ガラスの向こう側



 ふと、頬に固いものを感じて片桐は目を覚ました。
「……?」
 目を擦りながら何が自分の頬に触れたのか手探りで探してみる。と言ってもしっかり克哉に抱きしめられている手前、探せる範囲もごく限られたものだったのだが。
 こつん、と手に当たる冷たい感触。それが克哉の掛けた眼鏡だということに気づくには少々時間が掛かった。まさか、克哉が眼鏡を掛けたまま眠っているとは思わなかったからだ。
「佐伯くん、眼鏡が曲がってしまいますよ」
 起こしていいものか迷ったが、このまま眼鏡を掛けたままでは色々不都合だろう。眼鏡が変な風に歪んだり、顔に眼鏡の跡が付くこともある。克哉の腕に絡められた自分の腕をそっと引き抜き、肩を軽く揺すってみた。が、熟睡しているのか全く起きる気配がない。
 そこで片桐は眼鏡を外すことを試みた。横を向いた顔にかけられた眼鏡は、枕に接している方が引っかかって中々外れてくれない。無理に引っ張っては余計に眼鏡を痛めてしまうと思い、慎重に眼鏡を引っ張る。
 耳に引っかかっている部分を浮かせれば、鼻当ての部分がめり込んでしまう。また、蝶番の部分が枕に深く埋まっており、片桐はそっと枕をずらしてみた。それでも取れない。
「こまりましたね……」
 克哉を起こさないようそっと取ろうと思ったのだが難しい。無理な体勢で伸ばした腕も痛くなってきた。ほとほと困り果てた片桐は、最終手段とばかりにブリッジの所を摘んでえい、と持ち上げると、強く引いてみた。
「あ……」
 それは案外あっさりと外れてくれた。最初からこうしておけば良かったと溜息を吐きながらも、片桐は自分の手の中にあるその眼鏡をきちんと折りたたんだ。
 枕元に置こうとして、ふと何気なくその眼鏡を自分の顔に近づけると、レンズを覗き込んでみた。
 その眼鏡には度が入っていなかった。何の変哲もない、先程まで片桐が見ていたのと同じ風景がガラスを通して広がっているだけだ。
 ガラス越しの世界はどれくらい違って見えるのかと思っていた片桐にとっては少し残念だった。勿論、眼鏡の向こうも普通でないと困るのだが。
 一人で納得すると、改めてそれを枕元に置いた。そして、まじまじと克哉の顔を見る。眼鏡が無くなった所為か、前髪がばっさりと目の前に降りてきて、いつもと違う雰囲気に見えた。
 眼鏡を掛けていない克哉を見るのは久しぶりだと思う。思えば克哉が眼鏡を外すのは、風呂に入るときくらいなものだ。目が悪いのであればそれも納得できるのだが、伊達眼鏡をそこまで掛け続ける理由がなにかあるのだろうか。
「っん……」
 その時、克哉が顔を片桐の肩に押しつけてきた。そして、ゆっくりと目を開ける。薄暗い闇の中で克哉の瞳がきらりと光ってみえた。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか」
「……今、何時だ」
「まだ真夜中ですよ。もう少し眠っても、大丈夫です」
「あんたは、何で起きてるんだ……?」
「佐伯くんが眼鏡をしたまま眠っていたので、気になって。曲がってしまうんじゃないかと思って、勝手に外しました。枕元に置いてありますよ」
 片桐がそう言うと、克哉は寝ぼけているのかぼんやりとした表情で片桐の顔を見て、
「ああ……」
 それだけ言うと、片桐に顔を近づけてきた。あ、キスされるのかな、と思った次の瞬間にはやはり深く唇を貪られていた。これも寝ぼけての事なのだろうか。しかし、それにしては全てが熱かった。
 目を閉じている片桐には見えない筈なのに、克哉が瞬きする様子が手に取るように分かる。どうして、と考える間もなく、いつも二人の間を隔てている眼鏡がないからだということに気がついた。克哉の睫毛が片桐の頬を擽っているのだ。
「……っぁ……はっ、ふ」
 散々口内を舐め上げられて、ようやく解放された頃にはお互いの唾液で口の周りが汚れていた。手の甲でそれを拭いながら、片桐は今まで克哉がしていたのとは逆に、克哉の肩に顔をくっつけると、小さな声で言った。
「いつも突然ですねぇ……僕は驚いて心臓が止まってしまいそうです」
「……キスくらいで死ぬな」
 当たり前のように言われて、片桐は苦笑した。
「そうでした。……ねえ、眼鏡の佐伯くんも好きですけど、眼鏡を掛けていない佐伯くんも素敵ですよ。どうして普段眼鏡を掛けているんですか?」
「……あんたには、関係ない……だろう……」
 やっぱり寝ぼけているのかもしれない。歯切れの悪い言葉を残して、克哉は再び目を閉じた。
 暫くして、規則正しい呼吸音が聞こえてきたのを機に、片桐も目を閉じた。
 目を閉じながらぼんやりと考える。眼鏡を掛けていようがいまいが克哉は克哉だ。ガラスの向こうにある瞳は、ガラスを隔てていないそれと何ら変わりなく、片桐を熱く見つめてくれる。それだけで幸せだ。理由なんか必要ない、と。
「お休みなさい、佐伯くん」