029:デルタ (OB ケビシン)



「また来るからよ」
「今度こそ、ちゃんとツケを払ってよ!!」
 私がそう言うと、ケビンは笑いながら店を出て行った。
 最後に残ったお客さんがケビンだったから、もう店の中には誰もいない。早々に「Closed」の看板を下げて、窓に掛かったカーテンを下ろした。
 テーブルの上に残された食器をウィルの所へ持って行く。彼はああ、ありがとう、と言って私が差し出した皿を受け取ると、
「先に上がってもいいよ、後はやっておくから」
「え、でも…」
 そう、本当は早く上がりたかった。でも、長引いたのはウィルもお互い様だから、私一人で先に上がるのは申し訳ない。
「フロアの掃除だけしてから、上がるわ」
「それは助かるよ」
 そう言って笑って、掃除ロッカーへモップを取りに行った。時計を見ると、予定の時間より既に三十分は長引いている。しっかり申告して残業賃を払ってもらわなくちゃ、と私は思った。それというのも、ケビンがなかなか出て行かないのが悪いのよ、とも。
「ツケも払わないし、本当に困ったわ」
 そう言いながらも、私は決してケビンが嫌いではなかった。自信満々で、自分勝手なのに、明るくて嫌みなところがない。冗談半分に話す仕事の話はとても面白かったし、きっと近くにいれば楽しいことだらけだろうと思う。
「ああ、早く片づけなくちゃ…ジョージが待ってるわ」
 でも、私にはジョージがいた。年上の恋人であるジョージはとても優しい。いつもさりげなくエスコートしてくれるし、女性の扱い方を心得ていると思う。話題にも事欠かないし、私は彼のことが好きだった。
 急いでテーブルを拭き、床をモップがけして、申し訳ないと思いながらも私は先に上がらせてもらうことにした。ウィルはいいよ、と言って笑う。本当は、ウィルが私の事気に掛けてくれてるって知っていた。でも、私はそれに気がつかない振りをしながらも、無意識のうちにウィルを利用している。彼は優しいから、こうして遅くなると私を早く帰してくれる。それなのに、私は他の人と会ってデートしている…ウィルの優しさを踏みにじっているような気がして、心が痛んだ。
 優しいウィル、本当にごめんなさい。心の中でそう呟いて、スタッフルームへと続く扉を開けた。

 着替えを済ませて、お化粧を少し直して、ピンク色のルージュを引く。
 時計を見ると、約束の時間からもう十分が経過していた。慌ててロッカーの扉を閉めて、ロッカールームを出る。
 裏口に出ようと階段を下りていくと、まだウィルの仕事は終わっていないようだった。それがまた私の心をちくりと刺す。
「先に上がるね、お疲れ様」
「お疲れ様」
 店の方に顔を出して、挨拶してから裏口から外へ出た。早く行かなくちゃ、と走ろうとした矢先、何かに手を掴まれて思わず声を上げそうになった。
「オレ、オレだよ!」
「…ケビン!?あなた先に帰ったはずじゃ…」
 手を掴んだのは、さっき店から追い出したケビンだった。あれから三十分は経っているはずなのに、どうしてこんな所にいるのか、私には分からなかった。
「どうしてこんな所にいるの?」
「つれないねえ、あんたを待ってたんだよ、シンディ」
 その言葉の意味を考える暇も無く、矢継ぎ早にケビンが捲し立てる。
「仕事終わったんだろ?オレと今から飲みに行こうぜ。いい店知ってるんだ、あ、勿論ここだっていい店だけどよ!」
「駄目よ、約束があるんだから」
 私の声が聞こえていなかったのか、聞かなかったことにしたのか。ケビンはなおも私を誘い続ける。時計を見ればもう二十分近く過ぎていた。
 突っぱねて、無視して、走ってしまえば良かったんだと思う。けれど、私はそう出来なかった。ケビンのその言葉を聞いてしまったから。
「オレ、あんたのこと好きだぜ」
「…そ、そんなこと言っても駄目よ!どうせ他の女の子にも言ってるんでしょ。ね、急いでるんだから通してよ」
 狭い路地に立ちふさがって、通せんぼするようにしてケビンは首を振った。
「駄目だ。どうせ約束って男の所だろ?オレがこんなに口説いてるってのに、つれないなあ」
 そう言って、私の肩に手を置くと、そのまま顔を近づけてくる。え、と思った次の瞬間には、ケビンと唇を重ねていた。
 ジョージのそれとは全然違う、噛みつくようなキス。嫌だと突き飛ばせばよかったのに、拒否することも出来ないくらい、素敵なキスだった。
「んっ…もう!止めて!」
 ようやく唇が離れて、私はそう言った。ケビンがにやにやしていたのは、私の顔が赤いのが分かったからだと思う。そして、拒否しなかった事と。
「んじゃ、今日はこれくらいにしといてやるよ。また来るから」
「今度こそツケ払いなさいよ、馬鹿!」
 分かってるのか分かってないのか、ひらひらと頭の上で手を振りながら、ケビンはさっさと歩いていってしまった。一人残された私は、暫くぼんやりとその後ろ姿を見送っていたけれど、は、と思い出して時計を見る。完全に遅刻だった。ジョージは待っていてくれるかも分からないほどの。
「ケビンの所為でとんだ迷惑だわ!」
 そう言いながら、まだ収まらない胸の鼓動と、先ほどのキスの感触を思い出して、私は顔を赤くした。
 いつもにやにや笑っているケビンの顔が、一瞬真顔になった事。私のことを好きだと言ったときの事。それを考えると、今からジョージと会うって事よりも、ドキドキする。
 私が本当に好きな人は、誰なんだろう…待っているジョージの姿が見えたとき、私の心に小さな疑問が浮かんだ。