唇が切れる



 明け方に目を覚まし、乾いた唇を無意識に湿らそうとしたとき、ピリッとした痛みを感じて克哉は顔をしかめた。
 昨日は何とも無かったはずだ。再度、その痛みを感じた場所にそっと舌を這わせる。が、同じ様にピリッとした痛みと、舌の先の違和感。唇の筋に沿って、粘膜が裂けているような気がした。
 まだ隣で寝息を立てている片桐を起こさぬようにと、細心の注意を払って布団から抜け出すと、克哉は洗面台へと向かった。春とはいえ、明け方の空気はまだ冷たい。冷えた廊下を裸足で歩けば、その冷たさに否応にも目が覚める。
 洗面台の明かりを点けてから、鏡に向かって少し口を開く。それでもよく見えなかったので、痛みを感じた辺りの唇を少し指で持ち上げるようにして、口内に近い部分を晒した。
 確かに粘膜が切れている。赤くなったそこはさしたる傷ではないように見えたが、粘膜の傷は激痛を伴うと相場が決まっている。何度口内炎で食事がまともに出来ないような状態に追い込まれたか分からない。
 克哉は溜息を吐いて、唇から手を離すと、乱れた前髪を無造作に掻き上げた。傷ついてしまったものは仕方がないが、この傷が治るまでは痛みを我慢していかねばならないことを考えると憂鬱になった。
 唇の傷と、廊下の冷たさにすっかり目を覚ました克哉は、予定より早い時間ではあったが身支度を調えることにした。もうじき片桐も目を覚ますだろうから、偶には朝食を作るのを手伝ったっていい。片桐と付き合い始めてもう一年以上経過するのだが、朝が弱いこともあっていつも片桐の好意に甘えてしまっていた。だから、朝食の準備を手伝ったことなど片手で数え足りる程だ。
 歯を磨き、顔を洗って部屋に戻ると、克哉が扉を開けた音で目を覚ましたらしい片桐が驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「おはようございます、稔さん」
「おはようございます、克哉くん。……あ、何だかいつもと逆、ですね」
 寝起きの良い片桐は、自分を布団の外から見下ろしている克哉を見て微笑んだ。そして身体を起こし、布団の上に座ると改めて克哉の方を見る。そんな片桐が何故か無性に愛おしく見えて、気が付けば両手を片桐の方に置いていた。急に近づいてきた克哉を見て、何があったのかと片桐に悟らせる暇さえ与えず、唇を重ねる。突然の事ではあったが、行為自体は珍しくも何ともない、常日頃からしていることだったので、片桐は抵抗する素振りは見せなかった。むしろ克哉の唇を享受し、そろそろと舌を差し出してくる有様だ。
 片桐がそうしてくれたことに克哉はとても満足していた。愛している人の唇を、身体を、その全てを求めることは何ら恥ずかしいことではないのだと、懇切丁寧に片桐に教えてきたつもりだ。時には言葉で、時には身体に直接、と幾つかの手段を使い分けて。
 その効果あってか、こうして自ら求めるような行動を取ることも珍しいことでは無くなりつつある。しかも、それを無意識のうちにやってのけているらしいから、本当は片桐だって心を欲望に支配されているんじゃないのかと克哉は思っている。が、敢えてそれは言わなかった。言えば逆効果だと分かっているからだ。
 薄く開いた唇の間に自分の舌を差し入れて、片桐の口をこじ開ける。すると、片桐の舌も負けじと克哉の中に入ってこようと蠢く。唾液に包まれ、ぬるぬるとした口内を蹂躙するように舌を伸ばした。
「……くっ」
 痛みを感じた克哉は、思わず声を上げていた。夢中になっていた片桐も克哉の声に現実に引き戻されたのか、重ねていた唇を解いた。つうっと糸を引く唾液だけが二人のキスの余韻を残している。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
 しかし片桐は納得していない様子でじっと克哉の方を見ていたかと思うと、腕を伸ばして克哉の頬に手を添える。そして、親指でそっと克哉の唇を捲り上げた。しかも、先ほど克哉が同じようにして傷の存在を確認してきた所と同じ場所を。
「唇が切れている……これですね」
「どうして分かった?」
「その、さっき克哉くんと、キスしたときに少し違和感があったから……」
 克哉は片桐の観察眼の鋭さに改めて驚かされた。普段のんびりとした様子でいるからか、大半の人が片桐は鈍いと思っているようだが、決してそうではない。細かいところによく気が付くし、体調が悪い時も本人より先に見抜く位だ。
「全く、あなたにはかなわないな」
 ぺろり、と下唇を舐めて、そのまま片桐の指ごと上唇も舐める。最初は痛みを感じていたそこも、何度か舐めれば気にならなくなった。
 片桐は指を克哉の唇から離して、リップクリームを塗ると良いですよと言った。
「舐めていても、すぐに乾いて余計に切れてしまいます」
 そして片桐は布団の上から立ち上がると、克哉を残して部屋を出て行こうとする。そろそろ朝食を作らないと遅刻してしまいます、という片桐の後に続いて克哉もキッチンへ移動した。
「せっかく早く目を覚ましたんだ、偶には手伝いますよ」
「でも、朝食は僕の仕事ですから」
「手伝う事も許可してくれないんですか?」
「……そうですね。それじゃあ、お願いします」
 克哉は片桐が主菜である魚を焼いている間に、湯を沸かし味噌汁の準備をする。食器を棚から出してテーブルの上に並べていく。そうしている内にガス台に設けられたグリルから香ばしい匂いが漂ってくると、克哉の腹の虫が盛大に鳴いた。聞こえたのか、片桐がくすりと笑い声を漏らしたので、恥ずかしさを紛らわせる為に、片桐を後ろから抱きしめるとその首筋に軽いキスを落とす。
「克哉くん」
 咎めるような声に肩を竦めて、身体を離す。すると、片桐が一瞬だけ物足りなそうな表情で克哉の方を見たが、すぐにいつもの片桐に戻っていた。
「さて、朝食を頂きましょう」


 食事を終えて食器を流しに出した後で、それぞれ身なりを整えて会社へ向かう。同じ会社の同じ部署で働いているのだから一緒に出勤することも可能だし、実際に数ヶ月間ほど試したこともあるが、結局今のようにバラバラで家を出る方が都合が良いという結論に達していた。
「行ってきます」
 先に家を出るのは片桐だ。克哉はその後で戸締まりを確認して家を出る。一時期に比べて暖かくなってきたとはいえ、朝の風はまだ冷たさを残している。かといってコートを着るほどでもないと、克哉はマフラーを緩く巻いた格好で駅まで歩いていく。
 ふぁああ、とあくびをかみ殺そうと唇を動かした時、再びピリッと上唇が切れたような痛みを感じた。それで、今朝片桐がリップクリームを買うよう勧めてくれたことを思い出した克哉は、途中いつも利用しているコンビニでコーヒーに加えてリップクリームを買った。無香料の一番安いやつだったが、機能的には問題ないだろう。
 いつもの電車に乗って、会社にたどり着くと当たり前だが既に片桐がそこにいた。おはようございます、と挨拶をして、自席に鞄を置こうとしたとき、机の上に小さな袋が置かれている事に気が付いた。咄嗟に片桐の方に視線を向けたが、お茶でも淹れに行ったのか、そこに片桐の姿はなかった。
 袋を手に取り中を確認すると、中に未開封のリップクリームが入っていた。それを見て、これを置いた人が片桐である事を確信した克哉は、片桐を追いかけて給湯室へ向かう。
 果たして、片桐はそこにいた。克哉がいつも使っているカップをお盆の上に乗せ、急須で茶を注いでいる所に、後ろから抱きつくと、ひゃっ、と短い悲鳴が上がる。
「か、さ、佐伯くん」
「これ、あなたが買ってきてくれたんでしょう?」
 片桐の目の前に先ほど袋から取り出したリップクリームを差し出す。片桐はそれを見て、こくりと小さく頷いた。
「早く君の唇が治れば良いと思ったから」
「どうしてですか?」
「それは……痛いだろうし、傷は早く治るに越したことはないでしょう」
「本当にそれだけですか、片桐さん」
 克哉は徐に手にしたリップクリームの蓋を取ると、自分の唇にそれを塗っていく。特に唇が傷ついている部分には念入りに擦り込んだ所で、片桐を解放すると、代わりに顎に手を添えて上を向かせる。何をされるのか悟った片桐は抵抗したが、意に介さずそのまま口づける。冷たいミントで固められた唇が、片桐の熱でじわりと溶かされる。
 そのまま舌を差し入れてしまいたい衝動をぐっと堪えて、克哉は唇を離した。
「……俺とこういう事をしたくて、早く治って欲しいと思っているんだろう?」
 片桐は真っ赤な顔をして克哉を見ていたが、克哉の表情が変わらない事を悟ったのか、そのうち諦めたように溜息を吐いて、小さく一つだけ頷いた。
「仕方のない人ですね」
「ごめんなさい」
「あなたが謝る必要なんか無い。俺は嬉しいんですよ、片桐さん」
 段々欲望に忠実になってきているあなたを見ることが出来て、と言えば、片桐はますます顔を赤くするのだった。
 ちろりと唇の傷を舐める克哉は、まるでそんな片桐をどんな風に頂こうかと舌なめずりしている狼とよく似ていた。