知らない彼の姿



 本多が見上げる先に、克哉の姿がある。
 部屋の灯りが点いていたので、帰っているのだろうとは思っていたのだが、それが確信に変わったのは、煙草を持った克哉がベランダに出てきたからだ。
 克哉が煙草を吸うようになったのはここ最近の話ーーと本多が思っているだけかもしれない。いつの間にか吸っていたのだーーで、何度か止めろよと言ったのだが、聞く耳を持たないので最近はそれすら言わなくなった。
 ただ、スポーツマンである本多には配慮してくれているらしく、本多は克哉が煙草を吸っている姿をそれほど見たわけではない。特に、イタリアに来てからは殆どと言っていい。唯一覚えているのは、今は遠くなった日本の、キクチマーケティングの屋上で、煙草を片手に手すりに寄りかかる克哉の姿だった。
 克哉は本多が下にいることに気づいていないのだろう。ぼんやりと遠くを眺めていたかと思うと、手にした煙草に火を付けた。辺りは既に日が落ちて薄暗い。そんな中克哉の手元だけが、ぽっと明るく輝いた。
 一口吸い込んで、白い煙を吐く。煙草を吸う人ならば誰だってするその仕草が、様になって見えると思うのは恋人としての欲目か。
 手すりに身体を預けて、克哉はただ遠くを見ていた。本多の前では決して見せない表情に、胸がちくり、と痛んだ。自分はまだ克哉の全てを知ったわけではないのだと思い知らされた気がした。
 その時、一瞬克哉が本多の方を見た。なんとなく、そのまま気づかないのではないかと思っていた本多は、少し慌てた。そして、ここから手を振るべきか、と思い至ったその時には、既に克哉の視線は他に向けられていた。
 あれ、俺に気づいた訳じゃなかったのか、と拍子抜けする。
 気づいて欲しかった気もするし、自分の知らない表情をする克哉を見ていたい気もしたが、そんな本多の迷いを吹き飛ばすように、この季節にしては冷たい風が吹き抜けていった。
 早く家に入ろう、と踵を返す。入り口は本多が今居る場所から正反対の位置にあった。いつもより早く足を動かして、入り口を目指す。共同玄関の両サイドに備え付けられたランプには既に灯りが点っており、たった数分の間に、辺りは真っ暗になっていた。
 普通に階段を上がるのももどかしい。二段とばしで三階までの階段を駆け上がると、本多は取り出した鍵を少々乱暴に鍵穴に差し込んだ。がちゃがちゃと耳障りな音がして、鍵が開く。
「ただいま」
 本多が移動する僅かな間に、克哉もまた部屋の中に引っ込んだようだった。リビングからテレビの音が微かに聞こえている。
「おかえり」
 リビングに入ると、克哉は気に入りのソファーに腰掛けて雑誌を読んでいる最中だった。先ほどまでベランダの外で煙草を吸っていたとは思えない程、自然な様子だったので、本多は一瞬、先ほど見た克哉は別人か、それとも目の錯覚だったかと思いたくなった。
「早かったな。もっと遅くなると思っていたが」
「今日は調子悪くてよ……早めに練習が終わったんだ」
「そうか。夕飯はどうする?食ってきたのか?」
 雑誌を閉じて、後ろに立ったままの本多を見上げる克哉は、やはりいつもの克哉だった。ぼんやりしている本多に訝しげな視線を向けて、おい、と返事を促してくる。
「具合でも悪いのか?」
「いや、そんなんじゃねぇけど」
「では何だ。そんなところに突っ立っていないで座ったらどうだ」
「ああ」
 言われるがまま、克哉の隣に座ると、なんとなく思いつきで再び雑誌に意識を戻した克哉に抱きついてやった。本多のその行動は予想外だったのか、あっさりと倒された克哉は驚いた表情で本多を見上げた。
 克哉の口が歪んだかと思った次の瞬間、本多はあっさりと体勢を逆転された。体つきはどう考えても本多の方が上なのに、こういったことで克哉に勝てた例がない。
「……何か言いたいことでもあるのか、本多」
「何も。ただ、なんとなく抱きつきたかっただけだ」
「抱いて欲しいのか?」
「どうしてそうなるんだよ!」
「俺にはそう聞こえた」
 そう言って唇を近づけてくる克哉を必死で押さえながら、先ほど見た「本多の知らない克哉」の姿を探す。が、目の前にいて自分を押し倒しているのはどう見てもいつもの克哉だ。本多のよく知る、恋人の佐伯克哉。
 首元をはい回る唇の感触に背筋を震わせる。微かな笑い声が聞こえた。
「さっきは下で何をしていた?」
「下、って、おまえ、気づいてたのかよ!?」
 やっぱりあれは克哉で自分の見間違いではなかった事に安堵しながらも、見られていたことが恥ずかしくて、本多は声を荒らげた。が、克哉は涼しい顔をして、
「当たり前だ。お前みたいなでかい男がぼんやりしながら立っていれば嫌でも目立つ。……それとも、俺が気づいていないと思っていたか?」
 クックックと声を殺して笑う克哉に、本多は無理矢理その笑いを封じようとキスをする。
「……煽るな、本多」
「うるさい」
 今度は克哉からキスされた。口内に舌が侵入してきたとき、僅かに煙草の匂いがした。