甘く強く、香る



 大きな花束を無造作に抱え、些か広めの歩調で歩いていく。
 誰かの為に花を買うなど、何年ぶりだろう。しかも、届けて貰うのではなく自ら手渡すのは。
 首に掛けただけのマフラーが風に煽られ揺れているのも構わず、むしろ風に向かっていくようにただ目的地だけを見据えて歩く。
 
 元々買うつもりは無かった。
 ただ、たまたま通りかかった花屋の前に誇らしげに咲くバラが置いてあるのを見て、それがとても良い色だったから、いつの間にか店員に声を掛けていた。
「今朝入荷したばかりなんですよ」
 むせ返る程の匂い。甘い匂いが脳を痺れさせたのかも知れない。克哉はそれだけで一つ花束を作ってもらった。店員にメッセージカードは必要ですか、と言われたが断った。どうせ直接渡すのだから、と。
 駅前でもなく、かといって住宅地の真ん中という立地でもない、微妙な場所にその店はあった。そこから彼の家までは歩いて十分ほどだから、袋は必要ないと断ったのだが、やはり少し恥ずかしくて、克哉は脇目もふらず歩いていく。
 すれ違った主婦が驚いたような顔で克哉の方を見た。確かに、昼間の住宅街に相応しい格好ではないな、と自嘲する。黒いコートに、大きなバラの花束では何処かのホストと思われても仕方がないという自覚はあった。だから余計に恥ずかしいのだ。
 足早に玄関前の階段を駆け上がると、チャイムを押した。ガラス戸の向こうで人の動く気配がして、続いてガラガラと音がして戸が開いた。
「佐伯くん、いらっしゃい……うわっ」
 片桐が現れたと同時に、克哉は手にした花束を押しつける。どうしたんですかこれ、と手にした花束と克哉の顔を交互に見比べて、片桐は不思議だと言わんばかりの表情を浮かべる。
「何となく買ってみた。あんたにプレゼントだ」
「何となくって……でも、有り難うございます。綺麗ですねぇ」
 花束に顔を埋めて、くん、と匂いを嗅ぐ片桐を見て、克哉は思わず目を細めた。そんなに喜んでくれるなら、たまには悪くない、と。
「行くぞ」
「あ、うん」
 玄関に立ったままの片桐の肩を掴んで、少し引き寄せると、片桐は片手で玄関の扉を閉めた。


 居間に上がり、コートを脱いでいると、片桐が後ろからそれを受け取り、ハンガーに掛けてくれる。
 渡した花束は、居間のテーブルに置かれていた。花瓶に生けようと再びそれを手にした片桐は、ふと、克哉の方を見た。
「あの、ここまで来るまでの間、ずっとこの花束を持ってきたのかい?」
「そうだが?」
 あっさり肯定すると、片桐は目立ったんじゃないかな、と言った。途端、ここに来るまでの微妙な恥ずかしさを思い出して、克哉は僅かに顔が火照るのを感じた。
「……もう済んだことだ」
 早くこの話題を終わらせようと、素っ気なく返事をしたが、片桐はそれに気づかなかったようで、尚も話を続ける。
「佐伯くんは格好いいし、バラはこんなに綺麗だから。僕みたいなオジサンが持っているよりも、きっと似合うだろうなあと思ったんですよ」
 ちょっと待ってて下さいね、と言い残して片桐は奥に消えた。全く、と照れ隠しに眼鏡を押し上げて、克哉は溜息を吐く。
 ことある毎に自分の事を「オジサン」だと片桐は言う。年齢的にはそうなのかもしれないが、克哉は別に片桐のことをオジサンだと思って接したことは一度もない。会社にいる時は上司として、家にいるときは恋人として扱っているのだが、本人はそれでも言い続けるのが気に入らない。
 何度か進言はしている。しかし口癖なのかどうも直らないのだ。
「お待たせしました」
 程なくして片桐は大きな花瓶を抱えて戻ってきた。克哉が買ったバラは綺麗に生けられ、サイドボードの上に置かれた。
「花があるだけで、何だか部屋が華やぐみたいですね」
「そうだな」
 花屋の店先で嗅いだのと同じ、甘い匂いが部屋中に広がっていくような気がした。片桐はテーブルの上に新聞の折り込みチラシを広げ、今日の夕食は何が良いかな、と考えている。克哉もチラシを覗き込もうとして、ふと片桐の背中に視線を移した。襟足とニットの襟の間に見える白いうなじが克哉を誘惑する。
「そろそろ鍋の季節ですね。佐伯くんはどんな鍋が好きですか?定番は水炊きですかね……」
 そんな質問も適当に流して、そっと身体を動かす。他のチラシを片桐が引き寄せようと顔を上げたのと、克哉が片桐のうなじに口づけたのはほぼ同時だった。
「あっ……」
 少し強く吸って、赤くなった所を舐める。それだけで片桐は興奮したのか、身体を強ばらせた。
「さ、佐伯くん」
「ん?」
 何だ、と言えば、恥ずかしそうに片桐は克哉の方を見て、そして、
「せめて、布団で……」
 片桐の願いを克哉は一蹴した。上半身をテーブルの上に突っ伏すような形にし、下半身は膝をついて腰を突き出すようにさせると、手際よくベルトを外し、ズボンと下着を同時に下ろす。露わになった尻を撫で上げ、後ろから抱きつくようにして僅かに固さを持ち始めた片桐の前に手を添えた。
「そんなっ……さえき、くん……あ、うっ」
 辺りに漂う甘い匂いが、花瓶に生けられたバラの香りなのか、それとも片桐の使っている石鹸の匂いなのか。判別が点かないほどに混ざり合ったそれは克哉の鼻孔を擽る。先程キスマークを残した方とは反対側に顔を近づけ、滲んだ汗を舐め取った。
 手の中の強張りは徐々に質量を増していく。先走りが克哉の手を汚し、動きをスムーズにする。縋るものを求めてテーブルの上を彷徨う片桐の手に、先程まで見ていたチラシがくしゃ、と握りしめられた。
「あっ、ああっ、だ、だめだっ……さえ、き、くっ……ん」
「早すぎるんじゃないですか?」
「ぁっ…そん、なこと、言われてもっ……!」
 我慢できないのだと首を横に振る。煽るのはいつも克哉だが、克哉自身どうしてこれほどまでに片桐に対して欲情するのか、自分でも時々分からなくなる。以前感じていた苛つきからくる衝動とは違う感情に流され、その身体に触れてしまう。
 快楽に喘ぐ片桐の横顔を見て、克哉の身体が疼いた。
 ……ああ、そうか。この人のこの顔が見たかったのだ。
 自らを「オジサン」と卑下し、誰からも相手にされないと諦めているこの人が、どれだけ克哉を夢中にさせているのか、気づいて欲しいと思った。未だに克哉が義理で自分と一緒にいると思い込んでいるこの人に、自分の意思で一緒にいるのだということに気づいて欲しかった。
 それなのに、仕事で客と接するときのように、器用に立ち回ることが出来ない。つい素っ気ない口調で、すぐに身体を求めてしまう。どれだけ身体を重ねても、思いを口にしなければ、心が通じるはずがないと頭では分かっているのに。
「くっ、あっ……だめ、だっ…!!」
 ぎゅっと目を閉じ、開けた口から断続的に漏れる喘ぎと同じリズムで、克哉の手の中で片桐は精液を吐き出していった。溢れた液体が畳の上に白い水たまりを作っている。
「はあっ、はあっ……うっ…あっ……」
「まだですよ、片桐さん」
 濡れそぼった手を後ろに回して入り口を広げる。早く片桐を感じたいと焦りばかりが浮かんできて、指を二本入れて掻き回しただけのそこに克哉自身を差し入れた。想定外の質量に、粘膜が擦れて嫌な音がした。
 押し広げるように少しずつ奥へ進めていくと、慣れていないそこは克哉をきつく締め付けてきて、油断すれば意識を持って行かれそうだ。
「くっ……」
「いっ!いた、痛い……っ!」
 先程までの快感とは真逆の痛みに、片桐は飛ばしかけた意識を無理矢理引き戻された。痛みに耐えるため、より強く手を握りしめる。もうチラシは復元不可能な程くしゃくしゃになっていた。
「動く、ぞ」
 克哉の先走りが多少の潤滑剤になると言っても、片桐が苦しい事に変わりはない。荒い呼吸に苦痛の呻き声が混ざっている事に気づきながらも、腰を動かすのを止められなかった。
「んっ、ぐぅっ、い、あ」
「っ、片桐さんっ……」
 そのうち、よりスムーズに動くようになると、徐々に片桐の声色が変わり始めた。より深く、片桐が感じられるところを中心に擦り上げると、反対に強く締め付けられる。片桐の腰を掴んでいた手を離して、先程片桐の前を弄った時と同じような体勢になった克哉は、一度達したはずのそこが再び硬くなり始めていることに気づいて、喉の奥で笑った。
「んっ…っ、あ、かた、ぎり…さ……」
 深く、深く貫くと、きゅっと締め付けられて、克哉は呆気なく達した。脈打ちながら片桐の中に欲望を吐き出した後、ちゅっと音を立てて片桐の背中に口づけをした。


 後ろと、前と、汗ばんだ皮膚と。情事後に片桐の身体を綺麗に拭いてやるのが恒例になりつつあった。克哉によって二度達した片桐は、これまた恒例のように意識を手放してしまったからだ。
 ついで水たまりの出来た畳も綺麗に拭き、くしゃくしゃになったチラシ以外は、元に戻した。
 今日も夕食は外食か出前か、と思いながら、ふと片桐が言っていたことを思い出す。
「佐伯くんは僕よりバラが似合う、か」
 立ち上がり、花瓶から一輪抜き出すと、棘を取り、ぐったりと横たわっている片桐の手にそっと持たせた。花が丁度顔の近くに来て、まだ微かに赤みの残る頬に、黄色いバラが映えている。
「あんたも十分似合うさ」
 そう満足げに呟いて、克哉は片桐の髪をそっと梳いた。