071:誘蛾灯 (テニスの王子様 手塚×真田)



 ひとたび試合をしている姿を見れば、忘れることの出来ないその姿に否応なしに惹きつけられる人がいる。
 その魅力は、勝手に彼に敵対心を覚えているライバルの多さからも明らかで、お前も苦労をするなと言いたくなる位だった。
 だが、安易に近づいて勝負を挑もうものなら、涼しい顔であっさりと倒される。それだけの強さがあるからこそ、自分も含めたより多くの人を惹きつけて止まないのだろう。今も、昔も。
 そんな事を考えながら、手塚、と自分の向かいに座ってコーヒーを飲んでいる男の名を呼ぶと、ちらりと視線だけがこちらを向く。薄いレンズに隔てられた目は、確かに真田の顔をとらえた。
「何だ?」
「いや、何でもない」
「用も無いのに声を掛けたのか?変なやつだな」
 変なやつ、という単語に真田はムッとする。
「お前ほどではないわ」
 用事が無いのなら読書の邪魔をするなと言われて、大人しく引き下がる。真田も読みかけの文庫本を取り出すと、栞を挟んでおいたページを開き、並ぶ文字に視線を落とす。数行読み始めただけで、あっという間に物語の世界に引き込まれてしまう文章を書くこの作家が、最近の真田のお気に入りだった。
 時計の針が時を刻む音と、時々手塚がコーヒーカップを持ち上げてはソーサーの上に戻す音、そして互いがページを捲る微かな音。それ以外の音はこの空間には無い。
 どれくらいそうしていただろう。太陽の光で明るかった部屋は、いつの間にか薄暗くなっていた。真田は読みかけのページに栞を挟んで本を閉じると、ぐっと身体を伸ばした。
 ふと、向かいを見れば、手塚は椅子に座ったまま眠っていた。読書の邪魔をするなと言っておきながら、自分はさっさと昼寝かと、真田は再びムッとしたが、手塚が眠ったことに気づかなかった自分も自分だと思い直して、物音を立てぬようにとそっと椅子から立ち上がった。
 テーブルに置かれたカップにはまだコーヒーが少し残っていたが、もう冷えて美味しくなくなっているだろう。夕飯の支度をするついでにと、真田はソーサーごとカップを持ち上げる。かちゃり、と陶器が触れ合う音がして、そっと手塚の様子を伺った。が、まだ目を覚ます様子は無い。ほっと心の中でため息を吐いて、真田はキッチンへと向かった。


 手塚が目を覚ましたのは、すっかり夕食の準備が出来上がってからだった。皿に盛りつけた料理を、テーブルに運ぼうかどうしようかと真田が考えている所へ、目を擦りながら現れたのだ。
「起きたのか」
「ああ。……どうして起こしてくれなかったんだ」
 眼鏡の向こうの目が、恨めしそうに真田を見る。そんな手塚に真田はふっと笑って、
「お前が気持ちよさそうに眠っているからだ。疲れていたのだろう」
「眠るつもりは無かったんだが」
「だが実際眠っていただろう」
 起きたなら配膳を手伝ってくれと真田が言うと、手塚は手前にあった大皿を手に取ると、黙ってリビングへと運んで行った。真田はその後から白米を盛りつけた茶碗と、味噌汁用のお椀をトレイに乗せて運んでいく。
 手塚は既に椅子に座って待っていた。その前に茶碗を置いて、真田も席に着く。
「「頂きます」」
 声を揃えて合掌し、夕飯を食べ始めた。食べている間に会話は特にない。時々手塚が、今日の料理は美味しいとこぼすのを聞いて、真田が嬉しそうに笑うだけだ。
 一緒に暮らし始めてから、食事は主に真田の担当になっている。最初は食べられないようなひどい料理を出したこともあったが、今ではそういう事も減った。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
 お互いが食べ終わるのを待って、ようやく食事が終わる。今日も殆ど会話らしい会話は無かった。いつだったかは忘れたが、以前幸村にどんな生活を送っているのか聞かれたので、食事中の会話が無いという話をしたら、寂しくないのかと言われたことがあった事を真田は思い出した。
「……手塚、お前、食事中に会話が無い事を寂しいと思うか」
「何だ、突然」
「以前幸村に言われたのだが……俺はそうとは思わないのだが、幸村の家は賑やかだったからな。お前の家はどうだった?もし寂しいと思うのなら、俺も多少会話をするよう心がけようと思うのだが」
 真田の提案に、手塚は首を横に振った。 「俺の家の食卓は静かだった。だから、別に寂しいとは思わない。それに、会話は無くとも、向かいにお前が座って一緒に食事をしているのだから、寂しいなどと思う方が難しい」
「……そうだな。くだらんことを訊いた。忘れてくれ」
「お前はどうなんだ、真田」
 手塚からの質問に、真田はそんな事、言うまでも無いと切り捨てる。
「お前と同じ気持ちだ」
 その言葉に、手塚の表情が僅かに緩んだ。他の人から見れば分からない位の些細な変化だが、一緒に過ごす時間が増えた時に真田は気づいた。こいつは笑わないのではなく、笑っていてもあまり顔に出ないのだと。
「そうだ、洗剤が無くなっていたが、買い置きは無いのか?」
 流しの前に立って洗い物をしながら、真田は手塚にそう訊いた。昨日洗濯機を回した際に無くなったことに気づいたのだが、言うのを忘れていたのだ。
「今使っているのが最後だが」
「何、それでは洗濯が出来ぬ」
「買いに行こう、真田」
 手塚の提案に、真田は眉間に皺を寄せた。
「行こう、ということは俺も出るということなのだろうな」
「当たり前だ。俺に一人で行けというのか」
「いくら細腕とは言え、洗剤の一つや二つ持てないような腕ではあるまい?」
「そういう問題じゃない」
 ぐい、と、手塚が真田の腕を掴む。こら、濡れるだろうが、と真田が声を荒らげても、手塚は意にも介さぬ様子で、
「一緒に行こう」
 そこまで言われては、真田に断る理由も無かった。洗い物が終わるまで待てと言えば、手塚は素直に腕を放す。掴まれた時に手元が狂って飛び散った泡や水滴を服に付けたまま、真田は洗い物を終えた。
「真田、服に泡が付いているぞ」
「ん?……全く、誰の所為だと思っている」
 さあ、誰の所為だろうな、と手塚が言うと、真田は微妙な顔をしていた。


 外はすっかり夜になっていた。街灯が等間隔で並ぶ道を二人で歩いて行く。目当ての洗剤が入ったバッグの持ち手を片方ずつそれぞれが持っているのは、どちらがこれを持って帰るかについて口論になったからだ。手塚は真田が洗剤の一つや二つ持てないのかと言ったことを根に持っていたらしい。
 大の男二人が一つの荷物を二人で持っているという現在の状況に疑問を感じずにいられない真田だったが、公衆の面前で口論していても仕方が無いと真田の方が折れたのだ。
 特に会話も無く、黙ったまま横に並んで歩いていると、ふいに真田が足を止めた。ぐい、と引っ張られるような形になり、手塚も同時に足を止める。
「どうした、真田」
「いや」
 足を止めた真田が見ていたのは、コンビニエンスストアの軒先に吊された、青い光を放つライトだった。時々バチンと音を立てているのは、羽虫がぶつかっているからだろう。
「……昼間、あの装置はお前のようだと思っていた事を思い出した」
「……お前も目が悪くなったのか、真田。どう見てもあれは俺には見えないだろう」
「たわけが!違う、そういう意味では無い。お前に勝負を挑んでしまう者たちを見て、そう思ったのだ。お前はテニスをしているだけで、多くの者を引き寄せる。あの誘蛾灯のようにな」 「真田、俺は別にそうなりたいと思っているわけではない。今も、昔もだ」
「分かっている。だが、何故かふとそう思っただけだ。変なことを言ったな、忘れてくれ」
 帰ろう、と真田が再び足を動かした。手塚もそれに従い、また二人並んで歩いて行く。


 買ってきた洗剤で無事に洗濯を終えた真田は上機嫌だった。手塚はその間、昼間読めなかった本を読んでいるようで、テーブルに座ったまま微動だにしない。その背中に真田は声を掛けた。
「手塚、そろそろ寝るか」
「ああ」
 寝るか、とある意味誘い文句のような言葉であっても、真田のそれは文字通りの意味しか持たない。恋人同士なのだから、たまには真田の方から誘いがあってもいいのではないか、と手塚は少し不満に思っているのだが、真田はその事に気づいていない。
 明かりを消しておいてくれ、と言って、真田は先に寝室へと向かい、ベッドの上に横になった。そのうち読書を終えたらしい手塚もやってきて、寝室の明かりが消される。背中越しに手塚の気配を感じて、自然と鼓動が早くなる。
 暗い室内に、ぶうん、と空気清浄機の音がする。手塚はもう眠っただろうか、と気配を伺うが、寝息らしい呼吸音は聞こえてこなかった。
 真田は寝返りを打ち、手塚の方へと顔を向けた。暗い室内では表情がよく見えず、眠っているのかどうか判断が付かなかった。
「……手塚、起きているか」
 起こさないように、と小さく声を掛けると、手塚から反応が返ってきた。
「……まだ起きている。どうした真田、眠ったのではなかったのか」
 うむ、と真田が返事をしたものの、どう切り出せばよいのか分からず、真田はしばし沈黙してしまった。手塚も何も話しかけてこない。
「手塚、その、今日はせんのか?」
 それは、真田にとって精一杯の誘い文句だった。が、手塚は何の反応も返さない。もう眠ってしまったかと真田が手塚?と恐る恐る声を掛けると、
「いや……驚いただけだ。まさかお前がそんな事を言うなど、思いもしなかった」
「た、たまには、いいだろう……」
 そうは言うものの、恥ずかしさの余り真田の顔は発火しそうなくらいに熱くなっていた。部屋の明かりが消えていて良かったと胸をなで下ろす。
「せっかくのお前からの誘いだ、無駄には出来ない」
 手塚がゆっくりと身体を起こし、真田の上に覆い被さってきた。真田の額に、同じくらいに熱い手塚の額が重なり、ああ手塚も恥ずかしかったのかと思った瞬間、真田は自ら手塚の唇に自分のそれを重ねていた。
 互いの身体を抱きしめ合いながら、ベッドの上で二度三度唇を重ねているうちに、いつの間にか体勢が入れ替わって、真田の下に手塚がいた。普段見下ろされるばかりの真田にとってそれは新鮮な光景で、手塚がしかめ面をしているのが可笑しい。
「真田、退いてくれ」
「嫌だ。今日は俺がしてやろう。いつもされてばかりは性に合わん」
「待て真田!」
 手塚の制止も聞かずに、真田は手塚の下着に手を掛け、寝間着ごと下に下げた。あらわになった下半身は、既に緩やかに勃ちあがっている。
 普段手塚が自分にしてくれるようにと、真田はそれを口に含んだ。ぺちゃぺちゃと音を立てては先端や幹に丁寧に舌を這わせる。ようやく目が慣れてきた暗闇の中でそっと手塚の様子を伺えば、眉間に皺を寄せたまま、じっとこっちを睨んでいた。
「どうした手塚。気持ちよくないか?普段お前がしてくれるようにしているつもりだが……難しいな」
 舌だけでは足りなかったかと、空いた方の手も使いながら手塚を追い詰めていくと、手塚が苦しそうに呻いた。
「……っ、真田、もういいぞ」
「何故だ?」
「お前にしてもらうのもいいが……俺は早くお前に入れたい」
 そう言われて、真田の体温が再び上昇する。真田も寝間着と下着を脱いで、手塚の上に跨がるような格好になると、そっと腰を落としていく。
「真田、まだ無理だろう」
「何のこれくらい……!」
 と強がってみたものの、今日はまだ一度も触れていないそこは、固く口を閉ざしており、手塚のものを飲み込む事を拒否しているようだ。
「こっちに来い」
 何度か挑戦した真田だったが、諦めて素直に手塚に近づく。枕に背中を預けて、少しだけ身体を起こしたような格好になっている手塚の前に立つと、案外これも良い眺めだなと笑われた。
「なっ……!」
 そこで初めて、自分がどのような格好になっているのかを悟った真田は、思わず腰を引いていた。が、既にそこは手塚の手の中であり、近寄ってきた真田を手塚がそう簡単に逃がすはずもない。腕を掴まれ、鼻先が触れるか触れないかぎりぎりの距離まで顔が近づく。
「今日はどうしたんだ、真田」
「な、何が」
「珍しいと思ってな。お前がここまで積極的なのは」
 誰かに何か吹き込まれたのかと言われて、真田は首を横に振る。そんな事実はないし、真田にとってセックスの事など恥ずかしくて到底誰かに話せるようなものではない。
「俺はいつも……俺ばかりがお前の事を好きなようで、お前が」
 真田が答えに詰まっている間に、手塚の指が真田の後ろに侵入してきた。冷たく感じるのはローションか。最初に感じる不快感をやり過ごせば、あとは快感だけを拾えるように作り替えられたそこを、手塚は容赦なく攻め立てる。
「俺が?」
「……俺に愛想を尽かしてしまうのではないかと」
 真田の言葉に、手塚はふっと息を吐き出した。そして、
「お前は俺が誘蛾灯の様だと言ったが、俺から見ればお前も同じだ」
 さあ、もう良いだろうと、手塚が真田の中から指を抜いた。既に射精ぎりぎりの所まで追い詰められていた真田は物足りなそうな顔で手塚を見る。
「後はお前がしてくれるんだろう?」
 手塚の言葉に真田はこくりと頷いた。そして、再び手塚のものを手にとると、それを自分の中へと埋めていく。先ほどまではあんなに拒んでいたそこは、するりと手塚を飲み込んだ。指とは比べものにならない質量を中に収めた真田は、ゆっくりと腰を動かし始める。
 気持ちいい所に当たるようにと角度やスピードを変えながら自分を追い詰めていく真田を見ていると、手塚の下半身がうずく。そのうち動きは激しいものへと変わり、目の前で震える真田のものは、今にもはじけてしまいそうな位に張り詰めていた。
「はあっ、はっ、て、づか、手塚っ……!」
 手塚の名を呼びながら、真田は絶頂を迎えた。白濁の液体が手塚の腹の上に飛び散り、中が思い切り手塚を締め付ける。その衝撃で手塚もまた真田の中に吐き出していた。
 倒れ込んできた真田の上半身を受け止め、互いの身体に精液が付くのも構わずきつく抱きしめる。
「ふうっ、うっ……ああっ、まだ」
 腰を引こうとした手塚を、真田が制止した。
「まだ?」
「まだ、抜くな、よ……今日は、お前が満足するまで、続けさせてもらう、からな」
「……真田、お前何か悪いものでも食べたのか?」
「何も。ただ、誰にも渡したくないんだ。お前に寄ってくる羽虫は、俺だけでいい……」
「真田……」
 そこまで言われては、手塚とて黙っていられるはずがない。普段しないことをしたからか、まだ息を整えている真田の身体を抱きしめたまま、手塚は真田をベッドに押しつけた。突然形勢逆転されてしまい、目を白黒させている真田の顔を覗き込んだ手塚は、
「残念だが、俺もやられたままというのは性に合わない。今日は俺が満足するまで続けてもいいんだったな?」
「……ああ」
 にやりと笑った真田に口づけて、手塚が笑った。それは、普段見るような微かな笑みではなく、はっきりと笑っていることが分かるような笑顔だった。



「真田の独占欲がこれほど強いとは思わなかった」
「俺とて人並みにある。お前の方こそ、何も執着するものなどないという様な顔をしおって」
「俺も人並みにある。知らなかったのか?」
「……知るわけがないだろう」
「そうか。それならば、これから知っていてもらわなければならないな」
「……そうだな」