061:飛行機雲(テニスの王子様 手塚×真田+跡部)



 空港まで見送りに行くと言った相手の申し出を丁寧に断り、一人でロビーのソファーに座っている。
 搭乗手続きの開始まではまだ少し余裕があったので、鞄から読みかけの文庫本を取り出すと、しおりを挟んであったページを開いて文字を追い始める。
 少しだけ読み進めて、ああ、とため息を一つ。
 この文庫本は、その相手から薦められたものだった。そう思った途端、見送りを断ったことを少し後悔した。
 本当は、日本を発つ直前まで一緒にいたかったのだが、そうなれば離れがたくなるのは必至のことで、未練を残すくらいならと断ったのだ。相手はそれを知るはずもないだろうが。
 手塚は再び文庫本にしおりを挟んで、鞄に仕舞った。ちらりと案内板に目をやるが、乗る予定の便は未だ準備中のままで、搭乗手続きが始まる気配がない。
 この手持ちぶさたな時間をどうしようかと考えていたその時、見知った相手がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。目立つ男だ、遠くからでも直ぐに分かる。
「こんなところで何してんだ手塚、あーん?」
「跡部。お前こそ」
「ライバルの見送りに来てやったんだよ」
「俺は頼んでいないが」
 そう返すと、つまらねぇやつだなと言いながら、跡部は手塚の隣に座った。足を組み替える動作の一つ一つが大げさで、かつ人目を引く。跡部が隣に座ったからか、なんだか周りの視線がこちらに集中してきているようで落ち着かない。
 しかし当の跡部は慣れているのか全く気にすることなく、手塚の方を見る。そして、少し眉をひそめた。
「真田はどうした、一緒じゃねえのか」
「真田は来ない。見送りに行くと言ったが、俺が断った」
「どうして」
「見送りなど、必要ないと思ったからだ」
「冷てえやつだな。大体お前ら、付き合ってるんじゃなかったのか?」
 跡部の問いに、手塚は答えに詰まった。確かに跡部が言うように手塚と真田は「そういう」関係だ。元々互いの祖父が長年の友人で、そのつてで出会った幼なじみ。お互いにテニスを始めてからはライバルでもあった。
 そして、そんな二人の関係に恋愛感情が交ざるようになったのは、一体いつの頃からだったか、手塚はもう覚えていない。ともすれば、友人として出会った頃から存在していたのかもしれないが、成長するに従い会う機会も減った真田に対して、その感情が目立って表面化することは無かった。
 切っ掛けは、全国大会決勝での、全力を掛けた一戦。辛く苦しい戦いだったが、その反面ずっと戦っていたいとも思った。ネットを挟んで真正面から向き合い、容赦など一欠片もない、自分自身をぶつけた戦いで、手塚は思った。
 この試合が終われば、もう真田と試合をすることはないだろう。それどころか、直接会う事もかなわないかもしれない。手塚はテニスの為にドイツへ留学することを決めていたから、日本に残るだろう真田とは遠く離れてしまう。
 この夏の一戦が、まるで夢であったかのようになる事が、手塚には耐えられなかったのだ。
 試合から数日経って、手塚は真田と会う機会を得た。祖父が真田家へ行くというので、同行することにしたのだ。そんな手塚を祖父は珍しいこともあるものだと言ったが、特に止めることはしなかった。
 そこで真田に会い、思いを告げた時の驚いた表情は未だに忘れられない。
「……一応、付き合っているということに、なるのだろうか」
「はぁ?俺様に訊くなよ、んなこと」
 呆れた声で跡部が言う。ったく、まどろっこしい奴らだな、と言った跡部は、携帯電話を取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。
「……ああ、俺様だ。今空港にいる。お前もこっちに来いよ。どうせ近くにいるんだろ?」
「誰に電話している、跡部」
「真田だ。あいつ、空港のデッキにいるらしい。お前が見送りはいらないなんて言うから、ここに来るのは迷ったらしいけどな」
 かわいいじゃねーの、と笑う跡部に、手塚は複雑な気持ちになった。そもそも、二人がそんな話をするほど仲が良いなど聞いたことがない。別に真田の友人関係に口を出すつもりはないが、正直面白くないと思った。
「お前が真田の事放っておくなら、俺様がもらっちまうぞ?」
 にやにやと笑う跡部の言葉が手塚に追い打ちを掛ける。
 普段から無表情の手塚だが、どうやら少し感情が表れていたらしく、跡部がひゅう、と口笛を吹いた。
「素直になれよ、手塚」
 ほら、来たぜ、という言葉に顔を上げると、少し離れた場所で真田が辺りを見回している姿が目に入った。こっちだ、と跡部が手を挙げると、それに気づいた真田がこちらへ一直線に向かってくる。
「真田、来ていたのか」
「手塚……すまない、見送りに来てはならないと言われていたのに」
 いつもの帽子を目深に被った真田は、俯いたまま手塚の方を見ようとしない。見送りには来なくて良いという手塚の申し出を反故にしたことを気にしているのだろう。
「ほら、座れよ」
 跡部が二人の前に突っ立ったままの真田の手を引いて、自分が先ほどまで座っていた場所に座らせた。代わりに立ち上がった跡部は、俺様はもう帰ると言う。
「俺様だって忙しいんだ。それに、手塚のツラも拝めたからな。まあ、せいぜい向こうで頑張ってこい」
「ありがとう、跡部」
「じゃーな」
 ひらりと手を振って、こちらに背を向けた跡部の背中を、二人で見送った。真田が隣で、相変わらず派手な男だと呟く。
「真田、お前跡部と親しかったのか」
「親しいもなにも、テニス仲間の一人だが」
「だが、あいつは俺たちの事を知っていた。お前が話したんじゃないのか」
「たわけ、誰が好きこのんで他人に話すか。……俺は貴様が話したのだと思っていた」
 少し小声で真田はそう言った。少し不機嫌さが滲む声に、どうしたのだと問えば、
「お前が、俺たちの事を話すほど、跡部と親しいとは思っていなかった」
 そう言って、そっぽを向く真田に、手塚は驚くと同時に頬が緩むのを感じた。手塚が真田と跡部が親しい事に対して面白くないと思ったように、真田も自分と跡部が親しいことに嫉妬してくれていたのだ。
「真田」
「何だ、手塚」
「お前の申し出を断ったことを少し後悔していた。だから、お前が見送りに来てくれて良かった」
 そっと、近くにあった真田の手に自分の手を重ねる。それに気づいた真田が、こんな場所で、たるんどる、と言ったが、手塚の手を振り払うことはしなかった。ここに来るまでに走ってきたのか、僅かに汗ばんだ手は暖かく、冷たい自分の手が溶けていくようだ。
「こっちを向いてくれ」
 真田は俯いたまま、少しだけ手塚の方に顔を向けた。帽子のつばから覗く頬が少しだけ赤くなっている。
「お前と離れることが寂しいと思う」
「ドイツ行きを選んだのは貴様だろう。自分で選んだことに迷いを持つな」
 真田の言葉は正論過ぎて、手塚は苦笑するしかなかった。そんな手塚の隣で、だが、と真田は言葉を続ける。
「……寂しいと思っているのは、貴様だけではない」
 呟くように小さく放たれたその言葉は、手塚の心臓が潰れてしまうのではないかと思うほどの破壊力を持って、手塚の耳へと届いた。この騒がしい空港のロビーで、一言もこぼれ落ちること無く届いたのは、二人にとって良かったのか悪かったのか。
「真田」
 重ねた手に思わず力を込めたその時、ようやく搭乗案内が開始された。それで我に返った真田は、すっと手塚の手の下から自分の手を引き抜き、椅子から立ち上がる。
「身体に気をつけて、行ってこい」
「ああ」
 手塚も鞄を手にして立ち上がる。そして、目の前に立つ真田に近づくと、思い切り抱きしめた。
「て、手塚!?」
「また連絡する。……今日ここに来てくれてありがとう、真田」
 慌てた様子の真田の事など意に介さず、手塚は耳元でそうささやいた。真田は顔を真っ赤にして、うむ、と言った。


***


 搭乗口へと消えていった手塚を見送った真田は、展望デッキに来ていた。
 外は良く晴れていて、時折気持ちの良い風が吹き抜けていく。
 手塚が乗っている飛行機が、滑走路へとやってきた。無事に飛び立つことを疑ってはいないが、やはり離陸や着陸の瞬間は緊張する。先ほどまで手塚が握っていた手を、真田はぎゅっと握りしめた。
 飛行機は、轟音と共に空へと舞い上がった。大きな機体はあっという間に小さくなり、空の向こうへと消えていく。
 その時、すうっと、その飛行機の翼の先から白い雲が引かれるのが見えて、真田はふっと息を吐き出した。
「なに笑ってんだよ」
「……跡部か。帰ったのではなかったのか?」
 真田の疑問に跡部は肩をすくめるだけで答えはしなかった。代わりに、ちゃんと見送ってきたのかよと質問で返される。
「ああ。貴様には感謝する」
「互いに意地張ったところで、得する事なんか一つもねぇよ」
 そうして、二人は飛行機雲が消えるまで黙って空を見上げていた。