耳朶にキス



 休日に克哉と共に過ごすのは、実は久しぶりの話だった。
 先週は本多が遠征で不在、先々週は克哉が出張のため不在。平日は顔を合わせていたものの、休みが合わないとどうしても一緒に過ごす時間は少なくなる。
 エスプレッソマシーンでコーヒーを淹れている克哉の気配を背中で感じながら、本多はソファーで横になっていた。起きたばかりで眠いというわけではないのだが、何となく目を閉じてみる。
 視界が遮られた分、その他の感覚が敏感に周りの状況を察知しようとする。克哉の足音、食器がぶつかる音、エスプレッソマシーンの水音。普段なら気にならない程度の音が耳に飛び込んできて、何だかくすぐったいような気分にさせられた。
 克哉と住んでいるのだと、改めて思い知らされたような気がする。
「本多、お前も飲むか?」
 克哉の声が聞こえ、本多は飲む、と短い返事を返す。分かった、という返事と共に、もう一つカップが取り出される音がした。
 そのうち、カップを持っていると思われる克哉の足音が聞こえて、急に気配が近くなった。そろそろ起きるか、と本多が思うよりも早く、克哉のつけているオーデコロンの香りがふわっと漂った。その事に本多が気づいた頃には、唇に柔らかいものが押し当てられていた。
 重ねるだけでは飽きたらず、克哉の舌が本多の唇を割り裂いて口内へと侵入する。こいつ、コーヒーカップを持っているんじゃないのかと思いながらも、舌を絡め取られ、歯茎の裏を舐められた瞬間、本多の欲望に小さな灯が点った。
「っ……く、ぁ、なに、すんだよ」
 ようやく離された唇が最初に発した言葉は悪態だった。目を開ければ、確かに克哉は両手にカップを持っている。こぼされなくて良かったという思いと、点った灯が身体の中で燻る感覚に思わず溜息を漏らす。
「目を閉じているから誘っているのだと思ったが?」
「……お前の前で寝てるヤツはみんなお前のこと誘ってるとでも思ってるのか?」
「眠ってはいなかっただろう?」
 ああ言えばこう言うとはまさにこのことだ。そう言えばここ最近口で克哉に勝ったことが無かったと思いながら、本多は身体を起こした。と同時に、目の前にコーヒーカップが置かれる。
「せっかく淹れてやったんだ、冷める前に飲めよ」
「お前……やってることと言ってることが矛盾してるぞ」
 文句を言いながら、カップを手に取って一口飲んだ。濃い苦みが口の中に広がる。以前日本で飲んでいたそれとは全く違う味だということしか本多には分からなかったが、それを言えば克哉にまた馬鹿にされるに決まっているので、黙って飲んだ。
 会話が途切れ、静かな空気が漂う。そのうち克哉がカップから口を離して本多を見た。
「……今日は何も予定は無いんだろう?」
「へ?……あ、ああ」
 突然の質問に本多は一瞬何を問われているのか分からなかった。取りあえず予定はないと告げれば、克哉は頷いて立ち上がった。
「夕飯は外で食べるぞ。店を予約してある」
「別にいいけどよ。どうしたんだ、突然」
「……お前、覚えていないのか?」
「何を」
 本多には、克哉が何を言っているのか分からなかった。その反応を見た克哉は信じられない、という顔をして、大げさに頭を横に振って見せた。
「まあいい。そういうことだから予定を入れるなよ。十七時には出るぞ」
「何だよ、教えてくれよ」
「嫌だ。覚えていないのなら、その方が好都合だからな」
 飲み終えたコーヒーカップを持って、克哉は再びキッチンへ戻っていた。一人残された本多は、大分温くなったコーヒーをちびちびと口に含みながら、今日は何の日だったか真剣に考えてみた。壁に掛けられたカレンダーを見れば、今日は四月十一日。
「……あああーーーーー!?」
「うるさいぞ、本多」
 本多の大声に顔をしかめながら、克哉がキッチンから顔を出した。
「だって、お前、今日って」
「ようやく気づいたのか?全く」
 ソファーの後ろに立った克哉が、そのまま気づかなければ夕食の時まで取っておくつもりだったんだが、と言いながら本多の耳元に口を寄せる。
「誕生日おめでとう、本多」
 そのままべろりと耳朶を舐められて、本多は自分が忘れていた誕生日を克哉が覚えていてくれたことの嬉しさで顔を真っ赤にした。それを見た克哉が楽しそうに耳元で笑うのを聞きながら。