恋のはじまり(サンプル)




(5〜7ページ)

 休日は示し合わせて図書館へ行くのが常だった。その時々でどちらかの家に近い方か、もしくは互いの家のちょうど中間にある、規模の大きな図書館かを決め、午前十時頃に待ち合わせる。
 図書館にある本が目当てというわけではなかったから、場所はどこでも良かった。だが、毎週の様に同じ場所に通うのもつまらないだろうということで、複数の箇所を転々としていた。
 その中でも二人が良く通っていたのは、規模の大きな、互いの家の間にある図書館だ。閲覧室の席数も多く、利用者も多いからその中に紛れ込むことが容易だったし、館内設備も充実していて文句の付け所がない、そんな場所だった。
 その図書館の中、二人は閲覧室の中でも隅の方にある、四人がけのテーブル席を好んで使っていた。その席は机の片方が中庭に面したガラスの壁に接する形で設置されており、美しく整えられた中庭がその季節に合わせた姿を見せてくれる。初めてこの図書館に来たときに、中庭を見た真田がその風景をいたく気に入ったため、それ以来、中庭に面したこの席が二人の定位置となった。また、隅の方ということもあり、使っている人がいない事が多い、というのも理由の一つだった。静かな方が落ちついて勉強が出来る。


 秋も過ぎ、街中からクリスマスソングが聞こえ始める季節、二人はまたこの図書館に来ていた。開館直後の図書館はまだ人気も薄い。二人は言葉を発せず静かに歩いて、いつもの席へと向かった。
 四人がけの席は前に利用したときと変わらぬ姿でそこにあった。そして誰も座っていなかった。
「良かった」
 そう手塚が呟いた。真田は手塚に同意するように頷いて、二人はそれぞれの定位置へと向かう。
 音を立てぬよう、そっと椅子を引き、腰掛ける。そして持ってきた鞄から、手塚はドイツ語の参考書を、真田は試験勉強用のテキストを取り出すと―立海大付属中はもうじき附属高校へ進学するための試験があるのだ―、後は互いに本に書かれた文字を追うことに没頭した。
 時折手塚が本のページを捲る音が聞こえる。また、真田が鉛筆をノートの上に走らせる音も。どちらも普段の喧噪の中にいれば聞き逃してしまうくらいの小さな音だが、図書館というこの静かな環境では全て耳に届く。顔を見なくとも、そこに相手がいる、ということが分かるだけで、安心出来る。
 そんな環境下で英語の問題集に取り組んでいた真田だったが、ふとした瞬間にぷつりと集中力が切れた。ふいと机の上に置いた腕時計を見れば、ここに来てから二時間が経とうとしている。もうそんな時間になるかと思った瞬間、肩が重く感じたので、少しだけ椅子を後ろに引くと、両肩を持ち上げるようにしてぐるりと腕を回した。
 その音に気付いたのか、手塚もまた参考書から顔を上げた。途端、二人の視線がぶつかり、真田は先に集中力を切らしたことを何となく後ろめたく感じた。
「すまん、うるさかったか?」
「いや、そろそろ休憩しようかと考えていた所に、お前が身体を動かし始めたのが目に入った。だから俺も顔を上げただけだ」
 手塚は眼鏡を外し机の上に置くと、眉間の辺りを指で摘むようにして刺激し始めた。眼鏡を外した手塚の顔は余り見る機会が無いこともあり、真田は肩を回すのを止め、まじまじと見てしまう。
 真田は目が良いから、眼鏡を外したときの手塚がどんな景色を見ているのか分からない。視力が悪い人が見ている景色に興味があって、同じように普段から眼鏡を掛けている柳生に一度そのことを訊ねた事があった。柳生は不思議な事を尋ねるのですねと言いながらも、距離が離れれば離れるほど、ぼんやりと滲んではっきりと見えなくなるのです、と教えてくれた。だが、ものが滲んで見える距離はその人の視力によるので、一概には言えない、とも言われた。
 手塚の場合、どれくらいの距離を取れば、ものが滲んで見えるのだろうか。真田は興味が出てきて、眼鏡を掛けようとした手塚を呼び止めた。
「手塚、お前が今座っているその場所から、眼鏡を掛けずにいた場合、俺の顔は見えるのか?」
「……どうして、そのような事を訊く」
「前から気になっていたのだが、眼鏡がないとどれくらい見えないものなのかと思ってな」
 真田からすれば、それは純粋な興味だった。だが、手塚は些かムッとしたような表情をして、しばし黙り込む。
「俺の視力が悪い事を馬鹿にしているのか?」
 暫く黙った後にそう言った手塚の声は、普段より少し低く、機嫌を損ねたらしいことは真田でも分かった。と同時に真田は驚いた。今の発言が手塚の機嫌を損ねるとは思ってもみなかったのだ。
「勘違いするな、別にお前を馬鹿にしているわけではないぞ。単純な興味だ」
「どうして俺の視力に興味を持つ」
 そう言われて、真田は答えに窮した。何となく、などと言えばまた手塚の機嫌を損ねるかもしれない。だが、手塚が納得してくれそうな上手い理由も、すぐには思いつかなかった。
 暫く考えた後、真田は次の句を探しながら、その理由を紡いでいく。
「俺は、お前にはなれない。だから、お前がどのような風景を見ているのか、興味があるというのはおかしいか。例えば、この中庭も、眼鏡を掛けている時は俺と同じように見えているのだろうが、外せばまた違った風に見えるのだろう?」
「それはそうだが……」
 手塚にとって、真田の答えた理由は予想外のものだったらしく、暫く何か考えるようなそぶりを見せた。が、手に持っていた眼鏡を再度机の上に置くと、
「ここからでは、お前がいることは分かるが表情までは分からない」
「そうなのか? どれくらいぼんやりとしているのだ」
 手塚が自分の質問に答えてくれたことが嬉しくて、真田は更に質問を重ねる。手塚はどう言えばいいのか迷いながらも、
「おぼろげに、目があるとか口があるとかは分かるが」
 と答えた。
「どれくらい近づけば、はっきりと見えるようになるのだ?」
「そうだな……」
 手塚はテーブルに両手をつくと、ぐい、と身を乗り出した。そして、眉間に皺を寄せるようにして顔をしかめると、まだ見えないな、と言う。
「この距離でも見えないのか」
 それならば、これでどうだ、と真田は机に備え付けられた照明装置を避けるようにして手塚の方へと身を乗り出した。

(続く)