好きになってもいいですか(人でなしの恋5題:1)



 オフィスでその姿を見る度に、心臓が跳ねるのを止められない。
 こうして見ている分には、克哉は前と特に変わらないように見える。しかし、片桐と対峙するときのあの冷たい瞳を見る度に、どうしても身体が竦んでしまう。
 彼はこんな冷めた目をする人だっただろうか、と、入社してからずっと克哉を見ていた片桐は首を傾げざるを得ない。
 しかし、八課の人間は誰一人として、克哉の態度に疑問を抱いていなかった。むしろ、以前よりも目に見えて仕事が出来るようになった克哉を評価している。
 それは片桐だって同じだ。親会社であるMGNから言いつけられた無謀なノルマ。それを達成できる見通しが立ってきたのも、克哉の活躍に寄るところが大きいことくらい言われなくても分かっている。例え他から何を言われていようとも、片桐は八課の課長であり責任者だった。八課で誰が頑張っているか一番知っているという自負がある。
「課長。新しい契約を取ってきたので見ていただきたいのですが」
「さ、佐伯君……」
 突然克哉が自分の目の前に立ち、ずい、と書類を差し出してきた。慌ててその書類を受け取ろうと腕を伸ばした所、思わず克哉の手に触れてしまう。
「あっ……す、すみません」
 慌てて手を引っ込めた所為で、かなり端の方を掴んで書類を受け取ることになった。幸い書類を落とすことはなかったが……落としていたら、きっとまた克哉に厭味を言われたに違いない。
「よろしくお願いします」
 克哉は一瞬何か言いたげな顔をしたが、特に何か言うこともせず、すぐに自分の席に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、自分はまた克哉の気に障ることをしてしまったのだろうか、と片桐は俄に不安に駆られる。
 最近はどうも克哉の機嫌ばかりが気になってしまう。彼を怒らせないようにしようと気をつければ気をつけるほど、逆に彼を怒らせている気がしてならない。
 もちろん克哉は直接片桐に何かを言ってくるわけではない。それでも、表情を伺わずにはいられなかった。
 ふと、渡された書類をチェックしていて、ミスを発見した。ほんの小さなミスだったが、ミスはミスだ。修正しなければ取引先にも迷惑が掛かる。
 克哉の方に視線を投げる。克哉はこちらに背を向けるようにして座っており、今どんな表情をしているのかは分からなかった。それだけに、声を掛けるのは躊躇われる。例えば、真剣な表情で新しい契約のための資料を作成しているのかもしれない。もしくは、過去の契約を結んだ店舗などを纏めて、来週のMGNでのミーティングに備えているのかもしれない。どちらにしても、克哉が仕事をしている所を妨げるのは気が引けた。
 ふぅ、と自分の不甲斐なさに溜息が漏れる。
 自分のこの考え過ぎる性格を何とかした方がいいのは分かっている。課の他のメンバーにも、もう少ししっかりしてくださいと言われたり、課長はもっと堂々としていていいんです、と言われたことも数回ではない。片桐も直せるところは直してきたつもりだったーー例えば、むやみに謝らない、とか。
 それでも、克哉に対してだけはどれもこれも実践できていなかった。彼に何か言われる度に、「すみません」と言ってしまう。それに、資料室での一件以来、彼の考えている事がますます分からなくなっていた。
「佐伯君は、僕に何を求めているんだろう……」
 キーボードを叩く後ろ姿を見ながら、こそりと心の中で考える。
 しかし、その答えは出そうになかった。


 結局、片桐が克哉に声を掛けたのは就業時間を大分過ぎてからだった。
 一人、また一人と課のメンバーが帰り始め、気づけばオフィスにいるのは片桐と克哉だけになっていた。本多は出先から直帰すると先程連絡が入ったから、今日はもう戻ってこない。
 克哉のキーボードを叩く手が止まったのを見計らって、片桐は席を立つと恐る恐る克哉に声を掛ける。
「佐伯君、ちょっといいかな……?」
「なんですか」
 眼鏡の奥の瞳が、ぎらりと光ったような気がして身が竦む。
「今日受け取った、この書類なんだけどね。ここが間違っている気がするんだけど……」
 付箋を貼った書類を克哉に渡し、該当箇所を指さす。克哉は黙って片桐の話を聞いていたが、ふむ、と頷くと、
「確かに間違っていますね。これは俺のミスです。ご指摘有り難うございます」
「あ、いや、いいんだ。僕が気づいて良かったよ。お客さんに渡してからでは差し替えもままならないしね」
「そうですね」
 早速修正しようというのか、克哉は今まで開いていたファイルを保存して閉じると、先程の書類を開くと瞬く間に直していく。思わずその手腕に見とれた片桐は、克哉が訝しげな表情で自分を見ていることにも気づかなかった。
「すごいね佐伯君。僕はパソコンがあまり得意ではないから、君みたいにすぐに直せる人を尊敬しますよ」
「……こんな事、誰だって出来ることです」
「そうなのかな?」
「修正したらまた持って行きますので」
 克哉が暗に片桐を追い払いたがっているのは明白だった。片桐は一瞬迷った。素直に自分のデスクへ戻るべきだろうか?
 ……でも、もっと克哉と話がしたいと片桐は思った。恐怖心と対極にある、克哉への純粋な興味。いや、最早それは恋心と言った方が正しいかも知れない。
 必死で会話の糸口を探すが、何も見つからないまま沈黙が流れる。
「……まだ何か?」
「え、いや、特に何でもないんだけど」
「気が散るんだが」
 克哉の目が微かに顰められた。片桐はごめんね、と言って仕方なくその場を離れた。
 そして、その場に克哉と二人きりでいるのが居たたまれなくなり、オフィスを出て自動販売機の前まで来ると、ふぅ、と息を吐いた。休憩する者のいないそこは灯りも付いておらず、自動販売機だけが煌々と光っている。他のオフィスも昼間のような騒がしさはなく、時折小さく電話の鳴る音が聞こえる程度だった。
「僕は佐伯君に何を期待しているんだろう……」
 近くに置いてある椅子に腰掛け、片桐は小さくこぼす。大体克哉には何度も酷い目に遭わされている。大事に飼っていたオカメインコを逃がされ、無理矢理手淫され彼の手で達してしまうという屈辱を味わわされた。資料室や連れて行って貰ったレストランでの仕打ちを思うと、恥ずかしさで身体が震えるほどだ。
 それでも克哉のことが嫌いになれないのは、彼の瞳に映っているのが自分だけだということに気づいたからだ。嬲られ、犯され、弄られている間は、克哉は自分のことを見てくれる。それを考えるだけで、酷い仕打ちにも耐えることが出来た。
「でも、佐伯君は……きっと僕のことが嫌いなんだろうな」
「片桐課長。こんな所で何をやっているんですか」
 片桐が溜息を吐くのと、後ろから声を掛けられるのはほぼ同時だった。突然のことに驚いて、危うく椅子から落ちそうになった。
「さ、佐伯君?」
「書類が出来たので見て貰おうと思ったんだが……こんな所で油を売ってる暇があるなら、さっさと帰ったらいいんじゃないですか」
「そういうわけじゃないんだけど……」
 言い訳をしても、克哉は何とも思わないだろう。むしろ余計に話を聞いてくれなくなるかも知れない。
 俯いてしまった片桐を一瞥して、克哉は溜息を吐く。
「で、書類を見てくれる気はあるんですか?」
「あ、わかったよ。今すぐ見るから」
「じゃあお願いしますよ」
 くるりと踵を返し、さっさとオフィスに戻ろうとする克哉の後ろを慌てて追いかける。そして、心の中で呟いた。
「君が僕を嫌いでも、僕は君のことを好きになってもいいだろうか……」
 勿論克哉は答えない。片桐は再びこの思いを胸に閉じこめ、オフィスに足を踏み入れた。