068:蝉の死骸(P3 順平×真田)



 汗だくになりながら起きる回数が前よりも少し減った気がする。
 それでも日中暑いことに変わりはない。
 夏休みもう残り僅かで、迫り来る宿題の提出期限に怯えながらも、やる気も起きず、ただ無為に一日一日を過ごしていることが嫌だった。
 昼下がりの寮は皆出かけたのかそれとも部屋で宿題をしているのか、とにかく静かだった。順平は携帯ゲーム機を持ってラウンジのソファーに陣取り、暫くそこでピコピコという電子音と戯れてみたものの、やっぱり何だか楽しくない。外に楽しいことがあるとも思えなかったが、誰かに会うかも知れないという期待を込めて、出かけることにした。
 午後のアスファルトは鉄板並みに熱されていて、むわっとした湿気を含む熱が下から上がってくる。瞬時に身体中から汗が噴き出し、順平の濃紺のランニングシャツを更に濃く染めていく。
 それでも何とか巌戸台駅までたどり着くと、クーラーの効いたモノレールに飛び乗った。この辺りで学校の生徒が居そうな所と言えば、この巌戸台駅周辺と、ポロニアンモールだろう。
 モノレールは空いていた。がたごと揺られてすぐにポートアイランド駅に着く。映画祭り、と書かれた看板が目に飛び込んできて、映画でも見ようかなと思ったその時、見慣れた姿が前を歩いていることに気がついた。
「真田サン?」
 そう声を掛けると、ぴたりと足が止まった。そして、振り返った明彦は大層驚いた様子で順平の顔を見た。
「順平?何でお前こんな所に」
「……オレがここにいたらマズイんすか」
「い、いや、てっきり部屋でごろごろしているものだと」
「あーーっ、真田サン、オレのことそんな風に見てたんすね!オレ悲しい!」
 と冗談で泣き真似をしてみる。そんなやり取りにも慣れている明彦は、やれやれ、という感じで肩をすくめた。
「で、真田サンは何か用事スか?」
「いや、ちょっと本屋にな。参考書を買おうかと……」
 いつもの調子で、さすが真田サン!と言おうとして、止めた。そして、現実を突きつけられたような気がしてさあっと背筋が冷たくなった。
 明彦は三年だ。つまり、来年には卒業して寮を出て行く。そういう楽しくないことは、無意識の内に考えないようにしていた。明彦が居なくなれば、この関係も終わってしまうかも知れない。
「……ねえ、真田サン。後で参考書選びに付き合いますから、今オレと一緒に映画見ません?」
「お前も勉強する気になったのか?」
「そーいうことにしといて下さい。だからね、映画見ましょうよ。ほら、息抜きも大切!」
 明彦の返事を聞く前に、順平はその手を掴んで映画館の方へ引っ張った。明彦は仕方ないな、とそれに従う。
 別に見たい映画があるわけでもなかったが、すぐに上映が始まるタイトルのチケットを買って、二人は中に入る。人影はまばらだった。もう長い間公開しているタイトルなのか、それとも評判が良くないタイトルなのか。どちらにしても映画など明彦を誘う口実に過ぎなかった順平にはどうでもいい事だ。
 席は自由だというので、二人はスクリーンから一番遠い席に腰掛けた。
 映画は古い外国映画のリバイバルだった。順平にとっては、元々内容など関係なくて、ただ明彦と一緒にいる時間が欲しかったから映画館に引っ張り込んだだけだ。
 淡々と進む話を見ていると、眠気がしてきた。客が少ないのも頷ける。
 ふと明彦の方を見ると、一足先に眠っていた。首を順平の方に傾げて、目を閉じている。肘掛けに置かれた手をそっと取っても、明彦は気づかない。
 周りには二人の他に誰も座っていなかった。一番近い客でも、順平達の遙か向こう、10列以上離れた場所だ。
 明彦の手袋をそっと外してみる。こんな暑い日に手袋なんて、きっと手のひらは汗だくだろうと思ったが、そうでもなかった。スクリーンに映し出された主人公が、ヒロインにしているのを真似て、程よい湿り気を帯びた手の甲に、軽くキスをする。
 明彦はまだ気づかない。
 起きたときに怒られないように、再び手袋を元に戻す。外すときよりも少し苦労したが、何とか元に戻った。
 その時、明彦が僅かに身じろぎしたので、順平の心臓が大きく跳ねた。しかし、再び眠りに落ちたようで、微かではあるが寝息まで聞こえてきたことに胸をなで下ろす。
 今度はそっと顔を近づけてみる。軽く開いた唇にそっと自分のそれを重ねて、そしてその隙間に舌を差し込んでみた。これでさすがの明彦も気づくかと思ったが、その気配はない。それとも、もうとっくに気づいているのに、順平に好きなようにさせているのだろうか。
 差し入れた舌で上の歯をそろりとなぞった。続いて、奥に引っ込んだ明彦の舌を絡め取る。ザラリ、とした次の瞬間、その舌が引っ込んだ。気づいただろうかと慌てて順平は身体を離したが、明彦はそのまま、目を開けようとはしなかった。
 どうして良いか分からなくなって、その後は何もせず、ぼんやりとスクリーンを眺めていた。映画はいつの間にかクライマックスを迎えていた。


「真田さーん、起きてくださいよー」
 上映が終わって明るくなった映画館の中、順平は結局最後まで起きなかった明彦の肩を軽く揺すった。それでようやく明彦はゆっくりと目を開いた。
「あれ、映画は」
「終わっちゃいましたよ、もーとっくに。真田サン、あっという間に寝ちゃうんだもんなあ」
 明彦は肩が凝った、と首をぐるぐる回してから、行くか、と立ち上がる。元々少なかった客は既に皆出て行ってしまい、もう二人しか残っていなかった。
 外に出ると再び熱気が二人を襲う。それでも、日が傾いたことで、映画を見る前よりは、少し涼しくなっていた。
「さて、本屋に行くか……って順平、お前も来るのか?」
「え、だって、付き合うって約束だったっしょ?」
「どうせお前の事だ、漫画本の立ち読みが目当てだろうが」
「げげっ、真田サン何で分かったんすか!?もしかしてエスパー!?」
 そんな下らないやり取りをしながら、ポロニアンモールに向かって歩く。
 途中、道沿いに植えられた街路樹の根元に、蝉の死骸が一つ転がっているのが目に入った。順平は、それで夏が終わってしまう事を実感して、急に寂しくなった。