036:きょうだい(テニスの王子様 越前×真田)



「真田さん」
 月明かりの下で素振りをしているその人にそっと近づくと、越前は背後から声を掛けた。途端、びくりと肩が跳ね、素振りをする手が止まる。
「……越前か。どうした、眠れないのか」
「ちょっとね。真田さんは?寝ないの?」
 傍にあった岩の上に腰を下ろし、真田を見上げる。真田はラケットを下ろすと、越前の前に立った。真田の身体で月の光が遮られ、表情はよく見えない。
「練習、続けてもいいのに」
「いや……もう止めるつもりだったからな」
「それじゃあさ、オレと話でもしない?」
「話?」
 相変わらず表情は見えないが、その声から真田が越前の誘いを怪訝に思っている事が分かる。真田にとって越前は他校の生徒の一人であり、年も離れているからこれまで合宿等で一緒になったこともない。唯一の接点は関東大会の決勝戦、シングルス1で対戦した、その程度だ。
 このU−17合宿に来て、一緒に負け組の裏合宿に参加して、多少は親しくなったつもりだったんだけど、と越前は内心がっかりする。
 真田の興味は、テニスの腕を磨き、より強くなることだけだ。そして、倒すべき目標として、長年一緒にテニスをしてきた同じく立海大付属中の幸村、そして越前の先輩にあたる手塚しか見ていない。どんなに強い高校生がいても、彼が追いかけているのはあくまで幸村と手塚だ。特に手塚には全国大会のシングルス3で勝っているにも関わらず、今もなお意識し、執着している。
 その気持ちが、越前が真田に抱いている感情と同じ性質のものなのかそうでないのかまでは分からないが。
「……いいだろう」
 少しの逡巡の後で、真田は越前の申し出に対して頷いた。自分で誘っておきながら、予想しなかった了承の返事に越前は驚いた。が、次の瞬間には嬉しくなって、じゃあこっち、と目の前に立つ真田の右腕を掴む。
 がっしりとした真田の腕は、越前のそれとは全く違っていた。越前もそれなりに筋肉が付いてきてはいるが、比べものにもなりはしない。中学三年にして恵まれすぎているとも言えるその肉体を見る度に、羨望と、肉欲が混ざった不可思議な感情が呼び起こされる。
 越前の隣に真田が座ったことで、少しだけだが表情が見えるようになった。淡い月の光が、真田の顔をぼんやりと浮き上がらせている。片目を覆う白い眼帯だけがいやに目立って見えた。
「それで、話とは何だ、越前」
「あのさ。オレ、真田さんの試合見たんだよね」
「試合?」
「全国大会の決勝。うちの部長と戦ってたやつ」
「ああ、あの時か。そうか、お前はいなかったのだな」
 そう言われて、唇を噛む。あの試合を直接見ることが出来なかった事を、越前は未だに後悔している。ビデオで見た時でさえ、互いの気迫に圧倒されたくらいだ。
「あんなに必死な部長も、真田さんも、初めて見た」
「俺はいつでも全力で戦う。全力で戦って、相手を叩きのめす」
「オレの時は?」
 そう問われて、真田はふむ、と少し考え込むような仕草を見せた。
「むろん、叩きのめすつもりだった。だが、お前は俺が想像していたよりも強かった。正直、油断していなかったかと言えば嘘になる」
「何それ、負け惜しみ?」
「たわけ」
 ごん、と頭に拳骨が落ちてくる。が、それは本気ではない事くらい越前にも分かっていた。いってぇ、と頭をさする振りをしながら、ちらりと真田の表情を伺う。
 真田は苦笑していた。その表情で、先ほどの自分の言葉がはずれでは無かった事を知る。
「次に戦うことがあれば、二度と負けるつもりはないぞ」
「じゃあその時は、必死なあんたが見られるかな。手塚部長との試合で見たような、真田さんが」
「お前のテニス次第だな。言っておくが、俺は全国大会以降も練習を重ねている。あの時と同じとは思うなよ」
「なんだよそれ。いいよ、次も絶対オレが勝つから」
 頬を膨らませて文句を言うと、はははと真田が笑った。頑張れと頭を撫でられてもおかしくはない、そんな雰囲気と真田の余裕の表情に苛立ちが募る。テニスで勝とうが何をしようが、この先真田の中で越前の立ち位置が変わることはないと言われた気がした。
「……真田さんって、弟とかいる?」
「ん?兄弟のことか?弟はおらんぞ。兄ならいるが」
「そう?なんか、弟がいるみたいな感じがしたから」
 そう言われた真田は少し黙ってから、ああ、と頷いた。
「甥がいる。兄の子だ」
「なるほどね。だから、オレや遠山といるときに、なんか先輩達と接するときとは違うなって思ってたんだ」
「そうか?意識していたわけではないが……」
 首をかしげる真田に、だからさ、と越前は続ける。
「オレの事、弟みたいじゃなくて、対等に見て欲しいんだよね」
「見ているつもりだが」
「見てない。絶対弟みたいな感じで見てるよ」
 じっと、真田の顔を見る。まっすぐな視線を向けられた真田は僅かにたじろいだ様子を見せたが、すっと目を細めて、そんな目で見るなと目をそらす。
「……お前次第だ。お前がこの先成長すれば、あるいは」
「じゃあ、待ってて。オレが真田さんに追いついて、追い越すまで。もちろん、あっという間に追いついてみせるから」
 約束だよ、そう言って無理矢理小指を絡めた。真田は苦笑しながら、分かったと頷く。
 とはいえ、越前は素直に約束を待っているほど我慢強くないし、真田が素直に越前の事を待っていてくれるとも思わない。むしろ欲しいものは何があっても、どんな手段を使っても手に入れる。真田についても、そのつもりだった。


***


「って約束をしたこと、覚えてる?」
「約束?」
 越前が当時の話をしても、真田は首をかしげるばかりだ。
「ほら、やっぱりあの時待ってるって言ってくれたのは嘘だったんじゃないか」
 あの頃と同じように、頬を膨らませて見せると、真田は笑って、
「冗談だ。覚えているぞ」
 と言った。からかわれたのだと気づいた越前は、盛大に顔をしかめて、
「……あんたが冗談言うとか、似合わないからやめてよ」
 その言葉に、今度は真田が顔をしかめる番だった。
「でもさ、あの時オレ、絶対あんたのこと手に入れてやるって思ってたんだよね」
 ほら、現実になったでしょ?そう言って真田の手の甲にちゅっと音を立てて口づけを落とす。もう何度も繰り返された行為だというのに、未だ慣れない真田は恥ずかしいのか顔を背けた。
「俺はお前のものではないぞ」
「分かってる。でも、どうしても欲しかった。隣にいて欲しかったんだ。多分、関東大会で対戦したときから、ずっと」
 口づけを落とした手の人差し指を口に含んで、指の腹に舌を這わせると、真田の身体がびくりと揺れた。その反応に満足して、越前はにやりと笑った。
 それは、真田の弟のような立場を返上し、恋人という立場を得た事に満足した笑みだった。