064:洗濯物日和(鬼畜眼鏡 克哉×片桐)



 春が来た。
 夜の匂いでそう思う。
 洗濯物を干すために開け放たれたベランダから、僅かに漂う匂いに克哉は鼻を動かした。厳密に言えば「春」の匂いではないのかもしれないが、冬の街とは違う匂いがする。息を吸い込めば、ひんやりとした、かといって冷たすぎない空気で肺の中が満たされる。
 部屋の真ん中には一組の布団。寝間着に着替えた克哉は、その上に座って片桐が洗濯物を干し終えるのを待っている。
 これではまるで夫婦ではないか、と思わないでもなかったが、片桐がそうしたいならそれで良いと思って何も言わなかった。
「お待たせしました」
 洗濯物を干し終えた片桐は、すっかり空になったバスケットを片手に持ち、もう片方の手で掃き出し窓を閉める。カラカラカラ、と音がして、外と室内が隔てられた。
 これ、戻してきますねと言って片桐が克哉の前を横切ったとき、ふわりと先ほど感じたものと同じ匂いがした。
 戻ってきた片桐は克哉の隣に座り込む。ふと思うところがあって、克哉は片桐の手を取った。その手を握った瞬間、余りの冷たさに驚く。
「すっかり冷えてるじゃないですか。まだ夜は冷えるんですから、無理に外に干さなくても良いんじゃないですか」
「でも、日中はとても良い天気だし、せっかくなら外に干した方が……」
「干すのも夜なら取り込むのも夜だ。意味があるとは思えない」
 克哉がそう言っても、いいんです、と片桐は取り合わなかった。洗濯物を外に干すのは、気分的な問題なのだと。
「洗濯物を外に干しているとね、春が来たなあって思えるんですよ」
 だから好きにさせて下さい、と言われては、もう克哉には返す言葉が思い浮かばなかった。
 スーツやワイシャツは週に一度の割合でクリーニングに出しているが、下着類や使ったバスタオルなどは一緒に洗ってもらっているのが現状だ。だから、克哉に文句を言う筋合いは無く、片桐がそうしたいのならば、克哉は黙っているだけだ。
 ちらりと時計に目をやれば、もうすぐ日付が変わりそうな時間。克哉としてはまだ起きていてもいいのだが、隣に座っている片桐は眠そうに目を擦っている。
「そろそろ寝ましょうか」
「そうですね」
 片桐は立ち上がって部屋の灯りを消した。途端、部屋全体が暗闇に沈む。目が慣れるまではどこに何があるかすら分からない程で、そろそろと身体を動かす片桐を克哉は背後から抱きしめた。
「あっ」
 突然後ろから抱きすくめられて、片桐は身体を硬直させた。全くの不意打ちだったのだから無理もない。前に回した手を片桐の手がぎゅっと掴んでくる。
「片桐さん」
 安心させようと名前を呼べば、その声は思いの外低く響いた。僅かに滲んだ熱に片桐は気づいただろうか。
「佐伯くん……冗談は、やめてください」
 片桐の肩が震えている。項に顔を埋めるようにして、克哉は囁く。
「俺が怖いですか」
 ふるふると、片桐は頭を振った。君の行動はいつも突然だから、少し驚いたのだ、と。その証拠に片桐は抵抗するそぶりを見せなかった。克哉にされるがまま、身体を預けている。
 ふと、嗅いだことのある匂いが鼻を掠めた。それが先ほどまで漂っていた、春の夜の匂いだと気づいた時には、克哉は片桐の耳朶を甘噛みしていた。まるでその匂いに誘われるように。
「片桐さん、あなたからは夜の匂いがします」
「夜の匂い?」
 突然の発言に、片桐は克哉の口にした言葉の意味を理解できなかったらしい。自由に動く腕を鼻の側に持って行くと、くん、と匂いを嗅いでみる。が、すぐに首を傾げてみせる。
「……僕には分かりません」
「春の外の匂いですよ。さっきまで外にいたでしょう」
 春先の冷えた空気に漂う匂いがする。それに混ざった柔らかな石けんの匂い。普段と違う匂いを纏った片桐に、克哉の熱はじわじわと高まっていく。
「片桐さん。やっぱり洗濯物を夜に干すのは止めて下さい」
「どうしてですか?」
「これから毎晩こんな匂いがあんたから漂ってくる事を考えると、俺は我慢できそうもない」
 低く、小さな声で告げた欲望につられるように、片桐の体温が上がっていくのを寝間着越しに感じながら、克哉は密かにほくそ笑んだ。