くなった。
「……本当に、君なのか、克哉」
 御堂の声色からは、まだ疑いの色が滲んでいる。が、少し信じるつもりになったようで、こちらの話を聞いてくれそうだという気配を察した克哉は、御堂に必死で訴えた。
「はい。朝起きたら、こんな事に……」
 暫く電話の向こうで黙っていた御堂だったが、今から行くから少し待っていなさい、と言い残して電話は切れた。時計を見れば、そろそろ出社しなければならない時間だ。しかし御堂がこちらに向かっている事を考えると、下手に動かない方がよい。そう思った克哉は、昨日薬箱から取り出したのど飴をもう一つ口の中に放り込んだ。
 御堂が克哉の部屋にやって来るまでに、さほど時間は掛からなかった。鳴り響いたインターフォンのチャイムを合図にドアの鍵を開けると、息を切らせた御堂がそこにいた。
「克哉」
「はい」
 一言、返事をしただけだというのに、御堂の顔が見る間に青ざめる。え、と思った次の瞬間、御堂に手を掴まれた。
「一体何を食べたらこうなるんだ克哉!」
「オレ、別になにも……」
「昨日までは普通の声だったはずだ。それが一晩でこうも悪化するものか。薬は?無いのか」
「うがい薬はありませんが、のど飴があったので、昨日からそれを……」
「どれだ」
 あまりの剣幕に気圧されるようにして克哉は御堂を部屋に上げると、まだ口の中に残っているのど飴の箱を掴んで御堂に見せた。喉の痛みにはこれ、と言うほどよく見る、中央に穴の開いたラムネのようなタイプだ。
 克哉から箱を受け取った御堂は、しげしげと興味深げにそれを眺めていたが、ある一点で視線が止まった。そして、
「克哉。薬にも使用期限があることを知っているか?」
「え、使用期限……?」
 克哉の反応を見た御堂は、知らなかったかと肩を落とした。そして、手にしたパッケージを克哉の目の前に近づけると、隅の方を指さして、
「ここに書いてあるだろう」
 ぐっと顔を近づけて見れば、確かに「使用期限」の文字。そして克哉が昨日から舐めていたそののど飴は、とっくに期限が切れていた。
「全く、君は……」
「今まで、あまり気にしたことがありませんでした。それに、使ってもいないのに捨てるのって、何だか勿体なくて」
 食べるために買う食品と違い、薬はいざというときの保険に近い。だから、使わない事の方が多いのだが、パッケージすら開けていない薬を捨ててしまうのは良心が痛んでしまう。
 御堂は平気なのだろうか、と克哉は思ったが、きっとそんなことを聞けば一笑に付されると口にはしなかった。
「これからは気をつけるんだな。とにかく、その声は何とかしなければならない。医者には行ったのか」
「いえ、こんなに酷くなったのは今日からなのでまだ行っていません」
 最早少し話すだけでも、喉の違和感が邪魔をするようになっていた。しきりに喉を気にする克哉を見た御堂は、取りあえず医者に行くべきだと提案した。が、克哉は首を横に振って御堂の提案を受け入れようとしない。
「今日は大切なプレゼンがあるのは、御堂さんも知っているでしょう?」
「だが君はその声でプレゼンをするつもりか?掠れて、満足に声も出せない有様だというのに?」
「それは……」
「今日のプレゼンは大切とはいえ、所詮社内のものだ。本番はその後、顧客へのプレゼンだろう?今回は誰かに任せ、君は早くその喉を治した方がいい」
 御堂の言うことも分かる。分かるが、この一ヶ月、今日のためにずっと準備をしてきたのだ。それを、喉の調子が悪いくらいで諦めることは、克哉には出来なかった。
「御堂さん……でも」
「克哉」
 窘めるように、少し強く御堂が名前を呼ぶ。それで、仕方なく克哉も折れた。ここで延々と言い争っている方が喉にも悪いし、何より時間の無駄遣いだ。
「……分かりました」
 渋々ながら了承の返事を返すと、御堂はそれでいい、と頷いた。
 時々、御堂は自分を甘やかしすぎだと思うことがある。喉ごときで大げさだと思うし、身体は熱があるわけでも、怠いわけでもないのだから仕事は出来る。が、御堂はそれを許さないのは、自分の事を思ってくれているからだと分かっているのだが。
「勤務の処理は私がしておく。もう出る準備はしているのか?病院まで送っていこう」
「え、そんな、歩いていけます」
「送らせてくれ。そうしなければ、君は何だかんだと理由を付けて病院へ行かないだろうからな」
 少しだけ、そう考えていたことを見透かされて克哉は動揺した。御堂は少しだけ笑うと、早く出るぞ、と克哉の手を引いた。


 結果的に喉が荒れているというだけで、風邪でもなんでもないという診断だったのだが、病院が異様に混んでいたこともあり、結果的に克哉はその日一日は有給休暇を使うことになった。
 克哉のことが心配になったのか、普段よりもかなり早く仕事を切り上げてきた御堂は、部屋の机の上に新しく処方されたのど飴と、うがい薬を確認してほっと息を吐いた。
「どうだった?」
「喉の奥が荒れているということです。のど飴を舐めて、こまめにうがいをするようにと」
「そうか」
 御堂が隣に座ると、克哉はくすぐったそうに身体を捩った。そして、
「新しく処方されたのど飴、オレがもっていたものと同じものだったんですが、色が違ってました……やっぱり劣化していたんでしょうか」
「開封していないならまだしも、開封後だったのだろう?」
 それならば劣化していて本来の効果を発揮できなくても仕方がない、と御堂は言う。そういうものか、と克哉が思っていると、御堂が身体を寄せてきた。
「ちょっと、御堂さん」
「その声も聞き慣れると悪くない。その声で君がどんな風に啼くのか、試してみるか?」
「ええっ!?」
 克哉が驚いている間にも、御堂の手が太腿の上を這い回る。ぞわりとした感覚が下半身に集中する。御堂の手の動き一つだけでスイッチが入るように作り替えられた身体が怖くなることもあるが、大抵は、そのまま流されてしまう。
 まだ肝心の所に触れられてもいないのに、克哉の口からは甘い溜息が漏れる。それも普段とは違った響きで、まるで自分ではない誰かが、目の前で御堂に抱かれているのを見ているような、そんな気になってくる。だからだろうか、余計に感じてしまって仕方がない。
「あ……んっ、あ、みど、さん……」
 形ばかりの抵抗もむなしく、あっさり欲望に流された克哉は、自分であって自分でないようなその声に煽られ、翻弄されていくのだった。