002:階段(SH 門桜)



 屋上へ続く非常階段は恰好の喫煙場所だった。
 社内は禁煙が多く、重度のヘビースモーカーである桜井にはいささか堪え難い。なんせ一日に何本吸っているのか自分でも分からない位だ。かといって、灰皿に盛り上げた吸い殻を数えようとは少しも思わなかった。数えた所でどうにかなる問題でもない。
 その日も休憩時間には喫煙場所ではなく、こっそりと非常階段の扉をくぐり抜けて、一つ下の踊り場でタバコを吸っていた。喫煙所はあまり好きではなかった。行けば必ず世間話好きな同僚に捕まって嫌々ながらも相手をさせられる。例えその同僚が居なかったとしても、他の社員が彼に向ける視線は至って冷たい。桜井の立場上、彼の事をよく思っていない人が居るのは仕方の無い事だった。−−契約社員のくせに、社長が直々に目を掛けていると社内ではもっぱらの評判だ。
 吐き出した白煙が空気に溶けていく様をぼんやりと眺めていると、後ろからキィ、と錆びた扉が開く音がした。
「桜井」
 聞き慣れた声に呼ばれても、桜井は振り返らない。桜井が喫煙所へ行けない原因である彼は、そういう事に全く無頓着だ。一契約社員が社内で親しげに社長と会話するものではないということを分かっていない。いや、分かっていたとしても、彼は全く気にしない。お陰で桜井が肩身の狭い思いをしているというのに。
「またこんな所にいたのか」
「喫煙所は居心地が悪くてね」
 桜井はくるりと振り返ると、先ほどまで手を掛けていた手すりに背中を預けた。カツカツと仕立ての良い靴が錆びた鉄の非常階段を下りてくる。社内は何処もホコリが落ちていないくらいに綺麗なのに、この非常階段だけは何処か古ぼけていた。天海は海の傍にあるから、潮風が吹くと鉄は瞬く間に錆びるのだと誰かが言っていた気がした。けれど、桜井はその古ぼけた非常階段が一番好きだった。
「社内で会うのは止した方がいいよ」
「何故?」
「何故って…君は何も分かっちゃいないんだな」
「ここの社長は私だ。どうふるまおうが私の自由ではないのか?」
「それなら、他の社員の思考も全て統一してくれよ。もう噂の的にはなりたくないね」
 短くなったタバコの灰をトントンと落として、桜井は深く煙を吸い込む。そして細く白い煙を吐き出した。
 携帯灰皿にそれを押し付けて火を消すと、
「君とは違うんだよ」
 錆び付いた階段の途中に立ち尽くす門倉の脇をすり抜けて、桜井は言った。
「桜井」
 扉を開ける手前、門倉の声に一瞬動きを止めると、門倉は桜井に背を向けたままで
「レストランを予約してある。今日7時に、僕のマンションへ」
「…ここから直接行けばいいのに」
「君もおかしなやつだな。一緒に車に乗って出かけるところを見られたら、弁解のしようがないだろう?」
 自分に背を向けている門倉が、眉をひそめている様子が容易に想像出来た。
 結局桜井は、誤解されるのが嫌なのか、それとも本当は誤解されたがっているのか、自分でも分からなかった。思わず肩をすくめる。
「了解。もう休憩時間が終わるから、行くよ」
 沈黙を了解と取って、桜井は門倉をその場に残して立ち去った。
 よく考えれば門倉は社内では必要以外のことは話しかけてこなかった気もする。今だって一緒に出なかったのは、他の社員に誤解されることを懸念してのことだろう。
 それに桜井が気が付いたのは、それから随分後の事だった。