僕に愛をくれた君に捧ぐ(人でなしの恋5題:4)



「はい、どうぞ」
 克哉の目の前に置かれたのは、カボチャの煮物だった。それは見事な黄金色に煮付けられており、ほのかに甘い匂いが漂っている。くん、と匂いを嗅いで克哉は頷いた。
「美味しそうだ」
「まだまだ沢山ありますから」
 煮物の他はこんがりと焼かれたサンマ、そして味噌汁。茶碗にご飯を盛りつけて、片桐は克哉にそれを差し出した。
「佐伯くんがこうして食べてくれるので、料理のしがいがあります」
 自分の分のご飯を盛りつけた片桐が席についてから、二人は手を合わせて食事を始める。仕事のある平日は料理を作っている余裕がない事の方が多いため、出来合いの総菜で済ませてしまうことが多いのだが、休日くらいは、と片桐がいつも腕を振るうのが恒例となっていた。
 一人暮らしな上、普段の食事はコンビニ弁当か外食で済ませてしまいがちな克哉にとって、片桐の手料理はバランスの取れた食事を摂る唯一の機会とも言えた。だから、よほど何か予定がなければ片桐がしたいようにさせている。
「美味しいな」
「そうかな?それはよかった」
 克哉が褒めると、片桐は満面の笑みを浮かべて喜んだ。片桐にとって、今まで料理は独り身の寂しさを紛らわせるための手段という面が大きかったから、こうして誰かに食べてもらい、美味しいと言ってもらえる事が何より嬉しい。
「何か食べたい物があったら、言ってくださいね。美味しくできるかどうか分かりませんが、頑張ってみますから」
「そうだな、考えておく」
 ゆっくりと食事を済ませた後、克哉は片桐が後片付けしている姿を眺めていた。皿と鍋を洗ったり、残った煮物を別の容器に移して冷蔵庫に入れたりする動きは無駄な所が一つもない。ひと言、手伝ってと言われればいくらでも手伝うつもりでいるのだが、結局今日も克哉の出番はなかった。
「お待たせしました」
 水に濡れた手をタオルで拭きながら、片桐は克哉のそばへ戻ってきた。
「片桐さん、あんた……どうして仕事でも家事をしているときみたいに要領よく出来ないんだ?」
「え、それは、どういうことでしょう」
「あんたが食事の後片付けをするところを見ていると、動きに一切無駄がないし片づけに掛かる時間も短い。それなのにどうして仕事じゃ書類一つ片付けるのにあれだけ時間が掛かるんだ。同じようにやれば、一緒だろう」
 突然仕事の話をされて面食らったのか、片桐はただ克哉の愚痴に近い質問を聞くしかなかった。
 克哉が言っている事も分かるのだ。コンピュータも満足に扱えず、クレーム対応も時間が掛かり、メールの返事だけで一日が終わってしまうことすらある片桐は、肩書きこそ課長だが能力は克哉の数十分の一だという自覚がある。そして、それが克哉や他の課員の足かせになっているということも。
「……ごめんなさい……やっぱり、僕はキクチを辞めるべきでした」
 ぎゅっと手を握りしめて、絞り出すように片桐は言う。克哉は思わず立ち上がると、片桐の肩を掴んで顔を覗き込んだ。
「そんなことを言っているんじゃない!あんただって、やれば出来るはずなんだ。それなのに、どうしてやらないんだ」
「そんなことを言われても、出来ないことは出来ないんですよ」
 俯いたまま、片桐は絞り出すように呻く。
 克哉に出来る、と言われる度に、片桐の胸は疼いた。克哉が言うように仕事が出来ればいいことくらい、片桐自身分かっていた。しかし、それが出来ないから苦労しているのに、という思いが胸の内に溜まっていく。
 克哉は克哉で、片桐が自分の能力を勝手に限界だとしているところが腹立たしかった。使えない上司だと思ったことは一度や二度ではない。それでも、片桐と一緒に仕事をしたいと思っているだけに、片桐が本気を出さないことが腹立たしく、悔しかった。
「佐伯くんは何だって出来るけれど、僕は駄目なんです。君みたいに出来ない……人には向き不向きというものがあるんです」
「片桐さん。そう言って今まで諦めてきたんですか」
「………そういうことになるんでしょうね」
 情けない、と思わないわけではない。しかし片桐にはどうしようもなかった。大好きな克哉に罵られようとも。
「すみません、佐伯くん、僕は」
「あんたには、がっかりしましたよ」
「…っ!!」
 克哉の声があまりに冷たくて、片桐は身震いした。克哉は片桐の肩から手を離すと、踵を返してキッチンから出て行った。片桐はそれをただ見ているしか出来ない。追いすがった所で、何を言えばいいのか分からなかった。


 何気ないひと言だったのに、ここまで大事になると思わなかった。
 近くの公園まで来た克哉は、ベンチに座ると溜息を吐いた。片桐が仕事が出来ないことくらい分かっていたはずなのに、どうしてあんなにむきになってしまったのだろうか。
 片桐の態度を見ていると、眼鏡を掛ける前の自分を思い出す。何事にも自信が無く、駄目だと決め込んでしまう自分を。だから、余計に見ていられない。
 苛立った心を抑えるために、煙草に火を付けた。深く吸い込み煙で肺を満たすと、ゆっくり吐き出す。煙が一筋、煙草の先から立ち上り、暗闇に溶けていく様子を克哉はただ眺めていた。
「本当に、あの人は」
 こんな形で家を飛び出してしまった克哉の事を想って、きっと泣いているだろう。仕事が出来ないことに苛立つ思いは消えないが、この関係を手放すつもりも無い。口には出さないが、自分に最大限の愛を注いでくれる片桐の事を、克哉もまた愛していた。
「……戻るか」
 傍に設置された灰皿に吸っていた煙草を押しつけてから、克哉は立ち上がった。


「ふぅ……」
 克哉が出て行った後、片桐はいつも通り片づけを終えて茶を沸かし、居間で一人それを嗜んでいた。しかし、二人に慣れてしまった今、一人のお茶は味気ない。何度目か分からない溜息を吐いて、手にした湯飲み茶碗を座卓の上に置いた。
 克哉はもう戻ってこないつもりかもしれない。全てを諦め、不甲斐ない自分に愛想が尽きたと、克哉に言われても仕方がないと思う。この数ヶ月が夢のようだったのだと、思えばまた元の生活に戻れる。
 ……本当に、戻れるだろうか。
 また一人になり、誰からも顧みられない生活に戻ることに、耐えられない。克哉が自分の家に来てくれなくなると思うだけで余りの絶望感に涙が滲んでくるほどだ。
「だめ、だ……」
 一度決壊した涙腺は止めどなく涙を溢れさせる。ううっ、うっ、と嗚咽しながら近くにあったティッシュペーパーの箱を引き寄せて一度に二枚引き抜くと、それで涙を拭いた。すぐに湿ってしまったそれをゴミ箱に捨てて、もう二枚。元々使っている途中だったティッシュペーパーはあっという間に空に近づいていく。
 最後の一枚を引き抜いたとき、がちゃりと玄関から音が聞こえてきた。続けて廊下を歩く音がして、がらりと襖が引かれた。
「……やっぱりな」
「さ、さえき、くん」
 つかつかと片桐に近づいた克哉は、ぐい、と片桐の胸元を掴んで顔を上げさせた。咄嗟に殴られる、と思った片桐は、両手で顔を覆ったが、予想していた衝撃は来なかった。その代わり、拭きすぎて赤く擦れた目尻をそっと克哉の指で撫でられた。
「真っ赤になっているぞ。明日会社で何て言い訳するんだ?」
「あ……」
 僅かに残っていた涙が付いた指を、ぺろりと舐める。顔を覆っていた手をゆるゆると下ろした片桐は、改めて克哉の顔を見た。
「佐伯くん……もう、戻ってきてくれないと思った」
「片桐さん。少し言い過ぎました」
 胸元から手を離し、代わりに肩を抱き寄せる。克哉の胸に顔を埋める形になった片桐は、どうすればいいのか分からず、じっとすることにした。微かに煙草の匂いがして、そう言えば片桐の家にいる間に克哉が煙草を吸う所を見たことがない事に気がついた。
「あんたが泣いてるんじゃないかと思って戻ってきたんだが、まさか本当に泣いているとはな……」
「ごめん……」
「仕事が出来るようになって欲しいのは勿論だが、あんたとこんな風に喧嘩をするのは嫌だ」
 肩を抱き寄せる手に力が入った。片桐はそっと自分の手を克哉の背中に回して、より深く身体を寄せる。
「僕も、諦めないで頑張ってみることにします……出来る所から」
「それでいい。パソコンの使い方くらいなら、俺が教えてあげます」
「うん、お願いします」
 ようやく声に力が戻ってきた片桐を抱きしめて、克哉は内心溜息を吐いた。
 この年上の恋人が手放せないのは、克哉の方だ。
「……片桐さん」
「どうしましたか、佐伯くん」
「何でも……」
 珍しく煮え切らない態度の克哉に片桐は首を傾げたが、それ以上何も言わず再び克哉の胸に顔を埋めた。そんな片桐の肩に軽く顎を乗せ、克哉は自分を愛してくれる片桐の事を心底愛しいと思った。