046:名前(テニスの王子様 柳蓮二×真田)



「弦一郎」
 柔らかに自分の名を呼ぶ柳の声に、真田は意識を浮上させる。
 はっと目を開けて辺りを見回せば、そこは見慣れた部室で、自分は椅子に突っ伏して眠っていたようだった。そして、柳は真田の正面に座り、いつも通り細い目でこちらを見ている。
「こんな所でうたた寝か。お前らしくないな」
「すまない、待たせたか」
「いや、俺も先刻来たばかりだ。気にするな」
 終わったのなら帰ろうと言われ、真田は日誌を書きかけていた事を思い出した。今まで日誌を書きかけて居眠りをしたことなど一度も無かっただけに、自分の不甲斐なさにぎりりと歯を食いしばる。
「弦一郎?」
「……まだ日誌を書きかけていた」
 そう言うと、柳は普段滅多に動かさない細い目を見開いた。柳にとってもそれは驚くべき出来事だったのだ。真田がするべき事をせずに居眠りをするなど、覚えている限りこれまで一度も無かったはずだ。
 だが、詰ることはせず、再び目を細めると、立ち上がった椅子に再度腰掛けた。
「それならば、ここで弦一郎が日誌を書き終えるのを待っているとしよう」
「かたじけない」
「お前のことだ、それほど時間は掛かるまい」
 そう言って柳は鞄の中から現代文の教科書を取り出すと、ぱらぱらとページを捲り、中程の所から読み始めた。柳が機嫌を損ねていない事に内心安堵しながら、真田は目の前に広げられた日誌に目を落とす。メニューなどを書く欄は既に埋めてあり、残すところ最後の所見欄のみだ。
 今日の部活を思い出し、鉛筆を走らせる。練習試合の結果、後輩の指導、思い起こせば書く内容はどんどん増えていく。無心になって日誌をしたためていると、あっという間に力強い筆跡で所見欄が埋まっていった。
 その時、ふと何か違和感を感じて顔を起こした。途端、くい、と前髪が引っ張られる。
「れ、蓮二」
「何だ、気づいたのか」
 何をしているのだと問えば、お前があまりに真剣だったのでつい、と答えにならない答えを返される。その間も柳の親指と人差し指によって真田の前髪は摘まれたままだ。
「早く離せ」
「弦一郎、日誌はまだ終わらないのか?」
「もうじきに終わる。待たせて済まないが、あと暫く待て」
 がたん、と椅子が音を立て、柳が立ち上がった。持っていた現代文の教科書は机の上に置かれており、それを持っていたはずの手は机に置かれて柳の身体を支えている。長身がぐい、と真田の方へ近づいてきて、顔の距離は息が掛かりそうなほど。
「弦一郎」
 そう、ゆっくりと名前を呼ばれて、真田は思わず握っていた鉛筆を取り落とした。日誌の上に一筋の黒い線が引かれていく。
「こ、こんな所で、たるんどる……」
 言葉とは裏腹に、真田の声が揺れているのを柳は聞き逃さなかった。ぐい、と掴んでいた前髪を引いて、強引に真田に口づける。湿った唇が重なる感触に身体を震わせ、真田は思わず目を閉じた。それが、柳の思惑通りある事にも気づかず。
 前髪を掴んでいた手が離れ、代わりに真田の首筋にそっと添えられる。と同時に柳の舌が真田の唇を割り裂いて侵入してこようとしていた。真田は最後の理性を振り絞り、必死に堪える。ここで許してしまえば、それこそなし崩しに行為に及んでしまうことが分かっていたからだ。
 暫くして柳も諦めたのか、そっと唇を離した。口を閉じていた所為で思うように呼吸が出来なかった真田は、口を大きく開けて大きく息を吸い込む。少し埃っぽい部室の空気が真田の肺を満たしていった。
 呼吸を整えて、真田は恨めしげに柳を睨む。だが、柳はいつもの穏やかな表情で真田を見返すばかりだ。
「早く日誌を書け、弦一郎。そうでなければ」
 そうでなければ、何なのだと真田は言わなかった。代わりに、まだ十分近かった二人の距離を一気に詰めて、真田は柳の唇にかみつく。それはキスというより、本当に噛みついたと言った方が正しいくらいの勢いで、柳は驚きのあまり再び目を見開いた。
 どれくらいそうしていただろう、何度か息継ぎをしながら角度を変えて何度も口づける。密着した身体から、互いの体温が上昇してくのが分かった。
 そのうち、真田は唇を離すと、どちらのものともつかぬ唾液でぬらりと光る唇を手の甲でぐいとぬぐった。そして、
「蓮二、あと五分待て」
 そう言って、日誌の上に落とした鉛筆を拾い上げると、何事もなかったかのように文字を記し始めた。
 そんな様子を見て、柳は内心ため息を吐く。真田はこんな風に時々思いも寄らない行動をする。それが柳を煽っていることに気づいているのだろうか。
 蓮二はいつも思いがけない行動をすると文句を言われたことも一度や二度ではないが、それも全て、真田が原因だというのに。
 今回だって、真田が部室で無防備な寝顔を晒しているのが悪いのだ。来たのが自分だけだったから良かったものの、他の部員に見られると考えるだけで表情がゆがむ。それなのに、柳を煽るようなあんな荒々しいキスまでするなんて一体何を考えているのか。
 この仕返しは日誌が終わった後で存分にさせてもらおうと思いながら、机の上に出したままだった現代文の教科書を鞄に仕舞った。
「蓮二、終わったぞ」
 待ちわびた言葉に口の端を引き上げて、柳は真田の方を見た。