018:ハーモニカ(OB ジョシン)



何か楽器を演奏出来る?と言われて、とっさに思いついたのはそれだった。

その日はホールでコンサートを聴いた。彼女はピアノを習っていたのだという。私は残念ながら、あまり音楽に縁のある生活ではなかった。人並みに音楽を聴いたりはするが、自分で演奏する程ではなかったのだ。
コンサートへ行く事は彼女の希望だった。そして演奏が終わって家路についている今でも、彼女は今日聴いた曲をハミングしていた。それは楽しそうに。
「今日演奏されていた曲だね」
「覚えたの?」
「君がそれだけハミングしているのを聴いていれば」
意地悪を言うつもりでは無かったのだが、彼女は少し顔を赤くして、それからごめんなさい、うるさかったかしら、と謝った。
「いや、別にそれは構わないんだが。好きな曲なのかと思って」
そう言うと、彼女はええ、と言って、バッグから今日のプログラムを取り出した。そして、私の方に差し出して、ある曲のタイトルを指差した。
「今日はオーケストラだったけれど。私、以前自分のピアノの発表会で、この曲を演奏した事があるの」
「そうなのかい?それじゃあ、思い出深い曲なわけだ」
彼女はそれはどうかしら、と言って顔をしかめた。そして、演奏会の為に相当練習した事、所がその演奏会では緊張してしまい、ぼろぼろの演奏しか出来なかった事を話してくれた。
「…お気に入りの曲だっただけに、ショックだったわ。暫くレッスンにも行かなかった」
何か冷たいものが頬をかすめた気がして、ふと暗い夜空を見上げる。すると、ちらちらと雪が降って来ていた。どおりで寒いわけだ。
急がなければ彼女が凍えてしまう、と先を急ごうとした。その時、ふと、少し離れた所に営業しているバーを見つけた。
「少し遅くなっても構わないだろうか」
「ええ、いいわ。でも…私はこうしてあなたと歩いている方がいいわ」
そう言うと、彼女は私の手を取り、そのまま自分のコートのポケットに入れた。彼女の手の温もりが直に伝わってくるのが分かった。暖かかった。
「おいおい、この歳になってこれじゃ、少し恥ずかしいな」
「いいのよ。誰も見ていないわ」
私が彼女のポケットから手を出そうとした所、しっかりと掴みなおされてしまい、抜け出す事が出来ない。彼女はこうして時々大胆な行動に出る事がある。その度に私は翻弄されてばかりだ。
「ねえ、あなたは?何か楽器を演奏出来る?」

そう問われて、私がとっさに思いついたのはハーモニカだった。
結局私たちはそのバーを素通りし、彼女の家へ向かって歩いていた。勿論私の手は彼女のポケットにおさまったままだ。
「学生時代にハーモニカなら練習した事がある」
「ハーモニカ?どうして」
不思議そうな顔で彼女は私を見た。
「さあ…何故ハーモニカだったのかは覚えていないな、何しろかなり昔の話だから。ハイスクールくらいの頃だろうか」
「あなたのハイスクール時代が想像出来ないわ」
彼女はクスクスと笑っていた。無理もない。もう40間近の人間から青春まっただ中のハイスクール時代など想像もつかないだろう。私も既に自分がどのような学生生活を送っていたのか、覚えていない。年齢を重ねる毎に、世間の雑踏に疲れて、過去の思い出を一つずつ失っているような気がする。
「ただ、どうしても上手く吹けないフレーズがあってね。その部分ばかり練習した所為か、そのフレーズだけ覚えているんだ。後はどんな曲だったか、タイトルすらも思い出せないというのに…」
たった数小節のフレーズを、記憶を頼りにし、振動として空気中に伝える。それを聞き逃すまいと、彼女はじっと耳を澄ませていた。
「…何の曲かしら?その部分だけでも素敵だわ」
「それが思い出せれば苦労はしないのだけどね」
彼女は、どこかで聞き覚えがある気がするとしきりに首を傾げていた。
私は苦笑しながら、さ、二人で雪だるまになる前に帰ろう、と先を促した。