034:手を繋ぐ(OB ジョシン)



 どちらが遠慮していたというわけでもなかったが、もしかしたら二人とも遠慮していたのかもしれない。
 繋いでしまえば自分の思っている事が全て相手に伝わってしまうような、そんな錯覚を覚えて、何となくそのチャンスを見送るままでいた。
 ウィンドウショッピングやディナー、映画にコンサートなど、一通りのデートはこなしたものの、二人の距離は一向に縮まる気配を見せなかった。
 それまでは。

 初めて触れたのは、キスの後。
 順番が逆じゃない、と彼女が漏らしたのを聞いて、男はすまない、と謝った。
「気恥ずかしくて。この歳で…」
 勿論それも一つの理由だったが、本当は自分の下心が全て伝わってしまうんじゃないかと恐れていた。
 紳士という仮面の下にいる、男の本能を見破られるのが怖かったのだ。勿論彼女はそのことを知るはずもない。
「思ったより、奥手だったりする?」
 そうかな、自分では分からないよと男が苦笑した。
 じゃあ、改めて、と彼女が男の手を取った。途端に、二人の心臓は高鳴る。そして、その鼓動は手に汗をにじませ、彼女は気恥ずかしくなって手を離した。
「ごめんなさい」
「私の方こそすまない」
 それから言葉が続かなかった。何を言えばいいのか、何を言っても言い訳にしかならない気がして、二人は黙り込んでしまった。
 互いに何を考えているのか、うすうす相手の気持ちを感じ取っていた。けれど、恥ずかしくて口に出せない。
 先に動いたのは男だった。彼女の手首をつかんで自分の方へ引き寄せると、もう一度口づけをした。それは、先ほどの触れるだけのキスとは違う、貪るようなディープキス。突然の事に彼女は驚いたが、すぐにその事実を受け入れ、自ら舌を絡ませる。
「ずっとこうしたかった」
「…私も」
 赤くした顔を伏せて、彼女は小さな声で言った。そして、もう一度男の手を取る。
 繋ぎなおした手はしっとりと汗ばんで温かい。今度は気恥ずかしくなることもなく、自分の細い指を男の指の間へするりと差し込んだ。
「明日は何か予定でも?」
「普通に仕事だわ…」
 それでは、遅くなるとまずいね、と男が言った。それが帰るための口実だと察して、ううん、いいの、明日は遅番だったわと彼女は訂正した。
 男は少し考えていたが、それじゃあ、もう少し一緒にいてもいいかい?と彼女に聞く。勿論彼女に断る理由など無い。こくりと頷いて、二人は何処へ行くともなく歩き出した。
 二人がいたのは公園で、時間も遅くなるとカップルが目につく。ベンチはすっかり埋まっていて、それぞれの愛を語らっていた。男は困ったね、と口だけは言うものの、見る限りそれほど困った様子ではない。彼女も、そうね、困ったわと返すが、男と同じように本当に困ったとは思っていない。
 繋いだ手が二人の気持ちを相手に伝えていた。考えていることは同じだ。ただ口に出すタイミングを計っているだけで。
「私の家へ来るかい?」
「私の家に来る?」
 言葉を発したのはほぼ同時だった。しかも、同じ内容を言ったことに、二人は顔を見合わせ、それから笑った。
「ここから近い方の家へ行くことにしないか」
 と男が提案した。彼女はいい案ねと言ってそれに従う事にした。結局彼女の家の方が近い事が分かり、二人は目的地へ向かって歩き出す。
 勿論、手は繋いだまま。

 程なくして彼女の家に着いた。彼女の家はそれなりの生活臭を漂わせながらもきちんと整頓されている。少し前、部屋の前に着いた途端、女性の部屋へはいるのはと男が躊躇ったが、彼女が強引に中へ押し込む形となった。そうして二人は今ここにいる。
「どうぞ。アルコールの方が良かった?」
「いや、ありがとう」
 グラスに注がれたミネラルウォーターを男が受け取り、口に含んだ。飲み込む動作に合わせて喉が動くのを彼女は物珍しそうに眺めている。
 二人きりになったからと言って、特別話題にするような話もなく、当たり障りのない会話を続けていたがそれも途切れた。互いに意識し合っているのは分かっている。けれど、男も彼女も、後一歩を踏み出せずにいる。その一歩を踏み出したら、二人の関係が変わってしまうような、そんな不安を抱えていた。
 それでも、二人にとって第一の関門であった、手を繋ぐことをクリアした今なら可能かもしれないと、彼女は思っていた。
「ねえ」
「なんだい」
「手を…繋いでもいいかしら」
 彼女の申し出に、男はいいよ、と手を差し出した。彼女はその手を取り、自分の手と重ね合わせる。その手は先ほど繋いでいた手よりも熱を持っているような気がした。水を触って冷たくなった自分の手にしっとりと馴染む。
 男が彼女の名前を呼んだ。その声は手と同じく熱を含んでいる。ええ、と頷いて手を離し、男の側に近づくと、そのまま抱きすくめられた。彼女は驚かない。こうなることを望んでいたからだ。
「君を離したくないな…」
「いいわ。離さないで。朝までずっと」
 そっと男の背中に手を回し、胸に顔を寄せる。そうして二人抱き合って、互いの存在を確かめ合っていた。
 彼女は幸せだった。