035:髪の長い女(OB ジョシン)



 枕の上に流れる彼女の髪を手に掬って、綺麗な髪だと男が言った。
 彼女はその綺麗な髪を保つための努力をそれなりにしていたつもりだったので、男の言葉に素直に喜んだ。
「ありがとう」
 男の手からはらはらと落ちる自分の髪を眺めながら、彼女は満足していた。サイドランプの明かりを受けた髪は、オレンジ色に染まり、自分の髪ではないような錯覚すら覚える。彼女はそんな自分の髪が気に入っていた。
 そして、嬉しそうに微笑む彼女を見て、男も嬉しそうに笑った。彼女の喜ぶ姿を見るのが好きだったのだ。

 数日後、風邪を拗らせた彼女は病院の待合室にいた。
 周りは何らかの病を患った人間で溢れている。治る人、治らない人、様々な思いが渦巻くこの待合室で、彼女は熱ではっきりしない頭を背もたれに預け、ぐったりとした様子で自分の名前が呼ばれるのを待っていた。こんな時の待ち時間はとても長い。身体を動かすのが辛いため、雑誌を読んで時間をつぶすということも出来ない。
 そう言えば、ここは男が勤めている病院だったと、名前を呼ばれる少し前に気がついた。しかし、彼女が受診するのは内科で、男の所属は外科だ。この診察で身体に腫瘍でも見つからない限りは、彼に会えそうにもなかった。
 身体に腫瘍を作らなくても、男に会えると分かっていた彼女は、そんな馬鹿馬鹿しい考えを振り切って、患者の名前を呼ぶ看護婦の単調な声に耳を傾けていた。
 それから程なくして、彼女は名前を呼ばれ、診察室に通された。診察していたのは初老の医師で、慣れた手つきで眼の下、口の中などを見てから聴診器で心音を聞く。たったそれだけの治療で、医師は彼女を風邪だと診断した。
「最近流行ってるんだよね」
「はあ…」
「お仕事は?サービス業?仕事は休めないのかな」
 彼女の方を見ることなく、医師は机の上に置かれたカルテになにやらせっせと書き込みながら質問を投げかける。彼女が返事をする前に、辛そうなら注射でも打っとく?と言われた。あまりに軽い調子に、彼女は少し眉をひそめるが、医師がそれに気がついた様子はない。
 結局沈黙を了承と取られたのか、それとも自分も気づかぬうちに返事をしていたのかは分からないが、いつの間にか診察台に横になって注射を待っていた。丁度自分が午前で最後の患者だったらしく、医師は既に昼食に行って部屋にはいない。カーテンで仕切られた向こう側で、看護婦が数名動き回っているのが見える。
 いよいよ悪化してきたらしく、また意識が混濁してきた。それでも、意識を手放さないよう、彼女は押し寄せる睡魔と必死に戦っていた。
 その時、彼女の耳に聞き慣れた名前が飛び込んできた。その一言だけで意識は冴え、急に辺りの音が消え、看護婦たちの会話のみが聞こえる状態になる。
「ハミルトン先生って格好いいわよねー。ああ、私第一外科に行きたかったわ」
「確かに落ち着いてるし、ぱっと見紳士だわよね。でも、かなり女遊び激しいって噂よ」
「ええっ、そうなの!?」
 彼女が聞いていることなど思いもしない看護婦たちは、興奮した様子で話を続ける。内容からしていい話ではないのは確かだった。彼女は聞きたくなかったが、その思いとは反対に、看護婦たちの声が耳に響く。
「だって、今第二外科にいるレインと付き合ってたんじゃなかったっけ?もう別れたみたいだけど…」
「え、いつの間に!?あの子嬉しそうに自慢してたのに」
「ほら、レインって髪切ったじゃない、暑いとか言って。ハミルトン先生って長い髪が好きらしくて、それで別れたとか…」
「まっさかー!髪切っただけで振られたら世話無いわ!でも何で別れたのかしら」
 散々噂話に花を咲かせていた看護婦たちだったが、ようやく自分たちの仕事を思い出したのか、慌てた様子で注射器を持って彼女の所へやってきた。しかし、その時既に彼女は意識を手放しており、ぐったりとして荒い呼吸を繰り返しているだけだった。

 注射を打たれ、少し休んだことで症状は一時回復していた。けれど、彼女の表情は冴えない。その原因は、診察室で聞いた看護婦たちの会話だった。
 彼女は男が自分と付き合う前にどんな人と付き合っていたかを知らない。勿論それは男にも言えることだが、今までは互いに知らないということで釣り合いが取れていた。しかし、第三者からとはいえ、偶然男の過去を知ってしまい、彼女は困惑していた。
 あの看護婦が言っていた事が本当だったら、男は彼女の髪が長かったから付き合おうと思ったのだろうか。
「そんなこと…あるはず無いわ…」
 まるで自分に言い聞かせるように、彼女はそう呟いた。
 結局店には休むという連絡を入れることにした。電話の向こうで同僚が心配していたが、それに応える元気も今はない。受話器を置いて、着替えることもせずベッドに倒れ込む。微かに男の匂いが残っており、それがいっそう彼女を複雑な思いにさせた。
「私より年上だし、結婚してたっていうし…」
 男はもう四十間近だった。その年で女性経験が全くないはずは無いだろう。むしろあの余裕は、経験の多さから来ているのかもしれない。
「でも、あんまり聞きたくなかったわ…」
 髪の長い女。男と自分ではない髪の長い女が並んで歩いている様子が何故か思い浮かんで、彼女はその嫌な映像を振り払うように頭を振った。風邪で重い頭が一段と重く感じられた。
 昔の彼女にも、綺麗な髪だと言っていたのだろうか。あの手ですくい上げて。
 途端、嫌な気分になって、彼女は布団を頭からかぶって無理矢理眠ろうとした。起きたら今日聞いたことを全て忘れていればいいと思いながら。

 男はいつもと同じように彼女の部屋のチャイムを鳴らした。近頃は仕事帰りに寄るのが常となっていた。
 本当は先に店の方へ顔を出したのだが、風邪を引いて休んでいるとバーテンに言われ、心配して立ち寄ったのだ。手には簡単な食物と薬を持って。
「いないのかい?」
 二度チャイムを鳴らしても、部屋の中から人の気配はしなかった。寝込んでいたら起こすのはまずいなと、帰ろうとも考えたが、もう一度だけチャイムを鳴らす。すると、扉の向こうに何かが動く音がし、鍵が外された。
「…シンディ」
 彼女は真っ青な顔を扉の隙間から覗かせて、か細い声でどうぞ、と言った。この状態があまり良くないと判断した男は、部屋にあがると彼女を早々にベッドに寝かせ、冷凍庫にあった氷で氷嚢を作る。
「何か食べたかい?」
「…いいえ、何も…」
「それじゃあ、これを飲んで。その後薬を飲むんだ」
 そう言って買ってきたゼリー状の食べ物を渡し、薬と水を取り出す。
 彼女が食べている間に、男は彼女の額に手を当て、熱を測った。その手がひんやりと気持ちよくて、彼女は眼を細める。
 食べ終わったのを見て、瓶から取り出した錠剤と水を手渡す。彼女は素直にそれを飲み、それから横になった。熱い彼女の額に、男は先ほど作った氷嚢を乗せ、苦しかったら言うんだよ、と言って頭を撫でた。
 暫く彼女は苦しそうにしていたが、薬が徐々に効いてきたらしく、荒い呼吸も落ち着きを見せた。その間、ずっと男は彼女の頭を優しく撫で続けていた。まるで子供扱いだわ、と彼女は少し不満に思ったが、その手の動きが思ったより気持ちよく、そのまま身を任せていた。
「ねえ、髪の長い人が好きなの?」
「え?」
 突然の問いかけに男は面食らったようで、手の動きが止まった。彼女は病院から帰ってきてからずっと胸の中でもやもやしていたものを吐き出すように、
「今日、聞いたの。あなたが髪の長い女(ひと)とばかり付き合っていたって」
「…誰から聞いたんだい」
「病院で、看護婦さんが噂してたわ」
 心当たりがあるのか、男は苦虫を噛みつぶしたような顔をして、彼女の方を見ていた。
「第二外科にいる看護婦と付き合っていたって…そして、その人が髪を切ったから別れたって」
「それは違う。確かに彼女と付き合っていたことはあったが、別れた理由は他のことだ」
「じゃあ、何故別れたの?」
 男は暫く黙っていた。言うべきかどうか迷っていたのかもしれない。彼女はその間が不安で、じっと男の顔を見ていた。
「…他に好きな人が出来たからだ」
 きっぱりとした口調で、男は言った。しかし、その答えは彼女に新しい疑問を抱かせるものだった。
「好きな人って、誰?」
「…私にそこまで言わせるのかい?風邪引きさん」
 さあ、もう寝た方がいいと少し乱れた上掛けを直して、男は立ち上がった。温かくしてしっかり眠れば、熱も下がるよと。
「待って、教えてはくれないの?」
「そうだね…君の風邪が治ったら、教えてあげるよ」
 微笑んで、男は言った。もしまた苦しくなったら連絡しなさい、と言い残して、部屋から出て行く。その背中を見送りながら、彼女はようやく男が言った意味を理解した。
「なんだ…」
 よかった、と思った瞬間、せき止めていた水があふれ出したような眠気に流されて意識を失った。

 翌朝目を覚ますと、あれだけ重かった身体はすっかり軽くなっていた。額に置かれた、水になった氷嚢を下ろし、ベッドから起きあがる。
 結局噂は噂でしかなかった。男が髪の長い女が好きだというのは本当かもしれないが、髪を切ったところで別れを切り出すような人間ではなかった事が分かって、彼女は少し気持ちが軽くなった。
 そして、看護婦よりも自分を選んでくれた事が嬉しかった。
「この件に関しては、後でじっくり問いつめなくっちゃ」
 そう言う彼女の表情は明るかった。