010:トランキライザー(オリジナル)
毎週、同じ曜日の同じ時間に必ずやってくる患者がいる。
どこか悪い所があるわけでもない。けれど、その患者は頭が痛いとか、寝違えて首がおかしいだとか、適当な理由を付けて必ず病院にやってくる。
一度だけその理由を問うた事があった。すると彼女は、
「先生と喋る事が、私の精神安定剤なの」と言って笑った。
何かを要求するわけでもなく、ただ彼女は少しの間だけ私と話をして、そして満足そうな表情を浮かべて帰って行く。
それが既に当たり前の事になっており、私も、一緒に仕事をしている看護婦も、彼女について詮索しようとも思わなくなっていた。彼女にそういう行動を取らせる何頭の原因があるのは明らかだったが、特に知りたいとは思わなかった。知る事で、今の関係が崩れる事を恐れたのだ。
「ねえ、先生」
年齢から見ればいくぶん幼い笑顔を浮かべながら、彼女は私に問うた。
「死ぬって、どんな感じかなあ」
思わずぎょっとして答えにつまる。ここは病院で、私は少なからず患者の生死に関わりのある所で働いている為、そう言った問いは冗談だとしてもあまり好きではなかった。
「どうしてそんな事を聞くんだい?」
一つ深呼吸をして、私は努めて冷静に彼女に問い返した。けれど、
「私の質問に答える方が先よ」
そう言って彼女は笑った。先ほどの問いには似つかわしくないほど、晴れ晴れとした笑顔だった。
「…私はまだ死んだ事が無いから、分からないな」
それが精いっぱいの答えだった。彼女は幾分か不満そうな顔をしていたが、
「そうよね、死んだ人じゃなければ分からないわよね」
と、自分を納得させるようにゆっくりと言い、それからスッと椅子から立ち上がると、
「またくるね。ありがとう」
そう言って診察室から出て行った。
しかし、彼女の言葉は一週間もしないうちに現実となる。
交通事故にあったと運び込まれてきた患者が、彼女だったからだ。
「これは…一体何が!?」
思わず救急隊員に駆け寄る。その間にもテキパキと看護婦や外科医が手術の準備に取りかかり、彼女を乗せたストレッチャーが手術室へと吸い込まれて行った。
救急隊員は簡潔に
「横断歩道を渡っている最中に左折してきた車にはねられたようです」
とだけ伝えて、そのまま去って行った。
私は一人だけ救急エントランスに立ち尽くし、遠ざかって行く救急車のテールランプを見ているしかなかった。まだ、彼女が事故にあった事が信じられなかったのだ。
そのまま手術室の前に移動し、長椅子に腰掛けて彼女が出てくるのを待った。
普段短いと感じる時間がとてつも無く長く感じられ、何度も何度も時計を見る。私は内科医だからオペを行う事は無いが、今ならばオペが終わるのを待ち続ける親族の気持ちが十分すぎるくらいに分かる。
その時、空気が漏れるような音と共に静かにオペ室のガラス戸が開いた。続いてストレッチャーに乗せられた彼女が看護婦に押されながら現れる。ちらりと見えた彼女の顔は青白く、先日見た彼女と全く別人のようにすら思えた。
誰かが自分の名前を呼んだような気がして振り返ると、そこには同期の外科医がいた。どうやら彼が彼女の手術を担当したらしい。
「彼女の容態は」
「…もう、手の施しようが無かった。おそらく既に関係者が呼ばれているはずだ」
彼は残念だが、と言って口をつぐんだ。彼ほどの技術を持ってしても、駄目なものは駄目なのだと実感する。
「手は、尽くしてくれたんだろう」
「勿論だとも」
「それならば、君に感謝するよ」
彼女が収容された病室へ行くと、既に両親らしき人が来ていた。軽く頭を下げて部屋に入る。
「少し、話せますか…私は、彼女の主治医でした」
「あの子が、病院へ?」
「ええ、数カ月ほど前から、毎週通ってきていました」
母親らしき人が、信じられないという風に首を振った。
「あの子に悪い所なんかありません」
「それは承知しています。けれど、どこか不具合があると言って来た人を追い返す事は出来ません」
ではなぜ。母親は口にこそ出さないが、納得がいかないと言わんばかりの顔をしていた。
父親らしき人は、私たちのやり取りに興味すら示さず、ただぼんやりと娘の顔を見ていた。
ふと、彼女が目を開けた。しばらく不思議そうに視線を辺りに泳がせていたが、
「せんせい」
と言って笑った。けれどそれは、普段見る彼女の笑顔とは全く違う、弱々しいものだった。
その時、彼女のオペを担当した同期が部屋に入って来て、両親たちを連れて行った。恐らく彼女の容態に対する説明だろう。
一人残された私は、少し彼女のベッドに近付くと、具合はどうだい、と訪ねた。
けれど、彼女は私の問いには答えず、
「こうなる気がしてたの。せんせい、私はもうすぐ死ぬんでしょ?」
「そんなばかな事は言うもんじゃないよ。人間の生死を決めるのは、最後はその人が生きたいと思う心だ」
「医者のくせに、非現実的な事を言うのね」
彼女は笑って、
「でもいいのよ。私分かってたの。だからあの時、先生に死んだらどうなるか聞いたの」
私は彼女に何を言えばいいのか分からなかった。担当患者の死に立ち会った事は何度もあったが、内科という性質上、死の徴候はゆっくりと現れるものだと思いこんでしまっていた。そんな中、彼女の突然の死に向き合って、一体何をすればいいのか、何が出来るのか、全く思い付かない。
「手を握っていてほしいの。そしたら、私は緩やかに天国まで行けるわ」
だって、先生は私の精神安定剤だもの、と彼女は言った。
そして、それが実質彼女の最期の言葉になった。
それからはよく覚えていない。同期の話では、彼女の手を握ったまま、呆然としていたということだ。
あれから一月が立った。今でも私は、彼女が来ていた曜日、時間になると、いつものように仮病を装って彼女がやってくるのではないかという錯覚に捕われる。
「気を落とすな。何年医者やってると思ってるんだ」
同期はそう言って私にコーヒーを差し出した。それを受け取り、一気に喉へ流し込む。程よい苦さが私を現実へ引き戻してくれる。
「何だか、心に穴があいたみたいだ」
「惚れてたんじゃないのか、彼女に」
「まさか」
「まあ、寂しくなったら相手くらいはしてやる」
そういう同期の冗談も、今は心強かった。
彼女は自分の質問の答えを見つける事が出来たのだろうか。
青い空にぽかりと浮かぶ雲を見ながら、私は思った。