握られた手の温度



 一緒に会社を出る。それがどれだけ片桐にとって勇気が必要なことか、克哉は知らないのだ。
 半ば強引に手を引かれながら、片桐はまともに顔を上げることが出来なかった。

「片桐さん。出ましょう」
 書類を持った克哉が片桐の席に近づいてくるのを見て、契約書のチェックを頼まれるのだと思っていた。だから、行動と全く異なる克哉の発言に、片桐は克哉の意図を理解することが出来なかった。
「どういう意味ですか、佐伯くん」
「もう帰りましょう、と言っているんです。今日はあなたの誕生日でしょう?」
「そう、ですけど」
 まだ八課には何人か仕事を続けているメンバーがいる。年度末の決算を控えた八課は忙しい。彼らを残して帰ってもいいものか、と逡巡していると、克哉は僅かに苛立ちを滲ませて、片桐に言った。
「おいしいお店を予約してあります。だから」
「でも」
「あなたは、俺の誘いを断るんですか?」
「そんなこと……出来るわけが無いじゃないですか」
 そうだ、出来るはずがない。それを克哉は知っている。知っていて、こうして無理な誘いをしてくるのだ。
 のろのろと机の上を片付け始めた片桐を見て、克哉は僅かに微笑むと、わざと皆に聞こえるように、あれ課長、今日はもうお帰りですか、と言う。それに気づいた本多が、あ、お疲れ様でした、とあっさり言うのを聞いて、僅かながら心が軽くなった。
 自分の湯飲みを洗おうと給湯室へ立つと、後ろで本多が克哉に、あれ、おまえも帰るのかよと言っているのが聞こえた。それで再び片桐の心臓が跳ねる。本多に怪しまれているのではないか、と。克哉が何か言いかけたようだが、それを最後まで聞く勇気は片桐にはなかった。そそくさと部屋を後にする。
 湯飲みを洗って部屋に戻ると、扉の前に既にコートを着て鞄を持った克哉が立っていた。
「片桐さん。早くしてください」
「あ、ご、ごめんなさい」
「待っていますから。早く」
 こくりと頷いて、片桐は手にした湯飲みを片付けると、既に準備が出来ていた鞄とコートを掴み、本多を筆頭にまだ残っているメンバーに挨拶をして部屋を出た。
「行きますよ」
 まって、コートを、と克哉を制止しそれを羽織った。もうすぐ三月とはいえ、まだ風は冷たい。夜にスーツ姿で外を歩くのは風邪を引きたい人だけだ。
 エレベーターホールまでは誰にも会わなかった。二人で降りてくるエレベーターを待っていると、不意に手に暖かさを感じた。視線を落とせば、克哉の手に握られた自分の手が見える。
「さ、佐伯くん……こんなところで」
「誰もいませんよ」
 それはそうなのだが、誰がが来たときの事は考えないのだろうか、と思う。一緒に会社を出るだけでも恥ずかしいと思ってしまう片桐には、些か刺激が強すぎる。
 こうして克哉に触れられることが嫌なわけではない。ただ恥ずかしいだけだ。
 帰宅時間帯だけあって混雑しているのか、エレベーターはなかなか止まってくれない。その間、誰かに見られるかもしれないというスリルと、暖かいぬくもりに片桐は翻弄されていた。
 ぽーん、と音が響いて、エレベーターの扉が開く。幸か不幸か、中には誰もいなかった。克哉は当たり前のように、片桐の手を握ったままそれに乗り込もうとする。片桐は引っ張られるようにエレベーターの中へ足を踏み入れた。
「佐伯くん、今日はどこへ行くんですか?」
 密室になって初めて、片桐は僅かながら落ち着きを取り戻した。ここならば誰かが乗ってこない限りは人目を気にする必要はない。
「秘密です」
「教えてもらえないんですか?」
「楽しみが無くなるでしょう?」
 そこまで克哉が隠す理由がなんなのか、片桐には分からない。が、これ以上尋ねても教えてもらえそうになかったので、黙ることにした。
 二人を乗せたエレベーターは、他の階に停止することなく一階までたどり着いた。扉が開くときも克哉に手を握られたままだということに片桐は焦ったが、克哉はお構いなし、というようにそのまま片桐の手を引いてエレベーターから出て行く。
「お疲れ様です」
 守衛が二人を見て会釈をする。克哉もそれに応えるが、片桐は彼の顔をまともに見ることが出来ない。お疲れ様です、と震える声で返事をしながら、早くこの場を立ち去りたいという思いで頭がいっぱいになっていたのだから。
 克哉はキクチの社屋から大通りまで出ると、タクシーを捕まえた。それに押し込められた片桐は、隣に座った克哉が口にした場所を聞いて我が耳を疑った。克哉が口にした場所、それは流行に疎い片桐ですら知っている、高級ホテルだったのだから。
「佐伯くん、君は……」
「たまにはいいでしょう?あなたの家で祝うことも考えたんだが……」
 とにかく今日は俺に任せてください、という言葉に、片桐は頷くしかなかった。

 到着したホテルにあるレストラン、その窓際に二人は座っていた。小高い場所にあるそこは、階数はそれほど高くないけれど、街が広く見渡せる。
 片桐と言えば可哀想になるくらいがちがちに緊張している。その様子を面白げに眺めている克哉は片桐と対照的にその場に馴染んでいたし、余裕にすら見えた。
「片桐さん。そんなに緊張しないでください。せっかくの料理です。それに、ここからの夜景は絶景ですよ」
「で、でも、僕はこんな所来たことがなくて……」
「それなら、慣れればいい。何度も来ていればそのうち慣れます」
 そうこうしているうちに運ばれてきた料理を一品ずつ味わっていく。最初のうちは恐る恐る手を付けていた片桐も、その味に目を見張った。食材の生臭さは一切無く、きちんと調理されていることが伺える味だった。輪郭がはっきりしながらも、自己主張の激しいものはなく、全てがきちんとまとまっている、そんな料理ばかりだ。
「どの料理も、おいしいものばかりですね」
 メインディッシュにナイフを通しながら、片桐はようやく笑みを浮かべた。
 そう言う片桐に克哉は満足そうに微笑み返す。ワイングラスに注がれたワインを口に含めば、思いの外飲みやすい味に驚いた。さすが有名になっているだけあると思う。そして、さぞかし予約を取るのが難しかっただろうとも。
 アルコールと料理で緊張が緩んだ片桐は、ようやく普段通りに克哉と会話することが出来るようになった。克哉と二人で食事をしていることの羞恥心も、いつの間にか消えていた。
 窓の外を見る余裕も出来て、あの場所は何があるとか、自分の家はどの方向だとか、他愛ない話をしていると、不意に名前を呼ばれた。
「稔さん」
「はい?」
「お誕生日、おめでとうございます」
 克哉がそう言うと、ウェイターが小振りのケーキを持って二人のテーブルに近づいてきた。そっと置かれたそれには、細いロウソクが一本刺さっており、皿の周囲がチョコレートソースとフルーツソースでデコレートされている。
「あの、僕は……」
「消してください」
 促され、片桐はケーキの上で燃える小さな炎に向かって息を吹きかけた。僅かに揺らめいて消えたと同時に、克哉がもう一度、誕生日おめでとうございます、と言ってくれた。
 ケーキのロウソクを消すなんて、何十年ぶりだろう。まさかこの年になってそんな祝い方をしてもらえるなど思いもしなかった片桐は、場所も何も関係なく、目尻に涙が浮かぶのを止めることが出来なかった。

***

 絡み合った指が乱れたシーツの隙間から覗いている。
 腕に痺れを感じて僅かに身動いだ片桐は、そこが我が家ではなく、克哉の部屋でもない事に思い至るまでに少しの時間を要した。
 食事を終えた後、当たり前のように部屋を取ってありますから、という克哉に、片桐はその用意周到ぶりにもはや溜息しか出なかった。新しいプロジェクトを担当し、毎日遅くまで働いている克哉に、どうしてそんな余裕があるのだろうかと不思議でならない。
 スプリングの効いたベッドは広く、二人が横たわってもまだ余裕だ。その上で、二人身体を寄せ合って眠っていた。こんな時くらい広く使えばいいのだが、いつも克哉の部屋の狭いベッドか、もしくは片桐の家で一人分の布団で一緒に眠る所為でついた癖らしい。そんな自分たちが可笑しくて、片桐は笑みを浮かべる。
 すぐ側に克哉の顔がある。克哉に言ったら機嫌を損ねるだろうが、安心しきった表情で眠る顔は、年相応に可愛らしいとすら思えた。年下の、でも自分よりもよほどしっかりしている恋人が愛しくて仕方がない。
「……克哉くん、ありがとう」
 もうすぐ誕生日が終わろうとしている。幸せな気持ちをくれた克哉に感謝しつつ、絡み合った指から伝わる温もりを逃がさないように僅かに湿ったそれを握り直して、片桐は再び目を閉じた。