熱中症



 よく晴れた、とても暑い日だった。
 克哉は人気の少ない住宅街を歩いていた。暑いからか、それともまだ時間が早い所為かは知らないが、辺りに人の姿は殆ど見あたらなかった。ひっきりなしに流れる汗を鬱陶しく思いながら、片桐の家まで歩いていく。
 途中、コンビニへ寄り、片桐に頼まれていたお茶とジュースを買う。何でも昨日の夜冷たい飲み物を作り忘れて家にないとかで、買ってきて欲しいと言われたのだ。
 ついでに自分の煙草を買おうと思って、思い止まった。片桐の家は彼が大切にしているインコがいて、あまり煙草の煙を吸わせたくないという話を聞いていたし、片桐も煙草を吸わないので、いつも外で吸っていたのだ。が、この炎天下の中、外で煙草を吸うことには少し躊躇いがあった。
 別に吸わなければ困るほどヘビースモーカーでもない。それに煙草が完全に切れていた訳でもないので、もし足りなくなれば何処か別のところで買う事にして、袋に詰められた頼まれ物を手にすると、コンビニを出た。
 涼しい店内で少し引いた汗が、再びどっと溢れる。つうっと一筋の汗が頬の辺りを流れていくのを感じた。外回りは営業の基本で、それには季節も何も関係がないから暑い中歩くことには慣れている。が、慣れてはいても流れ落ちる汗が不快なことには変わりない。
 ポケットからハンカチを取り出して汗を拭うも、すぐにまた溢れて滴り落ちていくそれに苛立っていると、ようやく片桐の家が見えてきた。コンビニの袋を持ち直して、玄関のチャイムを押す。
「はーい」
 家の中からくぐもった返事が聞こえてきて、続いて引き戸が開けられた。
「お疲れ様です、暑かったでしょう?」
「ああ、すごく暑かった。見れば分かるだろう」
「はは、そうですね。シャワーでも浴びますか?部屋は涼しくしておきましたから」
 片桐は克哉の手からコンビニの袋を受け取ると、これ、冷やしておきますね、と言ってそのまま台所へ持って行った。その後に続いて家の中に入ると、居間へ向かう。
 ふすまを開けるとひんやりとした風が克哉の頬を撫でた。炎天下で火照った身体に心地よい。冷気が逃げるのが勿体ないというように、すぐにふすまを閉めると、居間の隅にあった座布団を引き寄せ、横たわった。
「お待たせしました……あれ、佐伯くん、お疲れですか?」
 からからと氷とグラスが触れる音がする。
「ああ。暑い中歩くのは疲れるな……ちょっと、休ませてくれ……」
 酷い眠気だった。昨夜は片桐はもちろん、他の誰とも会っていないし、特段夜更かしした記憶もないのだが、急に脱力感が襲ってきて起き上がることも面倒だと思うようになっていた。頭がじんわりと締め付けられているような痛みがして、話すことも出来れば避けたい程だ。
 片桐は克哉の側へ寄ると、そっと額に手を当てた。熱があるようではないですね、と言いながら、続いて腕に触れた。片桐の手はひんやりとして心地いい。先ほどまで水作業でもしていたのだろう。
「あんたの手、気持ちいい、な」
「冷たい……佐伯くん、頭は痛いですか?」
 片桐の質問に一つ頷いてみせると、少し待っていてくださいと言い残して片桐は何処かへ行ってしまった。そのまま目を閉じて、頭の痛みが消えるのを待つ。
 再びふすまの開く音がして、片桐が戻ってきた。なにやらがたがたと物音がしているが、起き上がって見るような気力も無く、ただ片桐が立てる物音だけを聞いていたが、そのうち、クーラーとは違った風が克哉の身体に当たるようになった。ぶぅん、と独特のモーター音に、そこでようやく片桐が扇風機を持ってきたのだと知った。
「少し頭を持ち上げますよ」
 克哉の傍に来た片桐がそんなことを言った。と次の瞬間、後頭部に手が差し入れられ、軽く持ち上げられる。そして、再び下ろされたとき、首の後ろにひやりと冷たい感触がした。氷枕らしい。
「どうしたんですか、そんなに……」
「黙って。少し休まないと」
「休んでいるじゃないですか」
「あまりに頭痛と身体の怠さがおさまらないようなら、病院へ行きましょう。佐伯くんは、恐らく熱中症に掛かっています。確かに今日は暑いですから、無理もないと思いますが……」
 こんなことになるなら、僕が君の家に行けば良かったと、片桐は声を震わせた。責任を感じているのかもしれない。片桐らしいが、こんな事で泣かれては困る、と克哉は思った。
 腕を動かされ、脇の下にも小さな氷枕らしいものが当てられた。そして、自分の名前を呼ぶ声にうっすら目を開けると、目の前にストローが差し出されていた。どうやら飲めということらしい。しかし、あれから身体の怠さは更に酷くなり、今の克哉には僅かに身体を起こす事すら面倒に思えた。
「飲めません」
「駄目です。水分を取らないと」
「起き上がれないんですよ。……そうだ、口移しで飲ませてください」
 克哉の依頼に、片桐は何を考えているんだ、という表情をした。しかし克哉は至って真剣な表情で、じっと片桐の方を見る。どさくさに紛れて普段片桐の方から滅多にしてもらえないキスを強請った、という少しよこしまな気持はあったにしても、今の克哉には片桐を抱くような体力は残っていない。それ以上のことは出来ない筈だった。
「お願いします」
 もう一度頼み込めば、ようやく諦めたのか克哉の前に差し出したストローが引っ込められた。代わりにコップは片桐の口元へ移動し、中の液体を一口、口に含んだ。
 ゆっくりと片桐の顔が近づいてくる。唇が重ねられ、片桐の下が克哉の唇をノックする。口を開けろと言っていることに気づいて、克哉はゆっくりと唇を緩めた。口内で温められ、生温くなった液体がゆっくりと克哉の口内を満たしていく。スポーツドリンク特有の、甘い味がした。
 続けて二度、三度、と片桐から口移しでスポーツドリンクを与えられる。飲み込んだ液体が身体に浸透していく度に少しずつ体力が戻ってきたような錯覚に襲われる。どれだけ飲ませる気が知らないが、口づけが七回を超えた頃になって、克哉にようやく回復の兆しが見え始めた。
 九回目、片桐がスポーツドリンクを渡し終えて唇を離そうとした頃を見計らって、逆に舌を侵入させた。突然の事で片桐の反応が一瞬遅れたのをいいことに、傍にあった手首を掴んで逃げられないように固定する。
 口内に残った一滴すら逃さないと言わんばかりに、克哉の舌が片桐の口内を余すところ無く撫でていく。そして最後に奥へと引っ込んでいた片桐の舌を見つけると、執拗に絡め取った。唾液が溢れて片桐の口端から克哉の口へと伝い落ちていく。
「っ、は、はぁ、佐伯くん、何を」
 ようやく解放してもらえた片桐は、口の端を手の甲で拭って、克哉を見た。目を開けていられるほどには回復していた克哉は、口角を少しだけ上げて笑った。
「片桐さんが飲ませてくれたお陰で、少し楽になりましたよ」
「それは良かったです。が」
 暗に、口づけをするつもりはなかった事を滲ませながら、片桐は残ったドリンクをどうするべきか悩んでいるようだった。
「最後まで飲ませてくれませんか」
「でも、もう大丈夫ならストローから飲んだ方が早い……!?あっ」
 ぐい、と再び片桐の手首を握りしめる。そしてもう一度、お願いしますとあくまでも言葉だけは下手に出て、克哉は再度強請った。
 仕方ないですね、と溜息を吐いた片桐は、僅かに残ったスポーツドリンクを全て口に含むと、今までと同じように克哉に口づけた。今までよりも少し多い量のそれを全て飲み込んだ後、先ほどのように舌を動かそうとしたその時、逆に片桐の舌が克哉の口内に侵入してきた。
 予想外の展開に驚いているうちに、先ほど克哉が片桐にしたように舌が絡め取られる。何時の間に上達したのだろう、と考えていると、ようやく唇は離れていった。
「……仕返しです」
 ほんの少しだけ苛立ちを滲ませた声で片桐は言った。そして、
「きちんと回復するまで、そこで休んでいてください。僕は違う部屋にいますから」
「何故ですか。一緒にここにいればいいだろう」
 片桐は空になったコップを手にして、立ち上がろうとする。突然態度を翻した片桐に困惑しながらも、克哉は尋ねた。
「……だって、君と一緒の部屋にいると、我慢できなくなりそうで……だから」
 片桐は少しだけ顔を紅くしながら、しかし照れている事を隠すように、普段よりもほんの少しだけ早口でそう言った。何が我慢できなくなるのか、とまだ七割ほどしか稼働していない頭で考えて、その意味を悟った瞬間、克哉は驚きで声が出なかった。全く、今日は驚かされてばかりだ。
「そうですね……我慢できないなら、自分で慰めてください。ただし、この部屋で」
「嫌です、そんな恥ずかしいこと、出来ません」
「あんた、さっきの発言、相当恥ずかしい事を言ったってことに、気づいてないのか?自分で我慢できない、って言ったんだぞ」
「そ、それは、我慢出来なくなる、と言っただけで、別に……」
 だから、と克哉は片桐を見た。ちょうどの具合に隠されていて見えないが、恐らく片桐の下半身は既に熱を持ち、硬くなり始めているのだろう。キスごときで、と思ったが、そういう身体にしたのは克哉自身だ。文句を言う筋合いなど無い。
「俺の体調が戻ったら、もう嫌だと言いたくなるくらいに抱いてあげますから」
「い、いいよ、別に」
「それなら、この部屋にいてくれますか」
「……分かりました。この部屋にいますから。佐伯くんは早く元気になって下さい」
 片桐は諦めたように笑うと、克哉の頭の上側に座り直した。そして、ゆっくりと克哉の髪を撫でる。
「それに、無理をして悪化でもしたら、僕はどうすればいいのか」
「大丈夫だ。こんな事であんたの前からいなくなったりしないさ」
「うん……分かってる、けど」
 さあもう少し眠ってください、と促され、克哉は再び目を閉じた。先ほどのキスで体中が熱くなっていたのは克哉も同じなのだが、その熱は冷やされた氷枕と、そして髪を撫でる片桐の手で、ゆっくりと冷やされていった。
 元気になったら、約束通り抱いてやろう。その思いと一緒に、克哉は眠りの底へと落ちていった。