030:通勤電車(SH 門桜)



 アパートから会社までは電車で10分ほどだ。自転車で通えなくもない距離だが、桜井は電車を好んで使っていた。
 夏休み期間中の短期アルバイトだった。親しくしている教授に頼んで探してもらったこのアルバイトを桜井は気に入っていた。特に出勤時間を決められているというわけではなく、好きなときに来て好きなときに帰ってもいいと言われていたからだ。時間の拘束が嫌いな桜井にとっては願ってもない事だった。
 通勤ラッシュも過ぎ、車内には両手で数え足りる程の人数しかいなかった。朝でもなく、かといって昼食時でもない、この微妙な時間を狙って電車に乗る。
 窓の外を通り過ぎる景色に目をやる振りをして、そっと人の観察を行う。眠そうな顔をした学生らしい男は同類の匂いがした。恐らく今から大学にでも行くのだろう。その隣…と言っても、かなり距離は離れていたが、とにかく定義上は隣に座っている主婦らしい女は、今時誰も持たないような派手な色をしたカゴを持ち、ぼんやりとした表情で窓の外を見ていた。
 くたびれた背広に身を包んだ会社員らしい男は、もしかしたらリストラされて職を探している最中かもしれない。前の車両に続く扉の近くには、母親と女の子が座っていた。女の子は母親に向かってなにやら耳打ちをし、母親は笑顔で返事をしていた。何か面白いことでもあったのだろうか。
 乗っている人は違えども、いつもこの電車はこんな風景だった。窓から差し込む光も加わって、どこか弛んで見える車内は、桜井の中で「そういうもの」としてしか捉えられなくなっていた。まるで毎日表情が変わる一枚絵を見ているかのようだ。
 ふと、こんな風に人を観察して、そして彼らのバックグラウンドを想像していると、果たして自分は人からどう見られているのかと思う事がある。よれたシャツとジーンズに身を包んで、こうした人々に混じって電車に乗っている自分。単に他の人が見る一枚絵の住人としているのか、それとも他の人はまた一風違った風にこの弛んだ風景を見ているのか。
 そういう考えは、なかなか面白いと自分で思い、そして少しだけ笑いがこみ上げた。

 その日は電車に乗った瞬間に、桜井は何か違和感を感じた。空はよく晴れ、相変わらず少々強い日差しが車内に差し込むのも、車内に人が数名しかいないのも普段と変わらない。それなのに、何か決定的な違いを感じた。
 乗ってしまえばそうでもないかと思ったが、電車が走り出しても一向に違和感が消えることはない。くしゃみが出そうで出ない、そんなもどかしさを抱えたまま桜井は電車に運ばれ続ける。
 違和感の原因を探して視線をさまよわせていると、ふとした所で止まった。それは桜井の乗った入口と丁度対角線になる入り口の横。そこに座っている人が普段のこの電車には酷く不似合いだと思った。
 糊のきいたシャツ、皺のないズボン、磨かれた靴。ネクタイをきちんと締めたその男は、弛んだこの車内の空気とは明らかに違っていた。その男の周りだけ、空気が凍っているかのようだ。
「…社長」
 桜井が男に気がついたのと同時に、男の方も桜井に気がついたらしい。すっと席を立って桜井の方に近づいてくる。桜井はどんな顔をすればよいのか分からず、曖昧な笑顔を浮かべて男の方を見た。
「この車両に乗っていたとはね」
「奇遇ですね」
 男は少しだけ笑って、普段は電車に乗らないんだが、今日は生憎車の手配がつかなくてね、と言った。
「それに、君が電車の風景が面白いと言っていたから、興味があったんだ」
 そう言われて、桜井はいつだったか男に通勤手段について尋ねられた時、そのような返答をしたことをうっすらと思い出した。
「…そうでしたか?」
「そうだよ」
 自分で言って忘れたのか、と言われたが桜井にはもうどうでも良かった。こうして男を見ていると、先ほどまで抱いていた違和感の原因が彼だったとはっきり悟った。そして逆に、今まで見ていた風景が嘘だったのではないかと思うほど、彼は存在感に満ちていた。
 もしかしたら、自分は男の存在を気にしながら、必死に気がつかない振りをしようとして失敗したのだろうか。
 …いや、気がつかない振りをしようとしていたのは、男の存在だけではなく、男の自分に対する気持ちかもしれない。どちらにしろ、真実に気がつくにはまだ早いと、何故かそう思った。
「たまにはこうして電車に乗るのも、悪くはないな」
 窓の外を見ながら、男が呟いた。
「面白いですよ、いろいろと」
 そう、本当に。変化のない一枚絵な風景も気に入っていたが、今日みたいにちょっとしたハプニングがあるのも、嫌いではない。例えば、男のちょっとした魅力に気づいたりするようなハプニングだ。
 そんなことを考えながら、明日は一本早い電車にでも乗ってみるかと思っていた。