050:葡萄の葉(OB ジョシン)
誕生日に何が欲しいと聞かれて、答えに詰まった私が何とか考え出したもの、それは指輪だった。
指輪が欲しいわ、と言うと、彼は大層驚いた様子で私の顔をまじまじと見た。まるで私がそれを欲しがるとは思わなかったと言わんばかりに。
「意外だった?」
「そうだね、その…あまりそういうものに興味がないと思っていたから」
そう言う彼はとても困った顔に見えた。彼がこういう顔をするときは、何かしら引っかかる事があった時だと最近気が付いた。つまり、彼は過去に指輪であまり良い想い出がないということだ。
そこまで考えて、ああ、と私は思った。彼は昔結婚していたのだ、と。
彼にとって指輪は結婚指輪であり、そして指輪に対していい顔をしないということは、その結婚指輪に良い想い出がないのだろう。離婚したとき、その指輪はどうしたのかちょっと興味が湧いたけれど、私は敢えて聞かなかった。これ以上彼の機嫌を損ねるのも悪い気がするから。
「冗談よ。他のものにするわ」
「いいのかい?君がそれを欲しいのなら…」
口ではそう言いながらも、彼は心底ほっとしたような表情を浮かべている。優しい故に嘘つき。
「帰りましょう」
私は少し引っ張るように彼の手を取って、ショーウィンドウの前から立ち去った。
彼の家に帰ってくつろいでいても、彼の結婚指輪が気になって私は部屋の中をうろうろしていた。
「どうしたんだい?何か捜し物でも?」
「うーん、何でもないんだけど」
彼は怪訝な様子で私を暫くの間見ていたが、そのうち読み掛けになっていた雑誌に没頭していた。私はますますやることが無くなって、カーテンを開けたり閉めたり、無駄にキッチンに立ってみたりしたけれど、そんなところに指輪があるはずがない。
「シンディ、おいで」
いつの間にか彼が後ろに立っていた。そしてそっと私の手を取り、今まで彼が座っていたソファに導く。まるでパーティでエスコートするような仕草に少しドキドキしながら、私は彼と一緒にソファに腰を下ろした。
「で、何を探していたんだい?」
「別に何も…」
何も探していないなら、そんなにきょろきょろしていないよ、と優しく笑う。その顔に弱い私は、あっさり白状してしまった。
「あなたの結婚指輪ってどうしたのかなと思って」
「結婚指輪?」
「そう、結婚していたのなら指輪があるはずでしょ?それで…」
見てみたかったのよ、と言うと、呆れたような溜息に続いて、私の頭を撫でる優しい手の感触がした。
「そんな事…」
「だって、指輪が欲しいって言ったら、あんなに嫌そうな顔をしていたし」
そんな顔されたら、過去に何かあったんだって誰だって疑いたくなるわ。そういう私に彼はますます困ったような顔をして、
「そんなに嫌そうな顔をしてたかな」
と言う。そんな顔をするから、本当の嘘つきになれないんだわ、と私は思う。大体彼は顔にすぐ出てしまうから、嘘が嘘でなくなってしまうことに彼は気づいていない。
「してたわよ。すごく、困ってるように見えたわ」
「そんなつもりは無かったんだけどね…それに、指輪はもう無いよ」
「どうして?」
どうしてって…そこまで言うと、彼は何故か顔を赤くした。とても言いにくそうに、あーとかうーとか言っている。そのうち言うことにしたのか、うん、と一人で納得するように頷いたかと思うと、私の耳元に顔を近づけてきた。首筋に掛かる呼吸がくすぐったくて身を捩っていると、
「君と付き合う事にしたときに、全て昔のものは処分した。君が私の過去を気にしないで済むように」
ふわっと彼の普段付けている香水の匂いがして、私はくらっとした。普段滅多に言わない甘い台詞は、ここぞと言うときにかなりの効果を発揮するみたい。そして、こういうとき彼は絶対嘘は吐かない。
「納得してくれたかな」
「…ええ」
そう言って私は彼に抱きついた。大好きよ、という言葉付きで。
「でも、どうして指輪を買うのを渋ったの?」
「指輪は相手を縛るものだと思っていたから…私は君を縛り付けたくはないんだ」
「それって、私が好き勝手にしてもいいってこと?」
それは困るな、と彼は私にキスをした。額に、頬に、首筋に。
「指輪が無くても、それ以外の方法で君を手元に置いておきたい」
胸に顔を埋めながら言う彼の台詞は説得力に欠けてはいたけれど、それは言わずにおいた。何より背中を撫でる彼の手が次に何処へ行くのか、それが気になって仕方がなかったから。
その時、またふわりと良い香りがした。最近好んで付けている彼の香水の匂い。いやらしい動きを繰り返す彼の手とは対照的な爽やかな香りが体臭と混ざって彼独特の匂いに変わっている。
「ねえ、この香水って何の匂い?」
「ん?葡萄の葉の香りさ」
とうとうその手がセーターの裾を捲り上げたのを感じて、私は溜息を吐いた。