その手に縋って



 二月になった。
 至る所でチョコレートのコマーシャルやポスターを見かける季節。年に一度のチョコレートの祭典だと言う人もいる。
 デパートには特設コーナーが設けられ、フロア全体に甘い匂いが漂う。大小様々な箱にきれいなラッピングを施したチョコレートがひしめく売り場は常に混雑しており、意中の人へ贈るチョコレートの他、義理チョコ、そして自分用のチョコレートを買い求める女性で溢れている。
 そんな中、克哉は一人、真剣にチョコレートを物色する女性がひしめくその会場に足を踏み入れるかどうか、迷っていた。
 会場前に立ちつくしなにやら思案している克哉を通りすがりの人々が訝しげな表情で見ている。無理もない、黒いコートに身を包んだ長身の克哉は、この場所には相容れぬ存在なのだから。そしてそれは克哉自身十分承知の上だった。
 そんな恥ずかしさを我慢するほど、チョコレート売り場の前で迷っているのは、恋人である御堂のために他ならない。今克哉がいるデパートは、都内でも有数の有名デパートだ。そして、ここにはある海外ブランドのショコラティエが出店していた。
 克哉はチョコレートが大好きという訳ではない。あれば多少は食べるが量は要らない。そして、国産のものも海外の高級チョコレートも大して変わらないと思う、平凡な舌の持ち主だ。
 しかし、恋人の御堂は違う。舌の肥えた御堂には、間違っても国産のチョコレートなど贈るわけにはいかない。
「これならきっと……御堂さん、喜んでくれるよな」
 たまたま目にした情報誌の特集コーナーに書かれていた記事。味には定評があり、世界中にファンが多いそのショコラティエがこのデパートに初出店するという内容を見たとき、これしかないと思ったのだ。
「まさかバレンタインデーにチョコレートを買うことになるなんて……」
 もらった事は過去に何度かあったが、自分でチョコレートを買ったことなどあるはずもない。
 最近では自分のためにチョコレートを買い求める男性も多いという記事を頼りにしてやって来たのだが、やはり女性ばかりである。
 よし、と鞄を握り直し、戦地に赴く勢いで一歩踏み出そうとしたその時、聞き覚えのある声が克哉の名を呼んだ。
「あれ、佐伯くん?佐伯くんでしょう?どうしたの、こんなところで」
 その声を聞いた次の瞬間には、頭の中で必死に言い訳を考えている自分がいた。間違っても本来の目的を告げるわけにはいかない。なんと言えば自然だろうと考えれば考えるほど、どれも不自然な気がしてくるから不思議だ。
 冷や汗が流れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、克哉は恐る恐る後ろを向いた。
「やっぱり佐伯くんだった」
 にこりと微笑むのは、同じMGNの企画開発部第一室所属の女子社員だった。克哉より少し年上だという話を聞いたことがある。
「こ、こんばんは」
「今日はやけに早く帰ると思ったら、こんな所に用事があったんだ?」
 彼女の微笑みが怖いと思ったのは、後にも先にも今だけだろう。そして、自分が女子社員に格好のゴシップネタを提供してしまった事に克哉が気づいたのは、彼女が発した「黙っててあげるね!」という言葉を聞いてからだった。
「いや、その、違うんです。その、欲しいチョコレートがあって……オレ、チョコ好きで、それで……」
 考えていた言い訳など一瞬で頭から吹き飛んでしまい、明らかに怪しい言い訳をしてしまう。喋れば喋るほど、墓穴を掘っているような気がしてならないのに、この口を止めることも出来ない。
「そうなんだ?お目当ては何かあるの?」
 彼女は克哉が慌てている理由を、単に自分用のチョコレートを買いに来た事を恥ずかしがっていると解釈したようだった。克哉の側に立つと、デパートの至る所で配っている、チョコレート売り場のフロアマップを広げてみせ、克哉に目当ての店を言うよう促してくる。
「今年初めて日本に来たっていう、あのショコラティエのチョコレートが……」
「そうなの?何だ、目的は私と一緒ね。……それで、入るの躊躇っていたの?」
「へ?」
「だって佐伯くん、ここからしばらく動かずに会場の奥ばかり見ていたでしょう?」
「……いつから、オレの事に気づいていました?」
「うーんと、三十分くらい前から、かな」
 その言葉を聞いて、克哉は愕然とした。まさに克哉がここにやってきて入るか入るまいか悩んでいた間中ずっと彼女に見られていたのだ。これ以上恥ずかしいことはない。
「そんなに入りにくいのなら、代わりに買ってきてあげようか?どうせ私も買うつもりだったし」
「えっ、いいんですか?」
 それは願ってもない申し出だった。それなら、と克哉は彼女に二つ返事で頷く。
「すみません、助かります」
「いいのよ。物は明日会社で渡せばいい?」
「はい、それで……」
 と言いかけて、克哉は一瞬躊躇った。会社で彼女からチョコレートを受け取った場合、あらぬ誤解を生んで克哉だけでなく彼女にも迷惑を掛けることになるのではないだろうか。
「……やっぱり、待ってます」
「時間掛かるかもしれないけど、いい?」
「ええ。買ってきてもらえるんですから、それくらい平気です」
 それなら、九時頃に駅近くの喫茶店にいくから、と彼女は言って、フロアの人混みに消えていった。その背中を見送っていた克哉だったが、すぐに見失い、それからそそくさとその場を離れた。
 指定された喫茶店への道を歩きながら、これ以上恥ずかしい思いをしなくて済んだという思いの外に、本当に頼んで良かったのかという疑問がぷかりと浮かび上がった。
 御堂に渡すプレゼントを他人に買ってきてもらうということ。自分の御堂に対する想いはそんなものだったのか、という思いが克哉の胸を過ぎる。
「……やっぱり、恥ずかしくても自分で買いに行けば良かったかな……」
 指定された喫茶店に到着すると、彼女が来たときに気づきやすいよう、窓際の席に腰掛ける。ブレンドコーヒーを注文した後は、ぼんやりと窓越しに通りを眺めた。寒い日で、皆一様に身を竦めながら歩いている。
 別に、バレンタインデーだからと言ってチョコレートを贈る理由など無かった。御堂がチョコレートを食べたいと言ったわけでもないし、そもそも二人の間にバレンタインデーの話題が上ったことすらない。
 ただ、何かしたい、その思いだけが克哉を動かし、デパートにまで足を運ばせた。恐らく御堂はバレンタインデー当日に多くのチョコレートをもらうだろう。その様子をただ見ているのは、耐えられない。だから、御堂の恋人として、御堂の好みにあったチョコレートをプレゼントしたかった。それなのに、たまたま出会った同僚に代わりに買ってきてもらって本当に良かったのだろうか。
 考えがまとまらず何度も何度も同じ所をループしている。出口はまだ見えてこない。
 だから、コーヒーが運ばれてきた事も、彼女がチョコレートを持って克哉の前に座ったことも、ずいぶん長い間気づく事が出来なかった。
「……くん、佐伯くん?」
「あっ、はい!」
 自分を呼ぶ声を認識して、慌ててそちらを向くと、同僚がじっと克哉を見ていた。
「何度呼んでも気づかないから、どうしたのかと思った」
「すみません……ちょっと、考え事を」
 この人には恥ずかしいところを見られてばかりだと、顔を赤くする。そんな克哉に苦笑しながら、
「それって、恋人のこと?」
「へ?」
 突然投げかけられた質問に、克哉は次の言葉を発することが出来なかった。そんな克哉と対照的に、彼女は続ける。
「さっき幸せそうな顔をしたり、悩んでる顔をしたり、一人百面相だったし、それを見てなんとなく、恋人の事考えていたのかな、って」
「いや、それは……」
 どう答えるべきか逡巡していると、彼女は克哉の目の前に紙袋を差し出した。言いづらいことは言わなくていいと、彼女が言っている気がした。
「これ。頼まれたチョコレート」
「すみません、有り難うございます」
「………に、買ってきてもらえば良かったのに」
 ぼそりと彼女がつぶやいた言葉は、ガラス窓の向こうで鳴らされたクランクションの音にかき消された。はっとした表情をした彼女は、自嘲の笑みを浮かべたのだが克哉はそれに気づかない。
「何か、言いました?」
「ううん、なんでもない。それじゃ、行くわ」
 伝票を掴み、席を立とうとする彼女を慌てて呼び止める。彼女は何も飲んでいないのだ。代金を払ってもらう理由もないし、それ以前に買ってきてもらったチョコレートの代金も払っていない。
「あ、お代!いくらでしたっけこれ」
「いいの。私からプレゼント。チョコレートがそんなに好きでもない佐伯くんに」
 彼女の言葉の意味を掴みかねて、一瞬行動が遅れた。その隙を突いて、彼女はさっさと会計を済ますと、克哉を待たずに店から出て行った。
 後には克哉と、手つかずのまま冷えたコーヒー、そして彼女が買ってきたチョコレートが残された。

***

 今にも雪が降りそうな空の下を、身体を引きずりながら歩く。
 手のひらに乗りそうな程小さな箱だというのに、どうにもチョコレートが重くて仕方がない。
 無意識のうちに御堂のマンションへの道を歩いていたが、このチョコレートを持って帰れば御堂はどう思うだろう。
 もう、このチョコレートは御堂へのプレゼントには出来ない。克哉から御堂へのプレゼントとなる前に、彼女から克哉へのプレゼントになってしまった。
 明日会社で顔を合わせたときに代金を支払おうとしても、彼女は受け取らないだろうし、その行為が彼女のプライドを傷つける事くらい、克哉には分かっていた。
 彼女は克哉が甘い物をそれほど好きではないことを知っていた。だから、克哉が吐いた嘘にも気づいていたはずだ。それなのに、騙されたふりをして、チョコレートを買ってきた。
 ……元から、こうするつもりだったのだろうか。彼女の真意が分からない。いや、分かっているのだが、無意識に目をそらせてしまう。今の克哉は彼女の気持ちに応えることが出来ない。何せ、御堂の事しか考えられないのだから。
「はぁ……」
 彼女と別れてからの短時間の間に何度溜息を吐き出したか分からない。それは吐き出すたびに白いもやとなり冷たい空気に溶けていく。
 ふと、ひやりとしたものが頬に触れた気がして、顔を上げれば空からはらはらと雪が落ちてきていた。とうとう降り出してしまったと、克哉は僅かに足を速める。その間にも雪はどんどんと降り続き、人通りの無い裏路地などはあっという間に白で塗りつぶされていく。
 とんだ日だ、と思わずにはいられなかった。会社を出たときの、少しの不安と大きな期待を抱いた状態とは大きな違いだ。残り百メートルほど先に迫った御堂のマンションに向かって、克哉は駆けだした。早く御堂に会って、抱かれたいと思いながら。そうすれば、こんな気分は吹き飛んでしまう気がする。
「だめだ、こんな……」
 報われない恋心に押しつぶされそうになった時の苦しさを、克哉は身をもって知っている。だから、自分が彼女にそんな思いをさせているのだという事実に耐えられそうにない。かといって、克哉は彼女に救いの手を差し伸べることも出来ないのだ。
 エントランスに飛び込み、肩や髪に付いた雪を払い落とすと、エレベータに乗って御堂の部屋へ。カードキーを出す間も惜しい位、早く御堂に会いたかった。
 玄関を開けると、丁度御堂がリビングから廊下に出てくるところだった。些か乱暴に開けた扉の音と、克哉の表情を見比べ、目を見開いている。
「克哉?どうした、そんなに慌てて」
「御堂さん……良かった、帰っていたんですね」
 上がり口に鞄とチョコレートを置き、靴を脱ぐと克哉は御堂に近づいていく。まるで、引き寄せられるかのように。
「ああ。君こそ、こんな時間まで何をしていたんだ?先に帰っているものだと思って……っ!」
 玄関に近づいてきた御堂に、抱きついて唇を重ねた克哉からは雪の匂いがした。深く重ねられた唇の端から漏れる水音と呼吸音に、いやがおうでも身体が反応してしまう。ぞろりと歯の裏側を撫でれば、舌を絡め取られる。角度を変えて何度か互いの熱を交換し合えば、もう歯止めがききそうに無かった。
「何かあったのか……?いやに積極的じゃないか?なぁ」
「御堂さん、オレを、めちゃくちゃにしてください……お願い、します」
「……いいんだな?」
 念を押すような御堂の質問に、克哉ははっきりと頷いた。御堂は満足げに頷くと、ここで抱いてもいいが風邪を引かれたら困ると言って、克哉を寝室へと誘った。別に初めて来たわけでもないのに、手を引かれながら二人で寝室に行くことが可笑しくて、克哉は少しだけ笑みをこぼした。
 マフラー、コート、スーツ、シャツ、下着と順に衣服を脱ぎ落としていく。明日は皺になっているかもしれないがそんなことは今の克哉にしてみれば些細なことだ。ベッドに自分の身体を横たえれば、御堂が覆い被さるようにして克哉の視界を覆った。
「御堂さん……オレ、御堂さんに縋ってるんです……」
「縋りたいなら縋ればいい。君は、一人で抱え込む癖を直した方がいいな」
 再び唇を重ねる。濃厚だったさっきのそれとは異なり、あっさりと離れた御堂の唇は、克哉の額、頬、首筋と至る所に落ちてくる。時々痛みを伴うほどに吸われ、そこは赤い痕となって克哉の身体に散っていた。
「あ、ああ……んっ、ぁ」
 ゆるゆると身体を撫でる手の感触。それは克哉の身体をより敏感にしていく。しかし今日に限って優しい触れ方をする御堂に、克哉は焦れる心を抑えきれない。シーツを握りしめていた手を片方離すと、自分に触れる御堂の手を掴み、下半身へ導いた。
「ん……こっち、触って……くださ、あ、はぁっ」
 無理に押しつけた御堂の指が先端に触れると同時に、今までの愛撫とは違う、直接的な開館に背中を反らせる。そんな克哉の様子を見て、御堂は喉の奥で嗤った。
「君は……そんなに我慢できないのなら、くれてやる」
 指先でペニスの先端をぐいぐいと刺激しながら、御堂は自身の下半身を寛げると、既に硬くなったそれを克哉の後ろに当てた。いつもはきちんと解すのだが、今日はまだ触れてもいない。このまま挿入すれば、克哉の身体に負担を掛けることは明らかだ。
 しかし、克哉はその気配を察しながらも、拒否しなかった。狭い入り口に当てられた御堂の熱を感じて身震いする。
「克哉……」
 御堂の声に頷くと、それは克哉の身体を割って侵入してくる。下半身が熱いのは、痛みの所為かそれとも御堂の熱か。ギチ、と粘膜の擦れる音を紛らわせるよう、御堂は克哉のペニスに刺激を与え続ける。
「力を、抜け……」
「あ、あっ……くっ、あ」
 誤魔化しきれない痛みをやり過ごすためにシーツを掴む。そのうち、痛みとは異なるものがゆっくり広がっていくのが分かった。ぎゅっと閉じていた目を開けば、御堂が克哉を見下ろしていた。
「何があった」
 まっすぐに克哉を捉えた眼差しがプレッシャーを掛ける。けれど、克哉は首を横に振って、
「……何も、ありません」
「君がこんな無茶な要求をするのは、何か理由があるのだろう?それとも、私には言えないような事か。まさか、本多絡みじゃないだろうな」
「本多は、関係、ありません……オレ自身の、問題です」
 今日のことを正直に話せば、御堂のことだ、彼女のことをクビにするくらいやりかねない。もちろん個人の感情一つで一人の人間をどうこう出来るものではないのだが、これ以上彼女に迷惑を掛けるようなことはしたくなかった。御堂なら甘い、と言うだろうが。
「納得できないな」
 中に収まっていたものを急に引き抜かれて、あまりの衝撃に悲鳴を上げてしまった。間髪入れずに何度も抜き差しされ、中の粘膜が引き攣れるようだ。ペニスへの刺激によって得られる快感よりも、痛みの方が大きくなって、知らず知らずのうちに克哉は涙を零していた。御堂の手に握られたそれも、いつの間にか力を失っていた。
「……そんなに言いたくないのか」
「ごめ、なさい……」
 御堂はじっと克哉を見ていた。が、そのうち克哉の中から自身を引き抜くと、ベッドから離れて行く。克哉が慌てて起き上がろうとするのを制し、側にあったティッシュボックスを手にすると、再び克哉の元へ戻ってきた。
「君は強情だな、全く……」
 汚れた下半身を拭いながら、御堂はつぶやく。それでも、それ以上の追求はしなかった。克哉が言わないと決めた以上、何があっても言わないだろうことは御堂もよく知っている。もちろん克哉も、言うつもりはなかった。たとえば何年も経ったらその時は話すことがあるかもしれないが、取りあえず、今は。
 無理なセックスの所為で切れた皮膚から血が滲んでいた。拭われるたびにぴりっとした痛みを感じ、克哉は僅かに眉をひそめた。
 処理を終えると、ベッドサイドに腰掛けた御堂が、克哉の頬に触れる。その手は言葉とは裏腹に優しく、克哉はその手に自分の手を重ねた。
「御堂さん、オレ……あなたの事を愛しています。誰よりも、一番好きです」
「突然何を言うかと思えば……どうしたんだ、一体」
「伝えておきたかったんです。どんなことがあっても、あなたのことが好きだってことを」
 御堂の手はひやりとして心地よい。うっとりと目を閉じると、御堂が近づいてくる気配がした。あ、キスされるのかな、と思った次の瞬間、額に軽く口づけられた。
「……分かっている」
 もう一度、今度は唇を重ねながら、克哉は思った。
 形にこだわる必要はないのだ。バレンタインデーは恋人に感謝を伝える日。自分がどれだけ御堂を愛しているか伝えることが出来れば、チョコレートなど必要ない、と。
「ありがとう、克哉」
 御堂と一緒に居るだけでこんなに幸せになれる。彼女には悪いと思ったが、もう自分は大切な人を見つけてしまった。彼女にどう思われていようとも、克哉はこんなにも一人の人ーー御堂の事を想っている。他人の事を考える余裕などあるはずがない。
「もう一度、抱いてくれますか……今度は、優しく」
「さあな。そんなに可愛い顔でおねだりされたら、優しくできる自信がないな」
「っ、御堂さん!」
 返事の代わりに胸を啄まれ、御堂の手に縋った克哉は再び甘い吐息を吐き出した。
「痛みではなく、快感でめちゃくちゃにしてやる……お望み通り、な」

***

 会社の同僚からもらったあのチョコレートは、悩んだ末彼女に返すことにした。失礼な事をしているという認識はあったのだが、受け取ったままでいるのもすっきりしないし、ましてや食べることなど出来そうに無かったからだ。
 帰り際の彼女を捕まえて、先日受け取った紙袋を差し出すと、彼女は諦めたような笑みを浮かべて、あっさりとそれを受け取った。
「……こうなるような気はしていたんだけどね。佐伯くん、まじめだから」
「すみません」
「佐伯くんが謝る事じゃないわ。私が勝手にしたことだし。こちらこそごめんなさいね」
 それだけ言うと、くるりと踵を返して彼女は帰っていった。一度も克哉の方を振り返らず、まっすぐエレベーターホールへ向かって。微かに肩が震えているように見えたのは、克哉の気のせいだったと思いたい。たとえそれが真実であっても、克哉にはどうすることも出来ないのだから。
 そして、その足で克哉は再びデパートに来ていた。
 ただし、今回はチョコレート売り場ではなく、紳士服売り場に直行する。そして、その片隅にあるチョコレートコーナーにて、小さな箱を一つ買い求めた。
 最近はチョコレートを買いに来る男性客に配慮して、紳士服フロアにもチョコレート売り場を設けているのだという。道理で先日赴いたチョコレート売り場には男性客の姿が殆ど見られなかったわけだ。
 自分用として買われていく事が多いため、質も値段もそれなりのものばかりを揃えているのだと、熱心に商品を見ていた克哉に店員が声を掛けてきた。
「お客様もチョコレートがお好きですか?」
「い、いえ……その、普段お世話になっている人へ、贈り物をしようかと」
 そうですか、どうぞごゆっくりお選び下さい、と会釈して、店員は克哉が集中できるようそれ以上何も言わずにそっとその場から離れていった。
 そうして悩んだ結果、克哉が選んだチョコレートは、今鞄の中に入っている。結局あのショコラティエのチョコレートではないが、甘さ控えめのトリュフが三つセットになったものにした。そして、チョコレートによく合うというワインも一緒に買った。
 早く御堂に渡したい、と思いながら、克哉は家路を急いだ。
 マンションにたどり着いた時、外から部屋の明かりを確認したが、まだ御堂が帰ってきている気配はなかった。急いで部屋に入り、少し準備をしなければならない。正規のバレンタインデーよりは数日早かったが、元々頓着していなかった行事だ、多少日がずれたところで問題ないだろう。
 身支度を調えて、リビングのソファーに座った。チョコレートはテーブルの上に、ワインは冷蔵庫の中にそれぞれ置いてある。御堂が帰ってきたら、御堂の事を愛しているという言葉とともに渡すのだ。克哉はセックスの時とは違った高揚感を感じながら、御堂の帰宅を待っていた。