084:鼻緒(テニスの王子様 リョーマ→真田)



 それは偶然の再会だった。
「あ、真田さん」
 ヒグラシの鳴り響く、夏の夕暮れに近い時間。不意に声を掛けられて、一体誰かと辺りを見回せば、真田の視界の少し下に帽子を被った少年の姿があった。
「……今あんた、オレの事見えてなかったでしょ」
「い、いやそんな事はない。突然声を掛けられて驚いただけだ。……何用だ、越前リョーマ」
 図星を突かれたことによる僅かな動揺を悟られた事が恥ずかしく、真田はわざと咳払いをして、越前の前に立った。こうして近づくと、その身長差がなお際立つ。
 それが面白くないのだろう、越前はむっとした表情で、真田を睨み付ける。
「言っとくけど、オレだっていつまでも小さいわけじゃないっすから」
「分かっている。俺とてこの身長になったのはここ数年のことだ……それで、」
 何故声を掛けたのだと再度訊ねる。すると越前は、いや、たまたま真田さんの姿が見えたから、だと悪びれもせずにそう言った。つまり、何か用事があって声を掛けたわけではない、ということだ。そもそも約束をして顔を合わせたわけではないのだから、越前が自分に対して何か用があるとも思っていなかったが。
「そうか。それなら、失礼する」
 真田は家族に頼まれた使いの途中だったことを思い出した。あまり遅くなってはまずいと、手にしたスーパーのビニール袋を持ち直し、踵を返す。
「いや、待ってよ。ごめんごめん、ちゃんと用事あるから」
「ほう? だが俺はお前と約束などしていないが」
「約束がないと会えないってこと、ないでしょ?」
「……まあ、それもそうだが。それで、用事というのは」
 歩みを止めない真田の横に越前が並び、同じ歩調で歩く。こうして並んで隣を見ても、身長差と、越前が被っている帽子のつばが邪魔をして、表情は見えない。
「オレと一緒にどっかいこうよ」
「は?」
 それは思いも寄らぬ発言で、真田は思わず足を止めた。
「何故お前と俺が一緒に出かけると言う話になるのだ」
「だから、誘ってるんじゃん。良いでしょ、真田さん」
「俺にも都合というものがある」
「都合悪いの? 誰か他の人と約束でもしてた?」
 越前の目がまっすぐに真田を射貫く。見上げられることで露わになった表情は、とても真田をからかっているようには見えない。だが、真田にはどうして越前が、他校でありそこまで関わり合いになったこともない真田を誘うのか、その理由がよく分からなかった。
「……何故、俺なのだ」
「オレが真田さんと一緒にいたいと思ったから。それだけ」
「お前の考えている事が、俺にはさっぱり分からん」
 ため息と共に、真田は再び歩き出した。この先の角を曲がれば程なく自宅にたどり着く。越前の誘いを受けるにしろ断るにしろ、まずは先に使いを頼まれたものを家族に渡さなければならない。
「ねえ、それで、どうなの?」
 なおも返事を求める越前に、真田はどうしようか悩んだ。夏休みも終わりが近いが、宿題はとっくに終わっており、急いで片付けるような事もないし、誰かと出かける約束もなかった。
「……分かった。一緒に出かけてやる。だが、まずはこの荷物を家に置いてからだ」
 真田の返事に、越前は分かった、と頷く。その声が心なしか弾んでいるように聞こえて、おかしなやつだ、と真田は首をかしげた。


***


 家に着いた真田は、手に提げていたビニール袋を台所にいる母の所へ持って行った。が、何処へ行ったのか、母の姿はない。
「母さん、戻りました」
 そう声を掛けるが、返事もなかった。急用でどこかへ出かけたか。仕方なくビニール袋を台所の作業台に置くと、越前を待たせている玄関へと戻った。
「用事終わった?」
「ああ。それで、お前は俺と何処へ行きたいというのだ」
「何処でもいいけど」
「貴様、自分で誘っておきながら行き先は俺に決めろというのか」
「言ったでしょ、オレは真田さんと一緒ならどこでもいいんだって」
「だが、これから出かけると言っても、あまり遅くなってはお前の家族も心配するであろう」
 その時、弦一郎、と母の声が聞こえてきた。
「母さん」
「お使いありがとう。勝手口の方にいたのだけど、気付かなくてごめんなさいね。……こちらは?」
「あ、ああ、越前リョーマ、くんだ。東京の、青春学園でテニスを」
「越前リョーマです」
 越前は帽子を取ると、ぺこりと真田の母に向かって頭を下げた。
「青春学園って、手塚さんの国光君と同じ学校かしら?」
「そうだ。彼は手塚の率いるテニス部の一年で」
「そうなの」
 手塚の名が出た所で、真田の母は納得したのだろう、どうぞごゆっくり、と微笑んで、再び家の中へ戻っていった。
 再び二人きりになった玄関で、越前が小さな声で笑った。
「越前リョーマくん、って」
「わ、笑うな」
「似合わないっすね。そういう口調」
「うるさいわ」
「……でもさ、手塚部長の名前が出てくるとは思わなかった。部長、よくここに来るの?」
「いや、ここ数年は来ていない。手塚のお祖父様と俺のお祖父様が知り合いで、昔何度か来たことがあるだけだ」
「ふーん」
 越前は何か言いたげではあったが、それ以上互いの口から手塚の話が出ることはなかった。
 その時、一度は台所へ戻った真田の母が、再びやってきた。
「弦一郎、今日は花火だけれど、越前君と一緒に見に行く?」
「花火?」
 越前がそう言うと、真田の母は頷いて、
「そうよ。近くの港で打ち上げられるの。規模はそれほど大きくはないけれど。一緒にいくのかと思って」
 ちらりと、真田が越前の方を見た。真田自身花火の事を失念していた事もあり、どうして良いか分からなかった。花火を見るとなれば帰宅も遅くなるだろうし、越前は家族に何と言ってここまで来たのだろう。
「おい、越前」
「はい、一緒に見ようと思って」
 真田の声を遮るように、越前が返事をした。
「そうだ、それならば弦一郎の浴衣を貸しましょうか。昔のものがあるから」
「か、母さん」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん」
 用意してくるわね、と言って奧へ向かった真田の母はどこか楽しそうだ。母の姿が見えなくなったところで、真田は越前に、大丈夫なのかと尋ねた。
「何が?」
「帰宅時間が遅くなるだろう」
「大丈夫、電話するし。それに、真田さんに会いに行くって言ってあるから」
「何だと!? お前、俺に会える保証もなかったというのに、よくもまあそんな事を言ってこられるものだな」
「でもこうして会えたし。オレ、真田さんに会えるような気がしてたんだよね」
 だから結果オーライだと笑う越前に、真田はいよいよ頭が痛くなってきた気がした。


***


 真田が昔着ていたという濃紺の浴衣を身につけたリョーマはどこか不満げだ。
「何だその顔は」
「だって、これ真田さんが小学生の時の浴衣だって」
「……仕方が無いだろう。それが一番身長に合っていたのだから」
 そんな事で拗ねるなと言いながら、真田はすっかり越前と過ごす事に違和感を覚えなくなっていた。全くの初対面ということもないからか、不思議と気詰まりすることもない。
 家からも花火が見えるのだが、より眺めの良いところがあると言って、真田は越前を連れ出した。下駄も真田家にあったものを貸してもらった越前と並んで歩けば、カラコロと音が響く。
 夏も終わりに近づき、日が暮れるのが少しずつ早くなってきている。目的地に着く頃には辺りはすっかり暗闇に包まれていて、街灯が少ない場所ということもあって、すぐ側にいる越前の表情を伺う事も困難なほどだった。
「もうじきだ」
 高台にある公園までやって来た二人は、視界が開けた場所にあるベンチに腰を下ろした。誰か先客がいるかと思っていたが、今日は他の人の姿は見当たらない。
 何を話すわけでもなく、二人はただ花火が打ち上げられるのを待っている。生活音が聞こえない分、虫の鳴き声があちこちから響いてうるさいほどだ。
「真田さん」
 不意に名を呼ばれたことで、心臓が跳ねる。
「な、なんだ」
「足、痛いんだけど。親指と人差し指の間」
「……見てやる」
 動揺した自分を恥ずかしく思いながら、真田はベンチに座った越前の足下に跪くようにして、足を下駄ごと持ち上げる。暗くてはっきりとは見えないが、おそらく鼻緒ずれになっているのだろう。
「花火が終わるまではここから動かないから、下駄を脱いでおけ。帰りも痛むようなら、家まで背負ってやる」
「えっ、やだよ。格好悪い」
「そんな事を言っている場合か。このまま歩けばより酷くなるぞ」
 そう言って、真田は越前を見上げた。その時、初めて真田は越前の顔を見たような、そんな気がした。暗い中、表情もよく見えないというのに、そこにある目がぎらりと光って、はっきりと、真田を捉えている。
 この視線を、真田は以前にも受けた事があった。それは、関東大会の決勝、まだ真田が優勢だった時に、ネット越しに向けられた視線と同じ。
「真田さん、オレ、真田さんのこと好きだ」
「……何を言ってる」
「オレ、夏が終わったら、アメリカに戻るんだ。だから、戻る前に言っておきたかった。あんたのことが好きだって」
「……言う相手を間違っているのではないか。そういう事は、俺ではなく、誰か他の……女子にでも言えばよかろう」
「オレが言ってること、本当だって信じてくれないの?」
「誰が信じるか」
「オレは、関東大会の決勝で、あんたと戦ってからずっと、そう思ってた」
「冗談も大概に」
「冗談じゃないって言ってるでしょ!」
 越前が声を荒らげた。はっとして顔を上げた真田の後ろで、何かが光った。と同時に、ドンと鼓膜を震わせる大きな音が耳に届く。花火が上がり始めたのだ。
 花火の光に照らされて、越前の表情がよく見えた。目は確かにしっかりと真田を捉えて、今にも突き刺さりそうな程尖っているというのに、顔の表情は何故か今にも泣きだしそうに見えた。
「越前……」
「どうしたら信じてもらえる? オレの気持ち、嘘じゃないって」
 震える越前の声を聞いて、真田は口を噤んだ。
 本当は嘘なんかじゃない事は分かっている。真剣な眼差しを見ればすぐ分かることだ。だが、越前の告白を嘘にしてしまいたいのは、ひとえに真田の都合だった。
「……お前の気持ちは、一過性の熱のようなものだ。日本を離れ、アメリカで強豪達と打ち合えば、俺の事など忘れるだろう。だが、俺は……」
「何を心配してるの? 真田さんのこと、忘れるわけないじゃん。忘れられるような気持ちだったら、記憶を無くした時に思い出せなかったはずだ。でも、オレは覚えてた。あんたが見せてくれた風林火山を見た時に、記憶と一緒にあんたへの気持ちも思い出した」
 だから、と答えを迫る越前に、真田は首を横に振って見せる。
「……しばし、考える時間をくれ。お前が関東大会から今日まで思い悩んだというのであれば、俺に考える時間が無いのは不公平だと思わないか。自分の気持ちに、そう簡単に答えを下すことなど、俺には出来んのだ」
「分かった。次に会うときに、返事が欲しい。でも、それがいつかはオレにも分からないけど。それでもいい?」
「ああ、今すぐでなければ、十分だ」
 仕方ないね、と越前は肩をすくめて見せた。真田はしゃがんだままの姿勢から身体を起こすと、再び越前の横に並んで腰掛ける。
 花火は絶え間なく打ち上げられ、夜の空を彩り続けた。だが、空気は既に秋の気配が漂い始めている。真田にとって中学時代最後の夏は、忘れられない出来事が多すぎると、花火を見ながら考えていた。


***


 結局鼻緒で足を痛めた越前を背負って帰宅した真田は、玄関で下駄を脱がせると、皮が剥けた指の間を消毒し、絆創膏を貼ってやった。
「帰りは靴だから、これで問題は無いだろう」
 出来たぞ、と顔を上げると、越前の視線と真田の視線がかち合う。
 ふっと越前の表情が緩むと、
「真田さんを見下ろすってなかなか新鮮」
「た、たわけが」
 ふざけたことを言うなと立ち上がろうとした真田より早く、越前が動いた。真田の両肩に手を置いて、自分の上半身を近づけると、額に軽く口づける。
「貴様……! 何をする!」
「オレが日本に戻るまでの間に、誰かに取られたりしたら嫌だからね。あんたは、オレのもの。必ずそうなるから」
「まだ返事もしてないだろうがこのたわけ者が!!」
「いーや、絶対そうなるよ。だって真田さん、オレのことまんざらでもないと思ってるでしょ?」
 自信満々の越前に、真田は唸るしかなかった。実際の所、既に半分ほどは心が決まりかけていたのだが、年上としてのプライドだとか、その他様々な思考が邪魔をして、素直に頷けなかっただけだ。
 だが、今の時点でこれでは、この先、承諾してもしなくても、越前に振り回されて苦労することになりそうだと、真田は内心ため息を吐いた。